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川崎市立日本民家園・船越の舞台

2016-05-12 20:30:39 | 川崎市立日本民家園
民家園最後の一つは、三重県志摩市大王町船越にある「船越の舞台」。どこに入れたものやら考えてる内に忘れてた。。

ここで上演されていたのは主に歌舞伎です。歌舞伎は17世紀末頃たいへん盛んになり、
京都・大阪・江戸に舞台が造られ始め、おいおい全国に広がっていったようです。
船越は海女漁で栄えた漁村で、建てられたのは江戸時代末期の安政四年(1857年)。
その頃この地域の経済状態がよかったことを示すように、たいへん立派な造りになっているそうです。

こうした古い舞台は、都市部では徳川幕府の禁令や戦火、また新しい劇場などへ建てかえられてしまったため残っていず、
かえって地方で遺構が残されていたそうです。
多く残されているのは、南会津、群馬県赤城山麓、岐阜県東南部から愛知県三河、志摩、神戸北方、小豆島など。
農村、山村に多いそうですが、この船越の舞台は漁村にあったのが珍しいようです。

南部の曲屋も立派でしたが、漁村の舞台もこれだけ立派なものだとすると、
江戸末期には経済の豊かさがかなり地方の隅々まで行き渡っていたんだなあ。でも、黒船はもうすぐそこまで。

(ちなみに海女漁では、アワビがたいへん割がよかったようです。干しアワビは中国との交易での重要な品目だったそうです。
海と山が迫って平地の少ない三陸地方に人口が集中したのは、アワビが獲れたから。伊勢志摩もアワビの産地なんですね。
しかし中華料理の干しアワビって、目ん玉飛び出るくらい高いですよね。そんなにおいしいのかしら……。。


てっぺんの飾り瓦を大棟鬼瓦といい、「若」とあるのは、若者組制度の人たちによって運営、上演されていたことを示すそうです。
当時歌舞伎は、村人が上演もする地芝居と、役者は職業的な人を招く買芝居があったそうですが、
この船越では、若者組の人たちによる地芝居が上演されていたようです。
宮本常一さんによれば、普通の村人がやる地芝居でも評判がいいと、農閑期などによそへ行って上演することもあったそうです。
数少ない、華やかな娯楽だったんでしょうね。幕府で禁令が出たぐらいだし。ていうか歌舞伎ぐらいいいのにねえ。。。ケチ。


明治10年代に入ると地芝居は衰退し、その後は買芝居が主になりますが、船越に残されていた上演記録によると、
買芝居が行われたのは戦時体制に入る前の昭和12年までで、大戦中は行われず、
戦後復活しましたが昭和38年を最後に歌舞伎は行われなくなり、集会場として使われていたそうです。
昭和38年というと東京オリンピックの前年。ちょうど日本の大きな変化の波と符号しているようです。

その頃東京にいたという年配の方に話を聞くと、とにかくオリンピックを境にしての変わりようはものすごかったそうで、
泥道の舗装工事で気をつけていないと板を踏み外したり、上では高い建物の工事が進みと、街を歩くのが大変だったそうです。
それまでは、たとえば代官山なんて寂しい所で、人さらいが出るって言われてたんですよ・・・!!
ちょうどオリンピックをはさんで外国に暮らしていたという方は、オリンピックが終わって帰って来たら、
日本橋の空に高速道路が走っていて、駅では自動販売機で切符を買うようになっていたので、
慣れない内は一人で切符も買えなかったと言っていました。
その頃は海外赴任となると何年も帰国できないのが当たり前で、見送りには空港まで一族郎党友人知人かけつけて、
さながらみんなでバンザイして見送る壮行会。昭和は遠くなりにけり、でありますなあ。




円形に切れた床がありますが、これは回り舞台です。この写真下真ん中の図だと仕組みがわかりやすいです。
筒井康隆さんの、たまに裏表のない語ものってる「現代語裏辞典」によりますと、
1758年に世界初の回り舞台ができたのが大阪の角座という劇場だそうです。へえー。。
劇場の歴史はヨーロッパの方が古いと思うんですが、こういう新奇な仕掛けが好きだったのか、
それとも木造建築の構造的にやりやすかったのか。でも縁の下で回す方は大変そうだ。。


地方の舞台の観客席は基本野天なので、雨の日は上演中止だったそう。でもお天気いいと気持ちよかったでしょうね。



・・・東京オリンピック、前回はぐんと上り坂のきっかけになったけど、今回はケチもつきまくったせいか、
あんまり上る気がしないんですよね。。。
そういう巨大イベントで、多くの人々の気持ちが浮揚するような時代では、もうないのかなって気もします。
でもまあ、まずはオバマさんが広島に来てくれるそうで、それはやっぱりうれしいですね。よっ、大統領!


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