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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

オリバー・ストーン監督の「JFK」を見て

2011-07-16 15:53:31 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.131

ケネディ大統領が殺された日のことはよく覚えている。私は京都市左京区の田中西大久保町の下宿を出たところで近くから流れてくるFEN放送のコールサインに続くプレジデントケネデイワズアササンドという悲痛な繰り返しに耳をうばわれ、しばらくその場に立ち止まって呆然としていた。それは1963年11月23日のお昼前のことで、京の秋空は雲一つない快晴だった。

 1991年にオリバー・ストーンが監督したこの映画は、ニューオーリンズの地区検事長ジム・ギャリソンの視線で第35代米国大統領の暗殺事件の謎に挑む。ストーン=ギャリソンは、この虚構を交えた3時間を超える大長編映画を通じて、キューバやベトナムへの軍事介入から手を引き、黒人の公民権を獲得させようとした「民主的で進歩的な大統領」を、軍と軍需産業、保守派の政治家とCIA、FBIなどが暗黙裡に連合戦線を組み、陰謀と狡知の限りを尽くして白昼公然の暗殺に成功し、この醜い影のテロリストたちは余勢を駆ってキング牧師やロバート・ケネディを葬り、米国を輝かしい自由の国を野蛮なファシスト支配の国に変えてしまったと訴えるのである。

 私は別にケネディや巨人や大鵬や卵焼きを好きでもないし、格別偉大な大統領とも思わないし、この国が自由の国であるともファシズムの国だとも思わないが、この映画を見ている限りではストーン=ギャリソン説が真実であるかどうかは2029年のオズワルドやジャック・ルビー等の証言記録の公開を待たずして軽々に確言はできないと思った。

 映画の中で紹介されるのはすべて状況証拠ばかりであるし、肝心の証人がほとんど死亡するか殺されてしまっている。それにもかかわらず映画の中ではギャリソンに扮したケビン・コスナーが正義の味方よろしく「死にゆく王に権威なし」と、殺された王の遺徳を称える大演説をしている。映画の中で政治的主張をしても構わないが、そのことがその主張を正当化したり、まして映画の価値を高めるかと言うとそんなことがあるはずがないのである。

ロバート・ケネディが暗殺された瞬間から妻のシシー・スペイセクが夫の仕事を理解し夫婦が一体化されていうといううるわしい成り行きも映画的真実に大きく反していて、要するに本作はオリバー・ストーンと同様相当程度にいかがわしい映画である。


空青く草は緑に燃える日よわが生命も赫奕と燃ゆ 蝶人



河野多恵子著「逆事」を読んで

2011-07-15 10:37:37 | Weblog


照る日曇る日第444回

十九世紀の終わりに英国の心理学者ウイリアム・ジェームズが唱えた「意識の流れ」という考え方にもとづく小説作法をジェームズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどが実践したそうだが、5つの短編を集めたこの本もまたそういう書き方がなされていると思った。

別段なんということもない住まいの世間話をしているうちに語りの濃淡がうすれ、著者が自分の小説の行方に無関心になってエアポケットに入ってしまったように思われた瞬間に、マンションの隣人がどすんと音を立てて地面に飛び降りたり、これまた退屈な世間話に興じていたはずの夫婦が突然性交をはじめて、その顛末が驚くほど、事実と言うよりは真実に突き刺さるように描写してあるので、こんなことをこんなふうに書いてもいいのだ、これはポルノより凄いと読んでいて妙に感動したりする。

著者は自分の意識の流れに沿うて人事百般、過去現在未来を行きつ戻りつ自在に行き来しながら、短い物語を終えるまえに、「ああこれを言うのを忘れていたわ」とでもいうように、突然超現実的な挿話を我々の前にポンと投げ出し、そのまま明後日の方へ去ってしまう。心憎いばかりの小説名人といえよう。


辞書を引くと、表題の「逆事」とは、「真実に反することや親より子が先立つさかさまの物事」を指すそうだが、ここでは古来の文学者などが谷崎潤一郎や佐藤春夫などおおかたは順当に「引き潮」の際に死んでいるのに、独り三島由紀夫は満ち潮の時刻に自死してと書きだしながら、話は突然真鶴の海岸の引き潮の折に死んだ蟹の「蟹夫」の急死に飛び、キリスト者でもない著者が讃美歌の「主よみ許に近づかん」を歌ってやる美しいエピソードに至り、これで終わるだろうと思っていたら、最後に靖国神社にハムレットのような亡霊が出る。見事である。



原発はニッポンを死に至らしめるガンである撲滅せよガン 蝶人




◎「佐々木健グループ展」開催中
「モンブラン・ヤングアーティスト・パトロネージ・イン・ジャパン2011」
会期:2011年7月7日(木)~9月21日(水)
場所:モンブラン銀座本店3階(営業時間:11:00-20:00)
東京都中央区銀座7-9-11モンブランGINZA Bldg 銀座中央通り・資生堂斜め向かい




ビリー・ワイルダー監督の「フロント・ページ」を見て

2011-07-14 10:48:16 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.130


1928年ニ「ブロードウエイで上演された戯曲を、1974年にビリー・ワイルダー監督が映画化したコメディです。

お馴染みジャック・レモンがシカゴの熾烈な新聞記者生活から足を洗って上司のウオルター・マッソーの制止を振り切ってスーザン・サランドンのピアニストと結婚するためにフィラデルフィアに発とうとした晩に、絞首刑に処せられようとしていた警官殺しの死刑囚を巡るドタバタ事件が発生。

世紀の特ダネを目の前にして記者本能に火がついたたレモンは婚約者をほっぽりだして大活躍。ついに堪忍袋の緒が切れたサランドンは怒り狂って独りで駅に向かいますが、結局物語は落ち着くべき所に収まる、という一幕物で、ワイルダーお得意の魔術的喜劇皿回しが冴えわたる。

まあ面白いといえば面白いのですが、そのトリックの仕込み方がこれでもか、これでもかとしつこすぎて嘘っぱちの度合いがエスカレートするので、少々辟易します。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。

もっと自然なお笑い映画を作って欲しいのですがこれはちとないものねだりか。最後にサランドンがストコフスキーの甥を一緒になるという落ちの付け方には笑ってしまいましたが。

佳麗衆カレー週加齢臭鰈集華麗秀 蝶人


マイケル・ゴードン監督の「夜を楽しく」を見て

2011-07-13 09:13:22 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.129


1959年のアメリカの喜劇PillowTalkをこう邦訳するとはおぬしなかなかできるな。辞書には寝物語あるいは性交後のうちとけた会話などとあるが、「夜を楽しく」とはねえ。そして実際に見ての感想も、そのタイトルから想像される領域をほとんどでることはないく、内容よりよっぽど気が効いている。

ヒロインにインテリアデザイナーのドリス・デイ、ヒーローに人気作曲家のロック・ハドソンだが、監督のマイケル・ゴードンがどうして揃いも揃った大根役者を起用したのか理解に苦しむ。いや起用したのはプロデューサーか。

映画は、はじめはけんか相手だった2人が実際に出会ってからぐんぐん惹かれていき、そこで思いがけない邪魔が入って一大事が起こり、ついに大恋愛も一巻の終わりかと思われたところで逆転満塁ホーマーというお決まりのプロットを辿ってなんなくPillowtalkへと潜り込むのだが、2人の最初のかかわり合いがなんと共同契約電話だというので驚く。50年代のニューヨークでもまだまだ個人加盟はそれほど普及せず、妊娠している人は優先されたというのである。

それで、ドリス・デイに見つからないように産婦人科に飛び込んだロック・ハドソンが、医者から世にも不思議な「妊娠した男性」扱いされるというお笑いにつながっていくプロットは、しかし語るに落ちてあんまり面白くもないね。ゴードンの演出もデイの衣装も冴えない。


人一人殺しちゃっても死刑にならぬ日本は素敵な法治国家 蝶人



ビーチャム指揮「英国音楽集CD6枚組」を聴いて

2011-07-12 08:39:34 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第212夜

ロイヤルフィルの創始者にして英国音楽の泰斗トーマス・ビーチャム卿が指揮するデーリアスと聞いて胸が躍らぬクラシック愛好家はいないはずだが、聞いてびっくり期待とは裏腹にわが心には初夏のそよ風さえ吹かず、緑の蓮池にささなみひとつ立たなかったのは何故?

あんまり下らぬ賃労働に従事しすぎたためにロバの耳が山羊の耳へと退化してしまったのであろうか? あの名曲「丘を越えて遥かに」も「河の上の夏の夜」も、「春一番のカッコウを聴いて」、さらに「高い丘の歌」、「夜明け前の歌」、「日没の歌」を耳にしても乾き切った魂に一滴の甘露さえ注いではもらえない始末。

かろうじて彼の歌劇「村のロメオとジュリエット」でいささかLP時代の卿との久闊を叙すことができたやうな気もしたが、それとて夏の夜の夢かもしれぬ。仕方なくサー・ジョンとハレ管弦楽団の演奏で聴き直したら、そこにはビーチャムにない北国の男の旅情とロマンネスクが、レブンウスユキソウのような白い花を咲かせていましたよ。ビーチャムは、お国ものよりフランス音楽の方がいいのかもしれぬ。


駅近く線路の傍にカンナ咲き鎌倉の夏今年も来にけり 蝶人




梟が鳴く森で 第3部さすらい 第3回

2011-07-11 07:00:09 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


12月2日 雨のち雪

昨夜またお母さんの夢を見ました。お父さんと弟の純ちゃんと犬のムクも一緒でした。お父さんは、
「おーい、岳どこにいるんだ。もう怒っていないから。早く帰ってこい。早く帰って来るんだ」
とおっかない顔をして言いました。

お母さんと純ちゃんはなにも言いませんでした。ムクもなにも言いませんでした。なにも言わなかったけれど、お手をしました。右手ばっかりでお手をしました。

しばらくして夢がさめました。僕は独りでした。いや僕の隣にはのぶいっちゃんと洋子がいます。いつも3人は一緒です。これからはいつまでも3人で仲良く暮らすんだと誓い合いました。

そしてのぶいっちゃんは、小指の先をナイフでちょっと傷つけて、
「お前たちもこうしろよ」
と言って、いやがる洋子と僕にも無理矢理ナイフで傷をつけ、出てきた血をお互いになめあってきょうだいじんぎの誓いを交わし合いました。
これでもう3人はけっして別れられません。

お父さん、お母さん、純ちゃん、ムクも、そんな僕たちのことをどうか分かってください。僕たちは、もうあなたたちとは違う道を歩もうとしているのです。



祖父に巻いてもらいしゲートルの柔らかきこと 蝶人

椹木野衣監修「岡本太郎爆発大全」を読んで

2011-07-10 11:29:27 | Weblog

照る日曇る日第443回


有名な「太陽の塔」などの建築物をつらつら眺めていると、芸術は確かに爆発だと思わされる。何の爆発? もちろん己の爆発に決まっているさ。

社会と大衆の面前で己を爆発させるためには、知情意の恐るべき集中と膨大な量の薪が必要だったが、太郎にとっては、月夜の闇に咲く隠花植物の祭典を孜々として秘かに準備することが、ある晴れた日の朝、明るい太陽に向かって顕花植物を全面開花させる大魔術への秘法だった。

赤や青や黄色や紫の原色が氾濫する彼の油絵を見よ。そこに繰り広げられているのは恐るべきニヒリズムの絶望的な吐露。すべての一瞬を、生きて、生きて、生きてあらんこと熱望したはずの芸術家の、死んで、死んで、死に沈潜せんことだけを希んでいるかのような、完璧な無為と放棄と退嬰の世界。

この青の死の負の絵画こそが、大地に屹立する深紅の正旗を逆説的に支援していた。
大いなる虚無から大いなる肯定、父母未生以前の自我から宇宙的な膨張拡大、先住民の素朴から全知全能の見者への終わりなき往還が、彼の尽きることのない泉のようなアヴァンギャルドを湧出する。

そして岡本太郎は、生涯に亘ってこれが実践にシシフォスのように挺身し、己の火祭りに己が松明を投じることによって、文字通りに燃え尽きたのだった。
彼の全作品を採録したこの膨大な一巻には、死せる芸術家の偉大な魂魄が宿っているように思われる。


太郎忌や飛んで火に入る冬の虫 蝶人




◎「佐々木健グループ展」開催中
「モンブラン・ヤングアーティスト・パトロネージ・イン・ジャパン2011」

会期:2011年7月7日(木)~9月21日(水)
場所:モンブラン銀座本店(営業時間:11:00-20:00)
東京都中央区銀座7-9-11モンブランGINZA Bldg 銀座中央通り”


黒田日出男著「源頼朝の真像」を読んで記事のタイトルを入力してください(必須)

2011-07-09 10:55:41 | Weblog

照る日曇る日第442回




最近伴大納言絵巻や江戸図屏風などの図像の謎解きで大きな成果をあげている著者が、今度は源頼朝の彫像の謎解きに取り組んだ。

これまで頼朝の肖像として知られていた神護寺の「伝源頼朝像」が、なんと14世紀半ばに制作された足利直義のものであると判明して以来、では本物の頼朝像はいったいどこにあるのか?という捜索が深く静かに続行されていたわけであるが、絵画史料論、歴史図像学の権威である著者は、甲斐善光寺の胎内銘の執拗な解読を経て、当寺に安置されていた彫像こそ鎌倉前期=13世紀初期に制作された源頼朝像であると喝破する。

善光寺如来への篤い信仰を懐いていた北条政子は夫と息子の死後、次々に頼朝、頼家、実朝の3人の彫像を制作させ、善光寺常念仏堂に安置し、その追善・供養を寺に依頼していたと説く著者の主張は説得力に富むが、なによりも現存する頼朝と実朝像のもつ実在感と人物表現のリアリティそのものが、所説の正当性を雄弁に物語っていると思われる。

歴史的価値のみならず日本美術史、彫刻史上多大な価値を有するこの彫像の、一日も早い保存修復が待たれる。


土曜日はゴマダラカミキリと遊びけり 蝶人

小島信夫著「うるわしき日々」を読んで

2011-07-08 09:17:34 | Weblog

照る日曇る日第441回



この本は何と言っても題名がよい。それが素敵なタイトルであるということは、ちょっと目端のきいた人ならすぐに分かってくれると思うのだが、著者の説明では、ベケットの「しあわせな日々」という芝居からとり、ベケットはヴェルレーヌの「うるわしき(しあわせな)日々」からとった。ベケットもヴェルレーヌも昔を回顧するという観点からのネーミングで、著者がこの題名で短編を書くと知った大庭みな子は、そこからの引用で、「楽しみの日々」を書いたそうだが、そうと聞くと、私はかのマルセル・プルーストの名編「楽しみと日々」を思い出してしまう。いずれにしてもいいタイトルであるが内容は麗しいどころの騒ぎではない。

八十をとうに越えた老人がアルツハイマーが進行中の愛妻と重度のアル中(コルサコフ症候群)で入院中の息子をかかえこんで、朝から晩まで右往左往するという悲惨な話である。これは、人生の本質は「生病老死」であるといわんばかりの心境小説であり、その孤独な暗夜行路に待ち構えているのは、主人公自身の死であることもまた明々白々であるというのに、この人の末期の眼は異様なまでに冴えわたり、その死に至る道中で見聞きする光景や相次いで生起する事件のすべてを精妙に記録し、判断し、われらにあけすけに語り続ける。

この人にとって生きることはすなわち書くことであり、書くことがすなわちいまという瞬間を永遠につなげていくいとなみに他ならない。そこでは実際には何の希望もない悲惨な現実を書くことが、絶望ではなく希望に直結しているという奇跡的なパラドックスを誕生させ、悲劇をあますところなく対象化しようとした文章が、あろうことか一抹のユーモアとペーソスを湛えた人間喜劇にさえ転化しようとしている。

これを著者の人生最後の神業と呼ばずになんと評せばいいのであろうか? かくして偉大な文学者の晩年の苦悩に満ちた日々は、「麗しき日々」となったのである。




かにかくに今日もなんとか生きているかくかくしかじかてふコマーシャルが大嫌いなわたし 蝶人




小島信夫著「こよなく愛した」を読んで

2011-07-07 09:04:32 | Weblog


照る日曇る日第440回


この短編集の中に「路上」という掌編小説があって、これは老年の小説家であるところの著者が、かつて、ということは生前に居住していた浅間山麓の別荘の近所の「路上」で、なにやら精神的な懊悩を抱えこんでいる中年の女性と行き合って、彼女が性的複合意識形態に支障があるとただちに見抜き、俄かに即席のフロイト博士になり変わって、「肥後ずいき」の使用を婉曲に勧めたり、ポーランドからアメリカに渡ってきたユダヤ人シンガーが書いた「タイベールと彼女の」という老年性愛小説を読ませて、彼女の夫婦生活の不具合を解消してやろうと余計な世話を勝手に、しかも亭主には内緒で、焼く話である。

作者はこの小説のあらすじを我々読者にも公開してくれているのであるが、それは性的不満のある未亡人を風采の上がらない若い男が悪魔と偽ってものにするポルノ小説であり、老年の小説家こと小島信夫氏は、悩める中年女性に対してまずはこのポルノ小説の抜粋を、次には小説家みずからが翻訳した生原稿を、路上での行きずりにペーパーバッグに入れて手渡ししようという恐るべき計画を立てるのである。

で、その88歳の鈴木清順監督が、48歳年下の女性を誘惑しようとするかのような大胆不敵かつ不穏なコンサルティング計画は、どのような結末を辿ったのだろうか? 御用と御急ぎのない方は、どうぞ本書をゆっくり手に取って、この小説の神様の端倪すべからざる結末に唖然としていただきたい。


性愛の極意を生きた小島信夫永井荷風の跡を継ぎしか 蝶人




アバド指揮「チャイコフスキー交響曲全集」を聴いて

2011-07-06 08:14:57 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第211夜

これまたソニーの叩き売り超廉価盤CDですが、珍しやクラウディオ・アバドがシカゴ響を指揮しています。最近のアバドは「知・情・意」が絶妙に融合された名演奏を聞かせてくれるようになりましたが、これはちと知が勝ち過ぎて、情と意に欠ける演奏で、そのかわりにチャイコフスキーの管弦楽の構造が清明に透けて見えてくるような不思議な聴後感が残ります。

カラヤンやロストロポーヴィッチその他の指揮者で1番や2番、3番を聴いても、作曲者がなにを言いたいのか全然分かりませんが、アバドだとなんとなく分かった気にさせてくれる。しかし4番5番6番では全然興奮しない、できないという、よくいえば都会的でクールなチャイコフスキー、悪く言えばカタルシス皆無のチャイコということかしらん。

ところが交響曲よりも聴き映えがするのは序曲1812年やスラブ行進曲で、天才の天下の駄曲が立派な演奏に変身するところが、さすがはインテリアバドです。


天啓の如く鮎閃きぬ 蝶人



コリーヌ・セロー脚本監督の「サン・ジャックへの道」を見て

2011-07-05 10:09:54 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.128

2005年製作のフランス映画です。母親が亡くなったので3人兄弟が遺産を相続しようとするが、それにはフランスのル・ピュイからスペインの西の果て、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラまで1500kmにもおよぶ巡礼路を一緒に歩くことが条件になっている。金持ちの社長と厳格な女教師と呑んだくれの風来坊という仲の悪い3人が、お互いにいがみ合いながらも深山幽谷を長期にわたって苦行のように巡礼するうちに、同行するガイドや仲間たちに助けられてすっかり人間が変わり、めでたく目的を達成するという旅は道連れ世は情けの人情物語です。

仲間にはフランス語が書けないイスラム教徒の少年やガンにおかされた女性などさまざまな老若男女が呉越同舟していて、想定内のさまざまな事件や色恋沙汰を繰り広げるのですが、そのプロットの陳腐で薄っぺらで中身の空疎なこと! この監督が「映画なんてこんなものさ」とたかをくくっているその見識の低さに完全に見合った程度に出来上がっている典型的な3流映画です。

こんな下らない代物を連発しているから「フランス映画はもう終わり」と絶望するシネアストが続出してくるのでしょうね。いやあ完全に2時間を浪費してしまった。


     人として最低の人を任命する最低の人辞表受け取る 蝶人


梟が鳴く森で 第3部さすらい 第2回

2011-07-04 08:35:12 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


11月30日

綿、オクラ 早く、着替えといで、和絵、和絵、止しなさい。どうしたの、叩かないで。

そんなに、げらげら、笑うのは、阿ほ笑いは、悪い子よ。

空き缶投げ捨ては、やめましょう。

助けベエ 相沢京子、塩川愛子、矢沢真由美、下山美登里、ゆきのした舎、片栗の邑、たましい作業所


12月1日 雨

先生、平均台の所へ置くでしょう、行きなさい、岳君、おかあさん、元気、お昼休み、遊べないよ。手を離しなさい。
狛江 経堂 生田 違うの 向が丘遊園まで乗るの。それから各停に、後で 又、会いましょうね。
岳君。なんで、悪い事、するんですか エーン、エーン、エーン


ニイニイゼミ鳴きて夏綻びぬ 蝶人



Sony盤「ロベール・カサドシュ・プレイズ・モーツアルト」を聴いて

2011-07-03 13:28:09 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第210夜

毎度おなじみのソニーの超廉価盤5枚組CDでカサドシュのモーツアルトを聴いたのですが、いったいどうしたことか、さして心が弾まない。昔LPで聞いた時には、ああ艶なるかな!と二嘆、三嘆して飽かなかったのに、これは異なこともあったものじゃ。

コンチエルトは15、17番から21、22、23、24、26、27の代表曲がみな収められているというのに、あのフランス風の典雅な指のこなしが何回聞いても再現できないというのは、私の耳がまたしてもロバの耳に退化したのか、あるいは最新型の24bitの復刻が災いしているのかのどちらかでしょう。

どこかにLPがあるはずですが、探し出すのに1週間はかかるでしょうからもう諦めていつか確かに耳にしたはずの洗練され尽くしたギャラントな洋琴の調べを無理にでも思いだして胸の奥で奏でてみることにいたしませう。

 そんな残念無念なコンピレーションでしたが、そこをおしてあえて指を折るならば、ギャビー、ジャンとの家族3人で合奏したk365と242の2台&3台のピアノのための協奏曲とフィラデルフィア木管5重奏団と入れたk452ということになるでしょうか。


今宵特許許可局開店杜鵑 蝶人



コンラッド著・柴田元幸訳「ロード・ジム」を読んで

2011-07-02 11:18:13 | Weblog

照る日曇る日第439回

はじめはタイタニックの遭難のようなスケールの大きい海洋小説なのに、話がとつじょ海から海へと経巡って、いきなりスマトラ島の奥地の密林に飛び、そこで「善の王」となりおおせた主人公ジムが、ロード・ジム(ジム旦那)と成りあがって、悪党中の悪党と対決するという迫真のドラマに息を飲まされます。

しかしそういう全地球的規模の物語空間の大移動よりも、心に深い傷を負った青年の罪障滅却、自己滅却の精神の旅路にこそ、われわれの主要な興味と関心があるのであって、ジムの地球よりも広大で複雑で奥深い魂に魅入られたわれらの小さな魂は、主人公の最後の悲劇が記された最後の頁まで呆然として拉致されていくしかないのです。

奥深いジャングルの中で打ち建てられた奇跡的な共同体の絆と規律と忠誠。そして激しく燃え上がる灼熱の恋! しかしそれらもまた砂上の楼閣のように、密林を舞うモルフォチョウの一瞬の輝きのようにあえなく滅んでいく。

コンラッドは彼の分身であるチャールズ・マーロウを語り部として、このロメオとジュリエットを思わせる悲劇を、ドストエフスキーの小説の登場人物を思わせる主人公によって再現させることに成功したのです。

「これぞ文学中の文学」といえるくらい非常に読みごたえのある小説です。



父上の死に目にも母上の死に目にも会えなかった 蝶人