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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

プルースト著・吉川一義訳「失われた時を求めて4」を読んで

2012-08-16 09:24:36 | Weblog


照る日曇る日第531回

全14冊の文庫本の4冊目に当たる本巻は、第2編「花咲く乙女たちのかげに2」第2部「土地の名―土地」の全訳です。

パリを離れた主人公は、祖母や女中のフランソワーズと共にノルマンディー海岸の保養地バルベックにやって来て華やかな夏の避暑生活を享受します。

プルーストの分身である若き主人公は、やはり都会からやって来たアルベルチーヌやアンドレ、ジゼルなどのうるわしき乙女たちと出会い、そこで男女の駆け引きが始まるのですが、さすがにプルーストともなると、その道行は一筋縄ではいかない。

群生する様々な薔薇のような少女たちから徐々に朝霧のヴェールが取り払われると、おもむろに彼女たちの面差しや姿態、わけても人差し指の美しさやふっくらした柔らかさなぞに光が当てられ、一人ひとりの官能的な、そして知性的な特徴が微細に描写されていきますが、この様相をある詩人は、a rose is a rose is a rose is a roseとはしなくも歌ったのでした。

対象化された少女を対象化する自意識の微分積分、愛の結晶作用に関するスコラ的な思弁とコルクルームの内部の偏奇的な生の形而上学が、浜辺に打ち寄せる波のように果てしなく繰り返されるかと思うと、若者らしい常套手段に走った主人公が、思いびとアルベルチーヌをベッドに押し倒そうとして、思いっきり非常ベルを鳴らされる。

好きな女に一指を触れるまでに数年と数百ページを閲してはばからないのがプルースト的恋愛審美学の真骨頂ですが、またとなく主人公の欲情をそそる美少女を数ブロック追いかけ、やっとその顔をのぞきこむや、なんとなんと年老いたヴェルデュラン夫人だった、という逸話こそ、本巻の要蹄でありましょう。


           二列目の朝顔が咲かぬもどかしさ 蝶人

矢口史靖監督の「スウィングガールズ」を見て

2012-08-15 09:39:08 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.295

 柳の下にはもう一匹どぜうがいた。ウオーターボーイの後はスイングガールと来たぜ。
これは脚本や監督の演出、役者の活躍をうんぬんする以前にやはり企画の勝利というべきだろう。

 はじめは全然やる気のなかった高校三年生がひょんなことから楽器の魅力に取りつかれ、ジャズのビッグバンド演奏に夢中になっていく。今回の選手は楽譜も読めないのにまたしてもコーチに祭り上げられてしまうも面白い役どころ。

 ラストの東北大音楽祭での演奏はなかなか見せる。この個人プレイ満載のど派手なパフォーマンスが少女ジャズバンド人気に火をつけたことはよく分かるが、通常の吹奏楽の演奏もなかなかに奥が深い事を忘れては困ります。


坊さんの読経に応えアブラ鳴く13日は盆の入りなり 蝶人

イワン・プィリエフ監督の「カラマーゾフの兄弟」を見て

2012-08-14 13:42:23 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.292&293&294


1969年に旧ソ連で製作された映画である。

第1部を見て驚いたのは、登場人物のイメージが原作に近いというか、傷つけていないというか、とても好ましいこと。グルーシエンカとゾシマ長老はちょっと違うがカラマーゾフの父親と3兄弟、そしてとスメルジャコフなどは実に見事な配役ではないだろうか。

そして彼らが当たり前のことながらドストエフスキーの同名の書物に出てくるセリフを映画的違和感なしに滔々と喋りまくるのが素晴らしい。とりわけ父親の口吻は原作者に聞かせたいくらいの迫力だ。

第2部ではゾジマが聖人なのに異臭を発して死に、長老を尊敬していたアリョーシャは衝撃を受けながらも宗教界を離脱して実社会に飛びこもうとする。そこで勃発したのが謎の父親殺し。アリョーシャは長兄ミーシャの無罪を確信しているものの四囲の状況が悪すぎる。

「神無き世ではすべてが許されてある」と公言する次兄イワンと彼に心酔する使用人であり父フョードルの私生児であるスメルジャコフの不穏な動きが描かれるなか、元恋人のポーランド人将校の元に走った美女グルーシェンカを奪還すようとするミーシャの熱情は凄まじい。しかしイワンがアリョーシャに語る「大審問官とイエスの対話」はこの映画では封印されている。

第2部を完成させた直後に急死した監督の第3部は、長兄と次兄役の役者が共同で監督して完成させたそうだが、ここでは父親殺害の罪問われたミーシャの前で2人の美女が対決する。

ミーシャはファム・ファタール、グルーシェンカと新大陸アメリカに脱出するが、そこでいかなる運命が待ち構えているんだろう。想像するだにわくわくしてくるし、下男であり父フョードルの私生児でもあるスメルジャコフを指嗾して父を死に至らしめた次兄イワンと、恋人カテリーナの2人にはどのような未来がもたらされるのか。これまた興味深いものがある。

多くの人々が予想するように、その後のアリョーシャは汚辱にまみれたロシア社会の最底辺を行脚するうちに階級意識にめざめ、過激な社会主義者を経由してツアーリを暴力で打倒する一人一殺のテロリストになるに違いない。ドストエフスキーが亡くなった部屋の隣には、アレクサンドル2世の襲撃犯が潜んでいたのは周知の事実だ。

 作家はアリョーシャに仮託して早すぎるレーニンの伝記を書こうとしていたのだろう。作家の脳髄の内部だけで成立していた「神なき世ではすべてが許されている」という仮説が、続編では“現実のもの”になるはずだった。


    樹脂の香は悩ましくないか樹脂会社に勤める甥っこよ 蝶人

エルネスト・チェ・ゲバラ著「チェ・ゲバラ革命日記」を読んで

2012-08-13 09:28:55 | Weblog

照る日曇る日第530回

1956年12月2日、「グランマ号」という名のボートに乗ってメキシコからキューバに上陸したカストロ兄弟やアルゼンチン人医師のチェ・ゲバラなどわずか82名の武装勢力が1959年1月1日にバチスタ政権を武力で打倒するまでの革命闘争を記録した文字通りの日録である。

シエラ・マエストラを拠点とした少数精鋭の革命軍は、バチスタ軍を奇襲していくつもの勝利を収めるがその行軍は困難に満ち満ちたものであり、多くの犠牲者を出しながらも一歩後退二歩前進というような形で進んで行く。

持病のぜんそくに苦しみ、待ち伏せ、死亡、負傷、裏切り、処刑……殺すか殺されるかの極限状況を体験しながら、ゲバラの筆致はラテン的な楽天性と理知的な冷静さの両方を兼ね備え、ときおり皮肉やユーモアも交ざっていて興味深い。

指導者のカストロは軍団連中に訓示を垂れ、「不服従」、「脱走」、「負けを認める」、の三つの罪を犯した者は死刑にするとアジっているが、過酷な行軍に耐えきれず除隊を願い出た少年兵には、バチスタ軍の逮捕を警告したうえでそれを許している。

ゲバラがボスであるカストロの命令に基本的には従いながらも、時々それを無視して我が道を行ったりするのも面白い。このような度量の大きさがキューバ革命を成功させた要因のひとつではなかろうか。

本書の末尾の付録には反乱軍の伝令を務めていたサンチエス・リディアのゲバラへの初々しいラブレターが紹介されていて微笑ましいが、その彼女が革命成就前夜の1958年12月12日、敵に捕えられ拷問のうえ惨殺されたと聞くと、思わず粛然と襟を正さざるを得ない。

そのために己の生をなげうつ程の不跋の信念がなければ革命なんて軽々に参加できないし、従って簡単には実現できないのであろう。



革命てふ言葉なんて発する力既に無くヤマトシジミ翼畳む 蝶人

瀬戸内寂聴著「烈しい生と美しい死を」を読んで

2012-08-12 08:22:02 | Weblog


照る日曇る日第529回 

えげつないタイトルだが、激烈な生涯を完走した伊藤野枝、辻潤、大杉栄、荒畑寒村などの革命家、詩人、芸術家などの生と死の火花を活写している全力疾走エッセイだ。

 葉山の日陰茶屋で新参者の野枝に出しぬかれた神近市子が、嫉妬に狂って刃物で大杉の首を刺した有名な事件も、結局は一世一代の色男、大杉栄の3つのフリーラブ行動方針の余滴であったことが本書を読んで呑み込めた。

 「春3月縊り殺され花に舞う」と詠んだこの大正の世之介は、ポスト大逆事件の革命運動の後退に焦れて女体狩に遁走し、1)お互いに経済上独立する 2)同棲しないで別居生活をする 3)お互いの自由(性的を含め)を尊重する、の3大マニュフェストを掲げて本妻の保子と対抗馬の市子に臨むのだが、意外や意外、大穴の伊藤野枝と相思相愛の仲になり、この清濁併せ呑む世紀の燃ゆる恋は大正12年9月の関東大震災における甘粕大尉らによる惨殺によって幕を閉じるのである。

 それにしても伊藤野枝のいきざまの物凄さよ。平塚らいちょうから譲り受けた「青踏」をなんとか発行しながら辻潤との間に2児、栄との間に5児をもうけている。たった28年の短い生涯の間に7人の子をたてつづけに産みながら、それこそ男をこやしに、女性として、人間としてあっけらかんと成長を遂げて行ったのである。

 本書でもっとも感動的なのは著者と歴史上の人物たちとの出会いで、とりわけ栄と野枝の長女魔子との哀切な対話、そして幸徳秋水に恋人管野須賀子を奪われた荒畑寒村との邂逅は、読者の胸を打たずにはいないだろう。

 いずれにしても著者がいうように、この本は、ある日突然電撃のごとく落下してその人を直撃し、「常識や倫理観、貞操をこっぱみじんにしてしまう恋の怪力」を知らない人には無縁の書物であろう。



     それが恋青天の霹靂我らを直撃す 蝶人

マーク・トウェイン著「トム・ソーヤーの冒険」を読んで

2012-08-11 10:04:17 | Weblog

照る日曇る日第528回


夏だ、休みだ、お子様ランチだ! ということで、柴田元幸氏の翻訳による文庫本を手にとってみましたが、これって全然子供が読む本ではないですね。

確かに悪戯者のトムが悪友どもをたぶらかしてペンキを塗らせたり、可愛いベッキーちゃんに恋したり、親友のハックたちと一緒に夜の墓場で殺人事件を目撃したり、家でして船に乗って野宿したり、島の洞窟でベッキーちゃんと一緒に行方不明になったり、殺人鬼インジャン・ジョーと遭遇したり、隠された埋蔵金を見つけたりいろいろするんだけれど、それはすでに青雲の志を懐いて世の中に出たもののやっさもっさするうちにくたびれ果てて消耗しこりゃあいったいなんのために生まれてきたんだべえ、なぞとほぞをかむ大の大人たちがおのが若き日々をゆくりなくも思い出し、心ゆくまで悔いんがための本なのである。

この少年童話の姿を借りた恐るべき予言の書は、しょせん人間、いや男には3つのタイプしかないと断言しているようだ。

生まれてはみたものの面白くもおかしくも無い生涯を全うするシド派、そこそこ冒険したあとで貯めたお金を元手に恋も事業も堅実に成功させてゆくトム派、そして大冒険の夢がついに実現し、一夜にして大富豪となったが自分の取り分なんか要らないから、元の乞食のような自由で奔放な浮浪生活に戻りたいと叫ぶハック派……。

 さて自分はどっちだったろうと考えながら、由比ヶ浜の波間に浮かぶわたくしだった。


昔から自分勝手な奴だったチャンスには滅法弱い鈴木一郎 蝶人



トニー・スコット監督の「デジャヴ」を見て

2012-08-10 10:02:45 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.292

これは第288回で紹介した同じトニー・スコット監督の「エネミー・オブ・アメリカ」に悪乗りしてさらに先を行くような映画で、ここでは、アメリカ政府は宇宙と地上のいたるところに張り巡らした精密な監視カメラで全住民のプライバシーを暴き尽くして犯罪を捜査しているのである。

 しかも単にターゲットを追跡して動画再生するのみならず、48時間に遡って既に生起した事象に現在時からかかわることすら出来るのであるから、これが本当ならノーベル賞どころか天地がデングリ返る世紀の大発見であろう。

 しかし普通はいくら最新科学技術を駆使しても、過去を書きかえて新しい現在をもたらすことなぞ不可能であると知っているから畏れ多い不可知の領域に踏み込むのを控えているのだが、この映画ではなんとNYでテロリストによって爆破転覆させたれた大型フェリー事故をなかったことにして死者をよみがえらせ悲劇を帳消しにしてハッピーエンドをもたらすのである。

 凄いというか無謀というかハチャメチャである。製作者も監督もとても正気とは思えないがたかが映画だからなにをどう描いても許されるのだろうね。


    三人の娘に手厚く介護され九十一を全うせしひと 蝶人

五社英雄監督の「御用金」を見て

2012-08-09 07:55:55 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.291

佐渡の金山から北船で運ばれてくる御用金を福井小浜近辺の貧しい藩が、日本海沿岸で横取りしようとたくらみ、漁村の人々を皆殺しにする。

その不正許すまじとひとり立ち上がった仲代達矢が、妻の司葉子や村の娘浅丘ルリ子、幕府の隠密中村錦之助などの協力を得て親友の家老、丹波哲郎を雪中の決闘で斃すというアホ馬鹿時代劇。

強欲な権力者である幕府対搾取される哀れな民衆という古典的な対決の構図を後生大事に振りかざして悦に入っている五社監督の強引できめの粗い演出はいかにも無神経そのもので不愉快だ。

ただ1ヶ所厳しい冬の寒さにかじかむ手を乳房の辺りに引き入れて温めてやる司葉子の愛情表現だけは心に残った。



三党協議党は最低だが橋下慎太郎ファシスト新党は史上最悪だろう 蝶人


荻上直子監督の「かもめ食堂」を見て

2012-08-08 08:57:49 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.290


フィンランドで撮影した日本映画なんて初めてではなかろうか。

監督が連れて行くのは小林聡美がたった一人で立ち上げた日本食堂。はじめのうちは全然お客がつかない。やって来るのは日本語をしゃべるアニメファンの若者だけ。

彼に「ガッチャマン」の主題歌を教えてくれと頼まれたところから物語は動きだし、片桐はいりやもたいまさこや夫に失踪されたフィンランド女性や以前ここでカフェを経営していた男などいずれも一癖ありそうな奇妙な人物ばかりが次々にやって来る。

ここは吹き溜まりでありアジールでもあるのだ。しかし地道な努力がみのってついに全席満員となる。

孤独なこころにじんとしみるユーモアとウイットがフィルムの奥底にゆっくり流れている味のある傑作である。どこかアキ・カウリスマキの世界に似ているなあ。


由比ヶ浜の沖合遥か抜き手切りオシッコしてから浜に戻れり 蝶人

ドナルド・キーン著作集第4巻「思い出の作家たち」を読んで

2012-08-07 08:37:04 | Weblog


照る日曇る日第527回


読んでも読んでも終わらないので往生しましたが、なんのことはない、この分厚い本には谷崎、川端、三島、安部、司馬について書かれた「思い出の作家たち」、鴎外、子規、啄木、太宰などについて書かれた「日本の作家」、二葉亭四迷から大江健三郎までざっと49名の文学者をとりあげた「日本文学を読む」、加えて「私の日本文学遥遥」、「声の残り」の凡そ5冊の単行本が内蔵されていたのだから、読みでがあるなどという生易しいものではなかったのです。

そう書くといやいや読み続けていたと誤解されそうなので心配ですが、この元アメリカ人、現日本人翁が書いた日本文学と文学者についてのあれやこれやの思い出噺は、酷暑に打ち負かされた世捨て人の腐りかけの脳髄に旱天の慈雨の如く投下された揮発性のヘロインのごとき悦楽作用をもたらしてくれたのです。

 因果は巡る風車、東奔西走日米合作回り灯籠の筆のすさびに、碧眼太郎冠者鬼院先生かく語りき。

明治21年鎌倉に遊んだ子規は、大雨の中頼朝の墓から八幡宮へ急ぐ途中で2度も喀血したこと。(これは家の近所の話なので生々しいな)

マリアカラスの「ルチア」を聴いた大江健三郎が、彼女の声は「女性のあらゆる可能性を集中したものだ」と断定したこと。(当たらずとも遠からず)

一度だけ市川の陋屋で会った永井荷風の「バートランドラッセルの優雅な英語に匹敵する美しい日本語」を聴いて驚嘆したこと。(ちと意外だなあ)

尾崎紅葉の「金色夜叉」は大愚作であるが「多情多恨」は紛れもない傑作であること。(さすがのご明察)

谷崎は漱石の「明暗」がうその組立からできていて、そこには作者の巧慧なる理知の働きがあるのみ、と喝破したこと。(これにはちと疑問)

荷風は「昔は良かった」というが、その昔の定義は時代と共に変わっていったこと。(しかり)

転向は、ある場合には自己保存の手段として必要であるばかりでなく、社会全体が要求することが多い。絶対に転向しない人に会うと場合によっては滑稽であり、場合によってはみじめであること。(しかりしかり)

親友の河上徹太郎が酔っ払って新橋の芸者の肩に自分の足を押しつけ、大声で『帰ろう』と叫んだのを見て断固絶交したこと。(これまた当然)

トルーマン・カポーティは、私がそれまでに会ったうちでもっとも不快かつ信用できない人物の一人であること。(真偽不明)

「豊饒の海」の取材で奈良桜井の大神神社に行った三島由紀夫が、近くの松を指差して「これは何の木ですか」と尋ね、その夜蛙の鳴き声を聴いた隣室の三島が「あれは何の声」とキーンに尋ねたこと。(三島は動植物に無感心な都会人だった)

川端康成が自殺したことを聞いた大岡昇平が「三島がノーベル賞をもらいさえすれば2人とも生きていたろう」と語ったこと。(さもありなん)

大江と三島がNYで連れだって高級玩具屋を訪れ、(恐らくあまりにも高価なので)三島が諦めた革製のサイのぬいぐるみを、大江が買ってしまったこと。(大人のくせにガキ大将みたい)

「次回は九月一日午前一〇時です」歯医者に告げられしその三ヶ月後の自分が見えない 蝶人

中平康監督の「狂った果実」を見て

2012-08-06 04:42:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.289


昭和31年当時の鎌倉駅や逗子葉山の海岸、とりわけ曾遊の芝崎が登場するのが懐かしい。むかし家族揃ってよくこの岩磯で泳いだり魚やウニをとったものだ。そんな鎌倉の海でことし4回目の海水浴を楽しんで来たところだ。

当時は水上スキーなどは珍しかったと思うが、これをごわごわの水着をつけた子に教えるのが若き日の津川雅彦。謎の女性北原三枝に一目惚れするのだが、結局は遊び上手の不良少年、石原裕次郎に略奪され、ラストで狂気の皆殺しに転落していくその暗い無表情が素晴らしい。

すべてを放棄し自己を滅却した死への逃亡こそ石原慎太郎の潜在願望だが、年を経るごとにその衝動が保守されてきたことは慶賀すべきか、はたまた哀しむべきことなのかさっぱり分からない。

やんちゃで笑止千万な太陽族!?を演じる裕次郎のセリフは相変わらず聞きとれないがファムファタールの美枝ちゃんにミイラ取りが木乃伊となったアホ馬鹿プチブルのアトモスフェールだけはよく伝わる。

奇才中平の演出を称える映画人が多いが、それほどご立派なものではない。むしろ岡田真澄の奇妙な存在感が貴重である。



喰うても喰うても冷蔵庫に一杯残っているよ愛知和合の巨大西瓜 蝶人


トニー・スコット監督の「エネミー・オブ・アメリカ」を見て

2012-08-05 09:05:38 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.288

至る所に監視カメラや盗聴マイクが仕掛けられ、権力を握る者たちが市民のプライバシーを完膚なきまでにぶち破っている状況を告発する映画である。

主に英国に倣ってわが国の店舗や街頭のあちこちでこういう不愉快な光学装置が断りも無く据え付けられたのは確か90年代頃からだったと記憶しているが、それが今世紀に入るや雨後のタケノコのごとく繁殖するにいたった。

それまでよく通っていた新宿のタワーレコードに行くのを止めたのは、このビルのエレベーターの内部に据え付けられた監視カメラが俺をにらんでいるのを発見したからで、激昂したおいらはジャンプ一番そいつをもぎ取ろうとしたんだが届かなかった。1998年製作の凡庸なこのハリウッド映画は、そういうことを各人が各国でせよと教えている。

にも拘わらずわが国の多くの人々は、捜査のためにはおのれの肖像権やプライバシーなぞ屁とも思っていないようで、こないだのオウムの犯人逮捕劇のときにも誰ひとり異議を唱えず、最近とみに捜査能力が減退していた警察の久しぶりのお手柄なぞと拍手喝采してよだれを流して喜んでいた。この阿呆たれめが。

彼奴等はオウムの10匹や100匹よりも大事なものがあることをすっかり忘れて、裸の王様どころか街中でフリチンになって喜んでいるのである。ワンワン。

映画のことにも少し触れておくと、懐かしやだいぶ年をくったジン・ハックマンが、危機に陥った主人公を側面援助する元情報局員の役で健在ぶりを示している。あとジェイソン・ロバーズもちょいと姿を見せている。すぐに消されてしまうんだが。



   誰ひとり読まぬブログを書き続ける人の心の底知れぬ闇 蝶人

      *この歌、本日の「日経歌壇」にて岡井隆氏に選ばる。あな恐ろし。


NHK「世界ふれあい街歩き」を見て

2012-08-04 09:59:51 | Weblog


バガテルop156&茫洋物見遊山記第90回


おおむねが消えてなくなればいい民放のアホ馬鹿番組の洪水の中で、やはり腐っても鯛、「皆様の」NHKは、有料とはいえ朝晩の定時ニュースをはじめ貴重な戦争記録証言、Nスペ、サラリーマンネオ、ぶらタモリ、音楽番組、CMや吹き替えなしの映画などを届けてくれる貴重な放送局です。

数年前からはじまった「世界ふれあい街歩き」という世界のあちこちをカメラを担いだスタッフが漫歩するというのどかな番組もわたしのお気に入りのひとつで、あのどこか懐かしい村井秀清のテーマ音楽と共に、それがどの町であってもひとときの海外旅行を実際に楽しんでいるような気分に誘ってくれます。 

この番組でいいのは観光地をライブ感覚で歩いていることで、もちろんそれが周到なリサーチでシミュレートされた結果であるとはいえ、思いがけない風物と小さな事件、わけても現地の住民との一期一会の突然の出会いがあるということです。

ガイドブックを時折参照するとはいえ観光名所をあえて避け、見知らぬ裏町の路地の奥にオンタイムで入っていく視点がいままでの観光番組との決定的な違いで、これは初心者のための農協ツアーのその先にある通(つう)の旅行態度に近い旅行スタイルでしょう。

私たちはたとえフィレンツエのサンタマリアデルフィオーレ大聖堂の壮麗さを忘却したとしても、ヴェッキオ橋のたもとで出会った一人の宝石売りの老婆の面影を忘れることはないのです。



       大ウナギはタヒチの神様ヤシの実に顔が似ているから誰も捕らない 蝶人




スタンリー・キューブリック監督の「博士の奇妙な愛情」を見て

2012-08-03 06:32:24 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.287

「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」という素晴らしいタイトルのこの映画を製作、演出、脚色したのは他ならぬスタンリー・キューブリックであるが、この米ソ核戦争SFの主要な3役に怪優ピーター・セラーズを起用したことでまことに迫真的な傑作が出来上がった。

 反共反ソの気狂い将軍(スターリング・ヘイドン)が突如30のB52爆撃機に対してソ連領内のミサイル基地の先制攻撃を命じ、やっさもっさいろいろなやり取りがあった挙句にノーコントロールに陥った1機だけが核弾頭を投下してしまい、ソ連の対抗最終兵器によって世界は崩壊してしまうというお話だが、そのやっさもっさの途中でジョージ・スコットのやはり反共愛国将軍が大統領にソ連抹殺を唆したり、もっと得体の知れないヒトラー礼賛のストレンジラブ博士が狂気に満ち満ちた演説をぶったり、ソ連領内に突入中の爆撃機内部のてんやわんやの悲喜劇を演じたりして見る者を圧倒し、こういう非常事態は米ソだけでなくこれからも世界の至る所で繰り返されるだろうことをはっきりと示している。

ラストの核爆発の映像と共に流れる「いつか晴れた日にまたどこか会いましょう」という美しい歌が、哀しくも恐ろしい。


関内で人死にありという血ぬられし線路を全速で過ぎたり 蝶人


ノーラ・エフロン監督の「めぐり逢えたら」

2012-08-02 09:23:06 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.286


1993年のハリウッド映画で「シアトルの不眠男」というのが原題だが、ケーリーグラントとデボラカーの「めぐり愛」が引用されているので、この邦題はまあ許せる。

 さてその内容はというと、最愛の妻に死なれて生きる意欲を無くした建築家トムハンクス選手が、たまたまラジオの身の上相談に出て歎いているのを聞いたテレビ局員のメグライアンちゃんが、婚約していたのに恋の予感に導かれ、なんやかやあって結局NYのエンパイアステートビルの展望台で「めぐり逢う」という超感動的なお涙頂戴の一席。

ノーラ・エフロンという監督が脚本を書き、演出したこんなあほらしいヨタ話が大ヒットするアメリカという国の民度の低さに改めて愛想を尽かしたくなる。



毎日必死で映画見ていますHDDからこぼれださないように 蝶人