生田緑地東口ビジターセンターから入ってすぐに見えるのが宿場と書かれたこの柱。
川崎市立民家園は、東日本の古民家を中心に集めた野外博物館だそうです。
解説本読んでて思ったけれど、日本は自然災害だけでなく、火事も多かったんですね。
特に密集した町では大火で失われた民家が多かったそうで、いやよく残ってたもんだと。木造だからなあ……。
民家園は宿場、信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村の五つのエリアに分かれていまして、
記事もそのエリアごとにまとめる予定です。
最近は、浅草に行ってもみなとみらいに行っても花見に行っても外国からの観光客がとても増えましたが、
この民家園はGWでかなりの人出だったものの、外国の人率が低めに感じました。ですが
私が外人だったら絶対この民家園に来たいにちがいない。
というわけで、友人知人に外国の方いらっしゃる人は、ここを案内することをおすすめいたします。
近くには藤子・F・不二雄美術館もあります(こちらのがすごい人でした。その内ここも行ってみたい)。
民家園は入園料一般500円で安いですよ。登戸からバスかタクシー使うと便利です。
来ていた外国の人(欧米系のおじさん)が英語で案内しているガイドのおじさんに、
「入母屋造りのイリは『入る』のイリですか?」などと流暢な日本語でつっこんだ質問をしていました。
上級者ですね。森のなかまも読めないぞ!
宿場エリアに入ってまず右手に見える大きな家は原家。この家は建築年代がはっきり記録に残っているそうで、
明治43年起工だそうです。比較的新しめの古民家で、ガラス窓も使ってますね。
原家は川崎市小杉の豪農で、持ち山の木でこの家の木材を全部まかなったそう。
欅(けやき)を多く使っていて、欅はねじれや狂いが生じやすい木材だそうなんですが、
かなり長期間かけて木材のクセを取ってから使用したため、ゆがみも出なかったとのこと。
新しい家を建てようとなってから木材の準備を始め、二十年がかりで着工したという、
昔はまあなんて長いスパンでものを考えたんでしょうね。。。
五月の節句用の飾り。は、原家所蔵のものだったかはわかりませんが、家に見合う立派な飾りですね。
よく見るとこの廊下って檜ですかね……すごいねこれだけの幅の板取れる檜の大木って。。。
この日はこの原家でボランティアの方々が古民家カフェをやっていて、帰り道においしいコーヒーを頂きました。
いい感じでしょう?
原家の隣に並ぶのは鈴木家(屋号は赤浦屋)。福島市松川町にあった馬宿をやっていた家だそうです。
松川町は、城下町の福島と二本松の間にある大きな宿場町で、八丁目宿と呼ばれており、
岩手青森の方から南部駒を白河の市に出すために、主に馬喰たちと馬が泊まった宿だそうです。
ここに馬が十四頭まで泊まれたそうです。(写真には写っていないけれど、もちろんもっと広いです。)
宮本さんの本にありましたが、牛は野宿できるんだけれど、馬は野宿はダメだそうで、宿に泊まらないといけないんですね。
牛は腹這いになれるけれど、腹這いは馬には無理がかかる体勢ですし、牛は道草をよく食ってくれるけれど、
馬はひざ丈よりのびた草は食べてくれないそうで、なかなかデリケートだったようです。ヒン。
馬がけっても大丈夫なように塗り壁の下の方は板張りになっています。パッカパカ。
福島の宿場民家の特徴はこの揚戸(あげど)。こんな感じで三枚下ろすそうです。
たしか平安の頃の雨戸ってこの形なんですよね。シャッター型。
鈴木家の向かいにあるのは井岡家(屋号は油屋)。ここの民家園では珍しく、奈良の町家の家です。
間口は狭めで、奥が深いのが関西の町家の特徴だそうです。ちなみにこの格子はシカ対策なんですと。さすが奈良!
油屋が家業の商店だったそうですが、後に線香屋さんから養子をもらって線香屋さんになったそうです。
よく火事にならなかったな。。。いえ、かえって火の始末には何倍も気を使ったのかも知れませんね。
かまどがあるこの土間は「にわ」だそうです。「だいどころ」は一つ前の写真のように座敷になっていますね。
このかまどがふだん使われていたそうです。
こちらの大きなかまどにこんな飾りがしてあって、なんだろうと思ったら、荒神(火の神)を祭るかまどだそうで、
正月のもちつき以外には使わないんだそうです。柳田國男さんによれば、かまど神は火の神で家の神でご先祖さまで、と、
いかにも日本らしいこみいった神様なんですが、かまど神を祭るのはとても大事な年中行事だったようです。
・・・あ、そっか。油や線香やの火に関わる商品を扱ってたから、特に火の神さまを大切に祭ってたのかも!
他の民家では、こんな風にふだんから祭っている大かまどはなかったようですし。
その甲斐あってか、奈良の町にたびたびあった大火の難からも、井岡家は逃れられたようです。
井岡家の次には佐地家の門と供待(ともまち)があります。写真は供待の裏の壁です。
現名古屋市の、尾張藩の城下町にあった官舎だそうです。
供待とは武士の屋敷の入口にある施設で、主人のお供をしてきた人たちが帰りを待っている場所だそうです。
民家ではないけれど、お供の人たちは武士ではないからなんでしょう。
江戸時代では、武士以外の町民が門を構えることは許されておらず、
例外的に、巡検の役人を迎える庄屋など最上級の家のみが、門を構えることを許されていたそうです。
だから門は一種のステータスシンボルになっていたようです。
とはいっても藩だ幕府だが門を造る費用持ってくれるわけじゃなし、お金かかってしょうがないわね。。
こちらは長野は伊那街道の宿場にあった三澤家(屋号は槌屋)。
名字のようで名字でない、屋号というのはちょっとわかりにくいんですけれど、家業を示す通称みたいなものでしょうか。
私が初めて目にしたのは横溝正史の小説でした。悪魔の手毬歌とか。ますやの娘がどうたら♪
三澤家は農業を主とする家でしたが、製薬・売薬を始めて成功し、宿場の有力者になった家筋だそうです。
半農半商といった感じだったようで、商家ながら農家のなごりの素朴さを残しているそうです。
大名行列が通る一級街道ではない、脇往還の町家の絶好の例だそうです。
なにやら効能ありげな薬の名札が並んでいますね。当時はこんな難しい漢字が読める人ってそんなにいなかったと思うから、
この札見ただけでいかにもありがたい感じがしたんじゃないかなあ。。
三澤家の特徴はこの石を置いた板葺き屋根で、岐阜や長野など木材に恵まれた山間部に広く見られるそうです。
一見、ちょっとみすぼらしく感じてしまったんですが、軸組や造作など木材の工作面ではむしろすぐれているんだそうです。
なるほど、こうして見るときれいだなあ。。整いすぎてないとこがいいんだな。
そういえばこんな感じ、現代美術とかデザインにありますよね。一周まわってモダンなのじゃ!
中に実物があったんですが、このように板が重なっていて、表に出ている部分を二、三年でひっくり返してまた使うんだそう。
民家園にある民家については、こちらに一軒ずつの説明があります。
ほんとに庶民の家は村人たち、つまり素人手で作る質素なもので、一世代ぐらいしか持たなかったそうです。
庶民の家は柱を直接土に埋め込む工法で、それだと長の年月のうちに柱が腐っていってしまうそうで。
民家園に保存されているような民家は、みな柱の下に石があり、それぞれの石の形に柱の根元を切って合わせて固定するそうで、
これはプロの大工さんじゃないとできないんだそうです。
でも、素人が作った家が一世代持ったら大したもんかも知れませんね。昔はみーんなTOKIOだったんじゃよ。
川崎市立民家園は、東日本の古民家を中心に集めた野外博物館だそうです。
解説本読んでて思ったけれど、日本は自然災害だけでなく、火事も多かったんですね。
特に密集した町では大火で失われた民家が多かったそうで、いやよく残ってたもんだと。木造だからなあ……。
民家園は宿場、信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村の五つのエリアに分かれていまして、
記事もそのエリアごとにまとめる予定です。
最近は、浅草に行ってもみなとみらいに行っても花見に行っても外国からの観光客がとても増えましたが、
この民家園はGWでかなりの人出だったものの、外国の人率が低めに感じました。ですが
私が外人だったら絶対この民家園に来たいにちがいない。
というわけで、友人知人に外国の方いらっしゃる人は、ここを案内することをおすすめいたします。
近くには藤子・F・不二雄美術館もあります(こちらのがすごい人でした。その内ここも行ってみたい)。
民家園は入園料一般500円で安いですよ。登戸からバスかタクシー使うと便利です。
来ていた外国の人(欧米系のおじさん)が英語で案内しているガイドのおじさんに、
「入母屋造りのイリは『入る』のイリですか?」などと流暢な日本語でつっこんだ質問をしていました。
上級者ですね。森のなかまも読めないぞ!
宿場エリアに入ってまず右手に見える大きな家は原家。この家は建築年代がはっきり記録に残っているそうで、
明治43年起工だそうです。比較的新しめの古民家で、ガラス窓も使ってますね。
原家は川崎市小杉の豪農で、持ち山の木でこの家の木材を全部まかなったそう。
欅(けやき)を多く使っていて、欅はねじれや狂いが生じやすい木材だそうなんですが、
かなり長期間かけて木材のクセを取ってから使用したため、ゆがみも出なかったとのこと。
新しい家を建てようとなってから木材の準備を始め、二十年がかりで着工したという、
昔はまあなんて長いスパンでものを考えたんでしょうね。。。
五月の節句用の飾り。は、原家所蔵のものだったかはわかりませんが、家に見合う立派な飾りですね。
よく見るとこの廊下って檜ですかね……すごいねこれだけの幅の板取れる檜の大木って。。。
この日はこの原家でボランティアの方々が古民家カフェをやっていて、帰り道においしいコーヒーを頂きました。
いい感じでしょう?
原家の隣に並ぶのは鈴木家(屋号は赤浦屋)。福島市松川町にあった馬宿をやっていた家だそうです。
松川町は、城下町の福島と二本松の間にある大きな宿場町で、八丁目宿と呼ばれており、
岩手青森の方から南部駒を白河の市に出すために、主に馬喰たちと馬が泊まった宿だそうです。
ここに馬が十四頭まで泊まれたそうです。(写真には写っていないけれど、もちろんもっと広いです。)
宮本さんの本にありましたが、牛は野宿できるんだけれど、馬は野宿はダメだそうで、宿に泊まらないといけないんですね。
牛は腹這いになれるけれど、腹這いは馬には無理がかかる体勢ですし、牛は道草をよく食ってくれるけれど、
馬はひざ丈よりのびた草は食べてくれないそうで、なかなかデリケートだったようです。ヒン。
馬がけっても大丈夫なように塗り壁の下の方は板張りになっています。パッカパカ。
福島の宿場民家の特徴はこの揚戸(あげど)。こんな感じで三枚下ろすそうです。
たしか平安の頃の雨戸ってこの形なんですよね。シャッター型。
鈴木家の向かいにあるのは井岡家(屋号は油屋)。ここの民家園では珍しく、奈良の町家の家です。
間口は狭めで、奥が深いのが関西の町家の特徴だそうです。ちなみにこの格子はシカ対策なんですと。さすが奈良!
油屋が家業の商店だったそうですが、後に線香屋さんから養子をもらって線香屋さんになったそうです。
よく火事にならなかったな。。。いえ、かえって火の始末には何倍も気を使ったのかも知れませんね。
かまどがあるこの土間は「にわ」だそうです。「だいどころ」は一つ前の写真のように座敷になっていますね。
このかまどがふだん使われていたそうです。
こちらの大きなかまどにこんな飾りがしてあって、なんだろうと思ったら、荒神(火の神)を祭るかまどだそうで、
正月のもちつき以外には使わないんだそうです。柳田國男さんによれば、かまど神は火の神で家の神でご先祖さまで、と、
いかにも日本らしいこみいった神様なんですが、かまど神を祭るのはとても大事な年中行事だったようです。
・・・あ、そっか。油や線香やの火に関わる商品を扱ってたから、特に火の神さまを大切に祭ってたのかも!
他の民家では、こんな風にふだんから祭っている大かまどはなかったようですし。
その甲斐あってか、奈良の町にたびたびあった大火の難からも、井岡家は逃れられたようです。
井岡家の次には佐地家の門と供待(ともまち)があります。写真は供待の裏の壁です。
現名古屋市の、尾張藩の城下町にあった官舎だそうです。
供待とは武士の屋敷の入口にある施設で、主人のお供をしてきた人たちが帰りを待っている場所だそうです。
民家ではないけれど、お供の人たちは武士ではないからなんでしょう。
江戸時代では、武士以外の町民が門を構えることは許されておらず、
例外的に、巡検の役人を迎える庄屋など最上級の家のみが、門を構えることを許されていたそうです。
だから門は一種のステータスシンボルになっていたようです。
とはいっても藩だ幕府だが門を造る費用持ってくれるわけじゃなし、お金かかってしょうがないわね。。
こちらは長野は伊那街道の宿場にあった三澤家(屋号は槌屋)。
名字のようで名字でない、屋号というのはちょっとわかりにくいんですけれど、家業を示す通称みたいなものでしょうか。
私が初めて目にしたのは横溝正史の小説でした。悪魔の手毬歌とか。ますやの娘がどうたら♪
三澤家は農業を主とする家でしたが、製薬・売薬を始めて成功し、宿場の有力者になった家筋だそうです。
半農半商といった感じだったようで、商家ながら農家のなごりの素朴さを残しているそうです。
大名行列が通る一級街道ではない、脇往還の町家の絶好の例だそうです。
なにやら効能ありげな薬の名札が並んでいますね。当時はこんな難しい漢字が読める人ってそんなにいなかったと思うから、
この札見ただけでいかにもありがたい感じがしたんじゃないかなあ。。
三澤家の特徴はこの石を置いた板葺き屋根で、岐阜や長野など木材に恵まれた山間部に広く見られるそうです。
一見、ちょっとみすぼらしく感じてしまったんですが、軸組や造作など木材の工作面ではむしろすぐれているんだそうです。
なるほど、こうして見るときれいだなあ。。整いすぎてないとこがいいんだな。
そういえばこんな感じ、現代美術とかデザインにありますよね。一周まわってモダンなのじゃ!
中に実物があったんですが、このように板が重なっていて、表に出ている部分を二、三年でひっくり返してまた使うんだそう。
民家園にある民家については、こちらに一軒ずつの説明があります。
ほんとに庶民の家は村人たち、つまり素人手で作る質素なもので、一世代ぐらいしか持たなかったそうです。
庶民の家は柱を直接土に埋め込む工法で、それだと長の年月のうちに柱が腐っていってしまうそうで。
民家園に保存されているような民家は、みな柱の下に石があり、それぞれの石の形に柱の根元を切って合わせて固定するそうで、
これはプロの大工さんじゃないとできないんだそうです。
でも、素人が作った家が一世代持ったら大したもんかも知れませんね。昔はみーんなTOKIOだったんじゃよ。