茨城県笠間市の太田家の天井です。ん~、この細工、ほれぼれしますね。
川崎市立日本民家園が設立されたのは昭和四十二年、初めての東京オリンピックから三年後になりますね。
民家園にある民家は、ほとんどその頃に解体が決まったようなのです。
ちょうどその頃から、日本全国津々浦々、生活の変化から人々の気持ちに大々的な変化が起こり、
それまで住んでいた古い家に替わって新しい家を建てよう!という流れになったのかなあと思います。
私は昭和四十三年生まれですから、ちょうどその境目の感じを見て来たはずなんですが、うーん、どうだったかな。。
でも民家園を思いついて実現した人たちは、先見の明があったと思います。
おそらくそういったことができる最後のタイミングで、本当に、その時でなければならなかったことですから。
千葉県山武郡九十九里浜町作田の作田家。この一帯は地曳網によるいわし漁の栄えた場所だそうです。
江戸時代には日本最大のいわしの漁獲量をほこっていたとのこと。
作田家は地元でもよく知られた旧家で、網元を営んでいたそうです。
作田家の女性は、外出する時には駕篭を使ったと説明にありましたから、相当なお家ですね。家名が地名になってるぐらいだし。
網元なのに一見ふつうの農家と変わりないように見えるのは、海岸から2400メートルも離れた内地にあったからのようです。
これは九十九里浜の漁家の特徴で、漁具を格納する納屋だけが海岸近くに設けられていました。
地曳き網にいわしが入った時には漁師が作田家にかけつけ、内陸の集落から多くの人がかけつけて網を引き上げたんだそうです。
写真は「ろ(櫓)」。本来はこれも海岸近くの納屋にしまってあったんでしょうね。
いわしは食用のほか、干したものが当時の農家の重要な肥料として各地で使われました。
なんだかもったいないような気もするんですが、この頃の農業での最重要課題は土地を肥やすことだったようで、
作田家で作られた「ほしか」(干したいわし)は、関西の方まで出荷されていたそうです。
でも今はいわしもけっこう高いからなあ。。。
作田家が建てられたのは、一番古い部分で17世紀後半頃らしく、その後は増改築を繰り返して来たようです。
二つの家がくっついたような形が特徴的で、これを分棟型とか別棟型というそうです。
屋根の境に下の写真のような大きな雨樋(丸太のように見えますが、中がくり抜いてある)が設けられています。
宮本さんの本で調べましたら、この分棟型の家というのは、南方の島々や太平洋岸に多い造りだそうです。
おそらく、古くには本当に二つの家に分かれていたのが(煮炊きをする土間の釜屋と、座敷やいろりなどがある主屋)、
便利のいいよう段々一つの家になっていったらしいです。
ではなぜ、古くは不便な二つ家だったのか?
これについてははっきりわかっていないようですが、宮本さんは一つの説として、こう書いています。
かつての主屋は先祖や神様を祭る所で、だから床を一段高く上げている。夜は神様に守られて眠る場所だった。
一方、釜屋は火を使い日常生活をする土間であったので、神様を祭る主屋とは少し離していたのではないか。ハレとケ。
これ、大変面白い話ですよね。もしも宮本さんの考えた通り、主屋がもともと神様をまつるものだったとしたら、
なぜ後世、奈良の井岡家にあったように、土間のかまどに宿るかまど神が一般的になったんだろうと。
こんな風に、長い年月の内によくわからない変化を遂げるのが日本の神様なのです。
でもやっぱり、変わってゆくのには、それなりに納得のいく理由があったりするんですよね。
信越地方での仏間やかまど神など、家の中に神仏を大切に祭るのが、日本の古い風習だったようです。
これは日本に限りませんが、神様仏様って、宝くじ当てるとか災難除けとかの願いごとを叶えてくれるより何より、
自分がバカで儚い存在だってことを思い出させてくれるのが、一番の役目だったんじゃないかという気がします。
謙虚になるって、時にはすごく難しいことですよね。好事魔多し。昔の人はえらかった!
作田家は解体の際に、礎石の下に貝殻を砕いたものを敷いていたことがわかったそうで、
これは砂利のとれないこの地域ならではの工夫だったようです。
いろりの上の柱は松の曲材を使っているそうです。これが実にらしいんですよねえ。。
主屋からかぎの手に曲がってとび出ている部分はお風呂場です。
風呂場といっても浴槽はなく、板張りの床に低い椅子があるだけですが、当時は普通にはない設備で、
これもやはり代官の接待や宿泊のために必要とされたんだそうです。
奥に見えるいろりのある部屋は「かみ」というらしいです。作田家には、いろりは「ちゃのま」と「かみ」とに、二つあります。
「かみ」の格子窓は関東地方の民家に多く見られ、千葉では「はんど」というそうです。
山梨県塩山市上萩原にあった広瀬家。甲府盆地の切妻屋根の民家です。
大変屋根が低く見えますが、これは風の強い山の斜面にあったからだそうです。
いろりで火を焚くボランティアの方。すっかりなじんでますね。
広瀬家の特徴は、このゴザがひいてある「ドジ」の部分。
普通の民家では、土間から板敷きの間に上がる形が多いんですが、広瀬家では土間に茅束を敷き、
その上にゴザをひいた所にいろりがあり、これを「イドコ(土座)」というそうです。
甲府盆地のほか、東北・中部・北陸に見られる古い形だそうです。
古民家は長い年月の間にかなり改築されているそうなんですが、
この民家園では、わかる限り、なるべく古い形に復元して移築したようです。
移築のために解体した際に古い礎石が見つかったりと、初めてわかることも多かったそう。
ちなみにこの広瀬家も、解体時にはこの土座の上に床が張られていたそうです。
土間と土座に高さの差がほとんどないことがわかりますでしょうか。
ちなみにこの土座、ちょっとふかっとして足裏にやさしい感じです。
土間の上にある中二階。広瀬家は屋根が低い上に出入り口や窓も少なく、民家園の中でもかなり屋内が暗いです。
これは甲府盆地の、特に古い民家でないと見られない構造だそうです。どうりで失敗写真が多かったわけだわ……
うまやには色々な道具が置いてあります。この写真も元はまっ暗けでした。
右手前の道具は、こうして車の上に大きな材木を乗せて運んだもののようです。
民家園のほとんどの家には、機織機や養蚕部屋があります。
ふと、租庸調ってなんだっけ、、と調べたら、正調という税がありまして、絹は調絹、布は調布と分かれていて、
高貴な人々の用いる最高級品である絹は、布の内には入れないんですと。
調布の布は麻や苧(オ)・葛など絹以外の繊維製品のことをさしたそうです。絹道は奥深いですなあ。。
でも、そうして絹織物で税を治めるとわりがよかったのかな?軽いから運ぶのも楽でしょうしね。
・・・あっ!そうか。もしやと思ったら、調布という地名はやはり調で布を納めていたことに由来するそうです。
だから以前には、調布市の他にも調布の地名を持つ所が何カ所かあったそうです。
田園調布は今も調布がつく地名ですが、調布市じゃないですもんね。はー、なるほどなあ。
暗くてわかりにくいですが、手前がザシキ、奥がナカナンド。
切妻の面に見える太い柱を棟持柱(むなもちばしら)といい、こうして棟持柱を見せるのが甲府盆地の民家の特色だそうです。
小さい窓の格子も細工が凝ってますね。これは竹かな。
茨城県笠間市片庭にあった太田家。この家も九十九里浜の作田家と同じ別棟型で、主屋と釜屋の間に太い雨樋があります。
また、土間のある釜屋が主屋より前に出る形になっています。
写真には写っていませんが、土間の右側にあるうまやはさらに前に突き出て、南部の曲がり屋風になっているそうです。
いい感じに男の子が入ってくれました。この家が現役時代には、こうした眺めが日常的に見られたんでしょうね。
笠間は栃木との県境に近い土地。結城紬のwikiを読むと、この辺で織られた紬も結城紬と言っていいようです。
着物に詳しい方に聞いたんですが、紬の最上級品は、農家のおばあちゃんがつばで撚った糸で織ったものなんだそうです。
何がかは忘れたけど、機械織りと全然違うらしいです。
これが店に出るとすんごい高値がつくんですが、直にその農家に買いに行くと市価よりも安く買えるんだそうです。
つてがないとダメだと思うけど。。そして何より肝心なのは現金一括払いなことだそうです。
ひろま前面に格子窓を設けるのは関東の古民家全般に共通した特色だそうです。これも「はんど」かな?
ひろま奥の「へや」は、寝室として使われていたようです。ひろまよりも一段高く、踏み込むようになっています。
うん、やっぱり夜眠るのは、神様のいる高く上げた部屋だったのかも。この時は蓑やかざぐるまが置いてありました。
太田家は土間が主屋と同じくらい広く、脱穀などの作業もここでやっていたようです。
中央は馬につけた鞍でしょうか。左にあるのはむしろ織り機です。
石臼石臼ゴーリゴリ♪
三連かまど。ガスコンロの前身のおもかげが感じられますね。
二つの棟の隙間に明るい空が見えますね。雨樋は栗の丸太をくりぬいたもの。
(※この写真の左下にある図を拡大すると造りがわかりやすいです。)
樋がつまると家の中に雨水があふれたそうです。大変だー!
関東の村になぜか一陣の南風。沖衣良部島の高倉です。
川崎市は沖縄出身の人が多いそうで、沖衣良部島は沖縄ではないけれど(鹿児島県)、
あちらの風土を思わせるということで、この高倉の移築が計画されたそうです。
空調のよい高倉は食物の保存に使われました。柱上部の金属部はネズミ返しです。チュー!
倉の下は子どもの遊び場や休憩の場、または籾摺りなどをする場だったそうです。なるほど、涼しそうな日陰ですもんね。
民家園の解説の本や宮本さんの本読んでると、あそこどうだったっけな、よく見てなかったなあみたいな所が次々と思い浮かび、
またすぐにでも民家園に行きたい気持ちにかられます。知れば知るほど面白くなるんだよねえ、こういうのって。
正直な気持ちをいいますと、天守閣のある優雅な城よりも、ベルサイユ宮殿やアンコールワットよりも、
私はこうした日本の古民家が、世界で一番美しい建築物だと思ってるのです。日本人だからかも知れませんが。
民家のいい所は、そこに住む人の姿や暮らしぶりが、ありありとうかがえるように思うことです。
何百年も前に建てられて、今でも普通に人が住んでいるヨーロッパの石造りの建物も好きなんだけれど、
一番うらやましいのは、地震がないために、そんなにも長く人が住み続けられることかなあ。日本の家は儚すぎるよ。。。
川崎市立日本民家園が設立されたのは昭和四十二年、初めての東京オリンピックから三年後になりますね。
民家園にある民家は、ほとんどその頃に解体が決まったようなのです。
ちょうどその頃から、日本全国津々浦々、生活の変化から人々の気持ちに大々的な変化が起こり、
それまで住んでいた古い家に替わって新しい家を建てよう!という流れになったのかなあと思います。
私は昭和四十三年生まれですから、ちょうどその境目の感じを見て来たはずなんですが、うーん、どうだったかな。。
でも民家園を思いついて実現した人たちは、先見の明があったと思います。
おそらくそういったことができる最後のタイミングで、本当に、その時でなければならなかったことですから。
千葉県山武郡九十九里浜町作田の作田家。この一帯は地曳網によるいわし漁の栄えた場所だそうです。
江戸時代には日本最大のいわしの漁獲量をほこっていたとのこと。
作田家は地元でもよく知られた旧家で、網元を営んでいたそうです。
作田家の女性は、外出する時には駕篭を使ったと説明にありましたから、相当なお家ですね。家名が地名になってるぐらいだし。
網元なのに一見ふつうの農家と変わりないように見えるのは、海岸から2400メートルも離れた内地にあったからのようです。
これは九十九里浜の漁家の特徴で、漁具を格納する納屋だけが海岸近くに設けられていました。
地曳き網にいわしが入った時には漁師が作田家にかけつけ、内陸の集落から多くの人がかけつけて網を引き上げたんだそうです。
写真は「ろ(櫓)」。本来はこれも海岸近くの納屋にしまってあったんでしょうね。
いわしは食用のほか、干したものが当時の農家の重要な肥料として各地で使われました。
なんだかもったいないような気もするんですが、この頃の農業での最重要課題は土地を肥やすことだったようで、
作田家で作られた「ほしか」(干したいわし)は、関西の方まで出荷されていたそうです。
でも今はいわしもけっこう高いからなあ。。。
作田家が建てられたのは、一番古い部分で17世紀後半頃らしく、その後は増改築を繰り返して来たようです。
二つの家がくっついたような形が特徴的で、これを分棟型とか別棟型というそうです。
屋根の境に下の写真のような大きな雨樋(丸太のように見えますが、中がくり抜いてある)が設けられています。
宮本さんの本で調べましたら、この分棟型の家というのは、南方の島々や太平洋岸に多い造りだそうです。
おそらく、古くには本当に二つの家に分かれていたのが(煮炊きをする土間の釜屋と、座敷やいろりなどがある主屋)、
便利のいいよう段々一つの家になっていったらしいです。
ではなぜ、古くは不便な二つ家だったのか?
これについてははっきりわかっていないようですが、宮本さんは一つの説として、こう書いています。
かつての主屋は先祖や神様を祭る所で、だから床を一段高く上げている。夜は神様に守られて眠る場所だった。
一方、釜屋は火を使い日常生活をする土間であったので、神様を祭る主屋とは少し離していたのではないか。ハレとケ。
これ、大変面白い話ですよね。もしも宮本さんの考えた通り、主屋がもともと神様をまつるものだったとしたら、
なぜ後世、奈良の井岡家にあったように、土間のかまどに宿るかまど神が一般的になったんだろうと。
こんな風に、長い年月の内によくわからない変化を遂げるのが日本の神様なのです。
でもやっぱり、変わってゆくのには、それなりに納得のいく理由があったりするんですよね。
信越地方での仏間やかまど神など、家の中に神仏を大切に祭るのが、日本の古い風習だったようです。
これは日本に限りませんが、神様仏様って、宝くじ当てるとか災難除けとかの願いごとを叶えてくれるより何より、
自分がバカで儚い存在だってことを思い出させてくれるのが、一番の役目だったんじゃないかという気がします。
謙虚になるって、時にはすごく難しいことですよね。好事魔多し。昔の人はえらかった!
作田家は解体の際に、礎石の下に貝殻を砕いたものを敷いていたことがわかったそうで、
これは砂利のとれないこの地域ならではの工夫だったようです。
いろりの上の柱は松の曲材を使っているそうです。これが実にらしいんですよねえ。。
主屋からかぎの手に曲がってとび出ている部分はお風呂場です。
風呂場といっても浴槽はなく、板張りの床に低い椅子があるだけですが、当時は普通にはない設備で、
これもやはり代官の接待や宿泊のために必要とされたんだそうです。
奥に見えるいろりのある部屋は「かみ」というらしいです。作田家には、いろりは「ちゃのま」と「かみ」とに、二つあります。
「かみ」の格子窓は関東地方の民家に多く見られ、千葉では「はんど」というそうです。
山梨県塩山市上萩原にあった広瀬家。甲府盆地の切妻屋根の民家です。
大変屋根が低く見えますが、これは風の強い山の斜面にあったからだそうです。
いろりで火を焚くボランティアの方。すっかりなじんでますね。
広瀬家の特徴は、このゴザがひいてある「ドジ」の部分。
普通の民家では、土間から板敷きの間に上がる形が多いんですが、広瀬家では土間に茅束を敷き、
その上にゴザをひいた所にいろりがあり、これを「イドコ(土座)」というそうです。
甲府盆地のほか、東北・中部・北陸に見られる古い形だそうです。
古民家は長い年月の間にかなり改築されているそうなんですが、
この民家園では、わかる限り、なるべく古い形に復元して移築したようです。
移築のために解体した際に古い礎石が見つかったりと、初めてわかることも多かったそう。
ちなみにこの広瀬家も、解体時にはこの土座の上に床が張られていたそうです。
土間と土座に高さの差がほとんどないことがわかりますでしょうか。
ちなみにこの土座、ちょっとふかっとして足裏にやさしい感じです。
土間の上にある中二階。広瀬家は屋根が低い上に出入り口や窓も少なく、民家園の中でもかなり屋内が暗いです。
これは甲府盆地の、特に古い民家でないと見られない構造だそうです。どうりで失敗写真が多かったわけだわ……
うまやには色々な道具が置いてあります。この写真も元はまっ暗けでした。
右手前の道具は、こうして車の上に大きな材木を乗せて運んだもののようです。
民家園のほとんどの家には、機織機や養蚕部屋があります。
ふと、租庸調ってなんだっけ、、と調べたら、正調という税がありまして、絹は調絹、布は調布と分かれていて、
高貴な人々の用いる最高級品である絹は、布の内には入れないんですと。
調布の布は麻や苧(オ)・葛など絹以外の繊維製品のことをさしたそうです。絹道は奥深いですなあ。。
でも、そうして絹織物で税を治めるとわりがよかったのかな?軽いから運ぶのも楽でしょうしね。
・・・あっ!そうか。もしやと思ったら、調布という地名はやはり調で布を納めていたことに由来するそうです。
だから以前には、調布市の他にも調布の地名を持つ所が何カ所かあったそうです。
田園調布は今も調布がつく地名ですが、調布市じゃないですもんね。はー、なるほどなあ。
暗くてわかりにくいですが、手前がザシキ、奥がナカナンド。
切妻の面に見える太い柱を棟持柱(むなもちばしら)といい、こうして棟持柱を見せるのが甲府盆地の民家の特色だそうです。
小さい窓の格子も細工が凝ってますね。これは竹かな。
茨城県笠間市片庭にあった太田家。この家も九十九里浜の作田家と同じ別棟型で、主屋と釜屋の間に太い雨樋があります。
また、土間のある釜屋が主屋より前に出る形になっています。
写真には写っていませんが、土間の右側にあるうまやはさらに前に突き出て、南部の曲がり屋風になっているそうです。
いい感じに男の子が入ってくれました。この家が現役時代には、こうした眺めが日常的に見られたんでしょうね。
笠間は栃木との県境に近い土地。結城紬のwikiを読むと、この辺で織られた紬も結城紬と言っていいようです。
着物に詳しい方に聞いたんですが、紬の最上級品は、農家のおばあちゃんがつばで撚った糸で織ったものなんだそうです。
何がかは忘れたけど、機械織りと全然違うらしいです。
これが店に出るとすんごい高値がつくんですが、直にその農家に買いに行くと市価よりも安く買えるんだそうです。
つてがないとダメだと思うけど。。そして何より肝心なのは現金一括払いなことだそうです。
ひろま前面に格子窓を設けるのは関東の古民家全般に共通した特色だそうです。これも「はんど」かな?
ひろま奥の「へや」は、寝室として使われていたようです。ひろまよりも一段高く、踏み込むようになっています。
うん、やっぱり夜眠るのは、神様のいる高く上げた部屋だったのかも。この時は蓑やかざぐるまが置いてありました。
太田家は土間が主屋と同じくらい広く、脱穀などの作業もここでやっていたようです。
中央は馬につけた鞍でしょうか。左にあるのはむしろ織り機です。
石臼石臼ゴーリゴリ♪
三連かまど。ガスコンロの前身のおもかげが感じられますね。
二つの棟の隙間に明るい空が見えますね。雨樋は栗の丸太をくりぬいたもの。
(※この写真の左下にある図を拡大すると造りがわかりやすいです。)
樋がつまると家の中に雨水があふれたそうです。大変だー!
関東の村になぜか一陣の南風。沖衣良部島の高倉です。
川崎市は沖縄出身の人が多いそうで、沖衣良部島は沖縄ではないけれど(鹿児島県)、
あちらの風土を思わせるということで、この高倉の移築が計画されたそうです。
空調のよい高倉は食物の保存に使われました。柱上部の金属部はネズミ返しです。チュー!
倉の下は子どもの遊び場や休憩の場、または籾摺りなどをする場だったそうです。なるほど、涼しそうな日陰ですもんね。
民家園の解説の本や宮本さんの本読んでると、あそこどうだったっけな、よく見てなかったなあみたいな所が次々と思い浮かび、
またすぐにでも民家園に行きたい気持ちにかられます。知れば知るほど面白くなるんだよねえ、こういうのって。
正直な気持ちをいいますと、天守閣のある優雅な城よりも、ベルサイユ宮殿やアンコールワットよりも、
私はこうした日本の古民家が、世界で一番美しい建築物だと思ってるのです。日本人だからかも知れませんが。
民家のいい所は、そこに住む人の姿や暮らしぶりが、ありありとうかがえるように思うことです。
何百年も前に建てられて、今でも普通に人が住んでいるヨーロッパの石造りの建物も好きなんだけれど、
一番うらやましいのは、地震がないために、そんなにも長く人が住み続けられることかなあ。日本の家は儚すぎるよ。。。