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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ダグラス・サーク監督の「心のともしび」を見て

2011-04-15 17:17:11 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.115


いかれぽんちの大金持ちの青年(ロック・ハドソン)が、水上スキーで暴走・転覆して死にかけるが心臓に持病を持つ慈悲深い医師備え付けの救命呼吸器のお陰で九死に一生を得る。

ところがまさにその同じ時間に、医師は心臓発作を起こして急死してしまう。その大事な機器を警察に貸し出していたために、多くの人をひそかに救済してきた希代の善人が死に、どうしようもないあほばかチンピラが生き残ったわけです。

さすがに慙愧に堪えない青年は、医師の妻(ジェーン・ワイマン)に詫びようと、大金を渡そうとするが当然無視され、それでも執拗に付きまとっているうちにこのあほばか男のせいで妻は交通事故に遭い、あろうことか失明してしまう。

役者もシナリオも、音楽もかなりお粗末な悪条件をものともせず、の最悪、最低の地点から、おもむろに愛と感動の物語を編みあげるのが名匠ダグラス・サークの力技をとくと堪能あれ。しかし翌1955年にも同じ2人の主演で似たような「天はすべて許し給う」を撮っているのは2匹目のドジョウを狙ったのでしょう。

ジェーン・ワイマンはロナルド・レーガン元大統領の最初の妻ですが、私が昔勤めていた会社にいた戸田さんにそっくりで、とても懐かしかった。いわばハリウッドの望月優子といったところでしょうか。

一匹の大蛇の上に桜咲く 茫洋

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮の「ブラームス選集」を聴く

2011-04-14 17:23:24 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第188夜

1960年代のブラームスの録音を集大成したEMIの超廉価盤CD5枚組です。

 この洒脱なイタリアの指揮者は、1978年からロサンジェルスフィルの常任になって超スローテンポのベートーヴェンの交響曲やヴェルディの「ファルスタッフ」を世に送り、その晩年にはシカゴ、ベルリン、ウイーン、スカラ座の名門オケを振ってマーラーやドボルザーク、ブルックナーの第9交響曲を録音してから91歳で亡くなりました。

 世間ではこれら最晩年の演奏を高く評価しているようですが、だからというて初期や中期の音楽が駄目なわけでは毛頭なく、そのことはここに収められたブラームスの4つの交響曲やクラウディオ・アラウと入れた2つのピアノ協奏曲が持つ軽快なテンポと表情豊かなカンタービレを耳にすれば一聴瞭然でしょう。マエストロと英国のフィルハーモニア管弦楽団との相性の良さは、例えばモーツアルトの「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」を聴いた人ならよくご存知のはずです。

 そうしてジュリーニの特徴である、あの高いインテリジェンスと胸底深く秘めたアレグロ・コンブリオ魂は、同じ北イタリア出身のクラウディオ・アバドに引き継がれているのではないでしょうか。



   気前よくCD買うのも国のため 茫洋


仏エラートクラシック「理想の大全集」全100枚を聴いて

2011-04-13 17:46:52 | Weblog
♪音楽千夜一夜 第187夜


バッハからベートーヴェン、ショパン、ヘンデル、モーツアルト、ラベル、ヴィヴァルディ、ワーグナーまで主にエラート・レーベルの忘れられた名盤、銘盤を収めた1枚100円を切った豪華超廉価100枚組CDです。

私が大好きなモーツアルトでは、あら懐かしやパイヤール指揮室内管弦楽団のバックでランパルとラスキーヌが共演しているフルートとハープのための協奏曲や、ランスロとパイヤールによるクラリネット協奏曲、マリア・ピレシュとグシュルバウー&リスボンのオケによるピアノ協奏曲、そしてアルミン・ヨルダンとルツエルンのオケによる3大交響曲です。

極めつけはミシェル・コルボとリスボンの名コンビによるレクイエムの静謐でけがれた精神を洗われるような厳粛な演奏で、これはカール・ベームとウイーンフィルの名演と並ぶわたしのフェイヴァリトCDです。

わが偏愛のスカルラッテイのピアノソナタを恥ずかしそうに弾いているアン・ケフェレックのちょっと小粋な演奏も捨てがたい風情があって、こういう録音を出してくれるエラートがなくなってしまったのはじつに勿体ないことでした。


        四月馬鹿東京も馬鹿お前も馬鹿 茫洋


大津透著「天皇の歴史01神話から歴史へ」を読んで

2011-04-12 11:59:34 | Weblog

照る日曇る日 第424回


歴史上実在したと確認できる本邦最初の大王はワカタケルであり、この人物が「記紀」の伝える雄略天皇であることは教科書なんかにも書かれている。

しかしワカタケルのような、かつて大王と呼ばれた統治者が、その前代の卑弥呼や倭の五王などを含めて、いつ、どのような経緯と因果の関係で今日「天皇」と称されるような存在に転身していったのかについては諸説芬芬としている。

本書では天皇号の成立を、国号「日本」成立とほぼ同時期の推古女帝の時代に求めているようだが、これだってほんとうのことかどうかは五里霧中の話なのである。

大胆な仮説の提示とその情熱的な検証のない歴史書を読んでも、まるで血を血で洗うようなもので、一向に白い骨格が浮き彫りにされないから、長らくこの方面の追究を放擲していたのだが、頭の良いインテリゲンチャンが古今の高論卓説をつぎはぎだらけにレポートしたこの本を読んでも、脳味噌いっぱいに春の花が咲き誇っている愚かな私には相変わらず神話時代の歴史なんててんでよく理解できなかったのであった。


脳味噌いっぱい花が咲くオレンジスイカバナナ咲く 茫洋

村上春樹著「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」をざっと読んで

2011-04-10 11:18:04 | Weblog

照る日曇る日 第423回


なるほどなあと思いつつスラスラ読めてあとにはなにも残らない1997年から2009年に行われたインンタビュー集だ。

ガス抜きのペリエを飲んだときのような晴朗さと爽快さはいかにもこの作家ならではの持ち味だが、きっと苦いオリや苦悩や後悔は本編前後左右にさらりと投げ捨てられたに違いない。

しかし例えば「短編は三日間で書かねばならぬ」とか、「長編小説を書こうとする者はエッセイを書いてはならない」とか「締め切りに追われて書いてはいけない」などというセリフは、さすが実作者ならではの正鵠を射ぬいた発言と思えた。


折々の真情が卒直に語られていて好感が持てる本だが、このようにきざでこっぱずかしいタイトルをつけて恬として顧みないところに、この作家の隠された盲点があるのだろう。
されど真心が籠った「あとがき」には泣かされます。


人間はカッコつけたら終わりです 茫洋

朝吹真理子著「きことわ」を読んで

2011-04-09 17:03:15 | Weblog


照る日曇る日 第422回

せんだってこの著者の「流跡」という小説、のような女学生の駄作文を読まされて酷評した私でしたが、これはなかなかの佳作だと思いました。

まずタイトルがよろしい。ずーっと「きことわ」という奇妙な言葉と語感が妙に気になって仕方がなかった。キノコの名前かなあ、あんまり有名では古語かしら、と色々想像をたくましゅうしている間に、見事に著者の策謀の罠にとらえられてしまってわたくしは、これあるがゆえに芥川賞を貰えたんだなあ、とはたと思い当たったのでした。

じつはこれはなんとまあ「貴子さんと永遠子さん」というふたりの女性の仲良しこよしの物語なのでして、まあぺこちゃんとぽこちゃんが葉山の別荘で黒髪をわかちがたく結び合わせて眠っているありさまを、「ぺこぽこ」と呼称するに似たようなネーミングなのでした。

それは軽い冗談だとしても、この小説では緑深い海辺の別荘を舞台に少女時代の「きことわ」、そして成人してからの「きことわ」が懐かしい日々をしのび、今と昔が数珠つながりになっているように感じられるその数珠を、かったみにひとつずつまさぐるようにして確かめていく。その瞬間に呼び覚まされる幻視の切なさと鮮やかさを、散文でありながら詩語のような馨と味わいで紡いでいく名人芸に大方の選者は驚嘆したのでしょう。

こんなに若い著者なのに、まるで幸田文か宇野千代のような老成の目を備え、大人の女の機微に鋭く光らせているようです。


きことわとはきこちゃんととわちゃんがとわにあいしあうはなしです ぼうよう


フルトヴェングラーの「ワーグナーリング全曲RAI盤」を聴いて

2011-04-08 03:01:54 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第186夜

1953年秋、ローマで当地のRAI交響楽団を指揮してアウディトリオ・デル・フォーロ・イタリーコで行われたコンサートのライヴ録音をEMI盤ではじめて耳にして感銘を受けた。

ワーグナーのリング全曲の演奏では定評あるショルティ&ウイーンフィルやクナパーツブッシュとバイロイト祝祭管をはじめ幾多の名盤が目白押しだが、私が好きなのはカール・ベームとバイロイトの名コンビによる1973年のライヴ録音で、聴けば聴くほどこの楽劇の偉大さに頭が垂れる名演奏である。

一方こちらは、例えば終曲の「神々の黄昏」では、ジークフリートがルートヴィヒ・ズートハウス、ブリュンヒルデが、マルタ・メードル、アルベリヒがアロイス・ペルネルシュトルファー、ハーゲンがヨーゼフ・グラインドル、グートルーネにセーナ・ユリナッチといった当時のベスト・オーダーが組まれており、名匠が長時間にわたって徹底的にリハーサルでしごきぬいた揚句にライヴで録音しただけに、その完成度は折り紙つきのものだが、いまひとつの白熱と光彩あらば、と無い物ねだりしたくなる瞬間も正直言って、ある。

しかしあんまり贅沢をいわずに、演奏会形式上演ならではのバランスの良いサウンドでも有名なこの演奏を、おなじ指揮者による同じイタリアのスカラ座のオケによる1950年のシュトルムウンドドランク風劇伴と聴き比べてみるのも一興であろう。個人的には音質は別にしてキルステン・フラグスタートがブリュンヒルデを歌っている後者に私の軍配は上がるのだが。

それにしてもなんという音楽をワーグナーは書いたことよ!



イナックスの修理の人が掻き出す耕君が捨てし硬貨の数々 茫洋


イーストウッド監督の「ペールライダー」を観て

2011-04-07 08:00:19 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.115

1985年製作の西部劇で、題名は新約聖書ヨハネ黙示録第6章第7節に基づいている。

すなわち、「第4の封印を解き給ひたれば第4の活物の「来たれ」と言うを聞けり。われ見しに、視よ、青ざめたる馬あり、之に乗る者の名を死といひ、陰府これに随ふ。彼らは地の四分の一を支配し、剣と飢饉と死と地の獣とをもて、人を殺すことを許されたり。」

とあるを以てこの映画のキャラクターを設定し、東森選手自らがこれを演じたのであるが、どうもバイブルのカッコよさには到底叶わなかったようだ。ただし殺し屋の東森君が「牧師」に扮しているのは面白い。

それから東森君のライヴァルはお揃いの白いコートを羽織った7人の殺し屋であるが、これは黒沢選手の「7人の侍」の裏返しのパクリで、正義の味方が悪の張本人になっている。

お約束通り悪漢どもを皆殺しにした東森君が町の彼方の高い山に向かって去っていくと、彼を母親と取り合った15歳の娘が、「牧師さーーーん! アイシテルウ……」「さよならああ、ありがとおおお……」などと絶叫するが、これはかの「シェーン」のラストシーンのパクリで、さすが東森君はいろいろ古今の文献や名作をよく研究しているようだ。



「慎太郎」ではなく「錆びたナイフ」と書け東京都民よ 茫洋

日経広告研究所編「基礎から学べる広告の総合講座2011」を読んで

2011-04-06 08:35:24 | Weblog


照る日曇る日 第421回

毎年夏に、日経さんが、当代の広告専門家講師による高額会費のセミナーを開催しているのだが、年末になるとそれを要領よく1冊にまとめた本が出るので愛読している。

基礎からなどと遠慮して銘打っているが、年年激しく変化するメディアや広告コミュニケーション理論と施策の現状を、それこそ現場からのホッテスト・レポートという形で生々しく伝えてくれるので、読んで面白く、またためになる実用書として広くお勧めできる好個の専門業界ハンドブックである。

電通や博報堂、大学の偉い大先生の横文字オンパレードの能書き大演説ももちろん毎回お勉強にはなるのだが、それよりもエステーという会社でユニークなホット広告を連発している鹿毛康耳司氏のクリエイティヴ苦労話やサントリーの企業経営と広告を歴代角瓶のキャンペーンなどを事例に生々しく語った久保田和昌氏、さらに東芝の液晶テレビレグザのブランディングを紹介した松本健一郎氏など、やはり宣伝販促の現場で阿修羅のように奮戦している人たちのレポートのほうが断然面白い。

とりわけ今回私の心に刻まれたのは「企業の社会的責任」についてレクチャーした梁瀬和男氏の番外編の挿話だった。

妻を亡くした高校の元校長が、四国八十八カ所巡りを終えて高知空港の和食店で昼食を取った時のこと。ビールとカマスの姿寿司を頼んだ校長が「コップを二つ下さい」というので、どうして二つなのかと不思議に思った店員がカウンターを見やると、くだんの元校長は、亡妻の小さな写真の前の置いたコップにビールを注いで、乾杯しながらなにやら話しかけていた。それと気づいた入社三年目の店員は、出来上がった寿司を持っていくついでに、箸置きと小皿も二つずつ持っていくと、元校長は思わず涙ぐんだという。

高知新聞の記者が書いた「遺影のお客様にもサービス」という99年6月3日の記事を紹介してから梁瀬氏は、「小さな店の二十歳の女子店員でも、とっさにこれだけのことができる。これこそは究極のお客様視点ではないだろうか」と語って、彼の一時間半の講義を締めくくったのであった。

亡き妻と同行二人の旅癒す心づくしの二つの小皿 茫洋

エロール・モリス監督「フォッグ・オブ・ウオー」を観て

2011-04-05 09:02:55 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.115

フォードの社長就任5週間後にケネディ大統領に請われてアメリカの国防長官に就任し、ジョンソン大統領に仕えてベトナム戦争を指導し、1968年~81年まで世界銀行の総裁を務めたマクナマラのロングインタビューが2003年に映画化された。

ここでは彼が波乱の生涯から学んだ11の教訓に準じて、11のパーツがうまく編集されているのが面白い。

例えば「敵に感情移入せよ」というテーゼがあったからこそケネディはフルシチョフとの間で一触即発の危機を避けられた、とか、「戦争にもバランスが必要だ」という命題を無視したから彼の上官のルメイは1晩で10万人の東京人を虐殺した、とか、「理性は頼りにならない」からこそ冷戦中に3度核戦争の瀬戸際まで行ったが、「自己を超える何かがある」からこそ、地球滅亡を避けられたという塩梅に過去が自在に想起されるのである。

しかし彼は原爆投下や投球大空襲、北ベトナム爆撃などに対する一定の責任を認めつつも、その最終責任はつねに彼の上級管理職であるルメイやジョンソンになすりつけ、己の主体的な自己批判はいっさい回避して口を噤むあたりが、卑怯でもあり老獪でもあり、人間的であるとも映るのであるが、それにしてもインタビュアーのキャメラのレンズにまともに向き合い、正々堂々と批判に答える態度はいさぎよくて男らしさも感じる。

彼は過去に多くの失敗を犯したことを認めながら、しかしその失敗を「後知恵」で反省し、再度の失敗を防止しようと願ってこの映画に出演したのである。

マクナマラの教訓の第10番目は、Never say never。そして最後に「人間の本質は変えられない」と来てこの映像回顧録は幕を閉じるのだが、彼の提案を受け入れ、ベトナム戦争からの撤兵を受け入れた直後に暗殺されたケネディの思い出を語るとき、突然の驟雨に濡れそぼるマクナマラの真っ赤な目に、彼のJFKへの忠誠と献身を感じないわけにはいかなかった。



決して「決して」とは言うなとマクナマラ語りき 茫洋

ルービンシュタインの「ブラームス選集」を聴いて

2011-04-04 08:39:15 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第185夜


このソニーの1枚298円の廉価盤9枚組には2つの協奏曲をはじめソナタ、カルテットなどブラームスのピアノ曲の大半が収められており、文字通りの巨匠ルービンシュタインの名演奏をこころゆくまで享楽することができる。

 ルービンシュタインはベートーヴェンもモーツアルトもシューマンもショパンでさえもみなみないいが、とりわけこのブラームスの演奏で、彼の晦渋な音譜の内奥の秘密を噛んで含めるように弾き明かしてくれる。

とりわけシェリングとのバイオリンソナタや、ピアテゴルスキーとのチエロソナタ、そしてシェリング、フルニエとのピアノトリオにおいては彼の明鏡止水のようなピアノが、鬱屈した作曲家の心にそっと寄り添うような優しい表情を湛えて鳴り響き、後の二名が心をひとつにして精妙なアンサンブルを奏でていくありさまは、思わずこれが音楽だあ、とため息がでるようで、実際に出てしまう。

ああ、なんという素晴らしいブラームスであろう。

とかくこの国では、このアメリカの名ピアニストの音楽について、かの天才ホロビッツなどと比較して一籌を輸する、なぞとほざくあほばか者が多いようだが、とんでもない。ロバの耳を底までほじってこの超廉価CDを聴いてほしいものだ。

あほばかは東京都に最も多しまたぞろあほばか都知事を担ごうとする 茫洋




イーストウッド監督の「ミリオンダラー・ベイビー」を観て

2011-04-03 08:12:20 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.114


はじめは歯牙にもかけなかった31歳のボクシング大好き貧乏娘を手塩にかけて育て上げ、とうとう世界チャンピオンに手が届いたその瞬間に、予期せぬアクシデントが起きて、そこから物語はぐんぐん深まる。

しがない初老のジムオーナーとブスなちんころ姉ちゃんの凸凹コンビであったはずなのに、それが師妹の関係を超え、もっともっと深い人間と人間の絆そのものが琴瑟相和して捩じれていう有様をここまで見せつけられると、われらの涙腺もついつい胡乱に取り乱す仕儀と相なるが、こういう通俗性満載のストーリー展開がもう完全に東森監督の自家薬籠中の手なれたものになっていることに賛嘆のほかはない。

強いて揚げ足をとりにいくとすれば、いくら名うての悪役ボクサーだってプロレスではあるまいしあんな反則行為をするわけがない。しかし映画はまさにありえないその起点から離陸して寝たきりヒロインへの献身や尊厳死や安楽死をめぐる葛藤へと進展していくわけだからなおさらのことだ。私としては、ヒロインが晴れてチャンピオンになった後の2人の関係を映画にしてほしかったなあ。

「おまえは私の親愛なる者、おまえは私の血」というゲール語が全編の隠されたキーワードになっていて、最後の最後で鮮やかに終止符を打つ。見事というも愚かなり。ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマンが好演を見せている。



天も照覧カズ一撃みちのくに届けダンスダンスダンス 茫洋


チッコリーニの「サティのピアノ作品集」全5枚組を聴いて

2011-04-02 08:31:32 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第184夜

サティは不思議な作曲家で、モーツアルトやバッハやベートーヴェンばかり聴いていると猛烈にこの人の音楽、のよおなものを耳にしたくなるときがある。パンやご飯やそばやパスタばかりでなくてたまには山葵を口にしたくなるよおなもんだ。


 Je te yeux とかsix gnossiennesとか、とかく機会音楽、機械音楽、環境音楽の元祖のように考えられているのだろおが、それはそれで当時画期的な発想であったんであり、もっと言えば旧来の音楽の和声と調性に対する方法的制覇を組織したシャンソニエーの革命的テロリストだったんだろお。
にもかかわらずそいつがいかなる内容の映画やドラマのBGM音楽にもなりうる融通無碍じゅげむジュゲム振りを内蔵しているところにこの人の隔絶した個性があるんであるんで、あるん。

サティ、この選集はEMIの廉価盤だが、5枚組1683円だったから1枚336円とゆうことにあいなってかなり割安であるし、演奏は若き日のチッコリーニだから最上のバルビエとまではいかなくとも平均75点の優れた演奏で、最上と次善の違いはとゆうと、詩魂のあるのとないのんの差であるんで、あるんで、あるんだった。
 
 5枚目の演奏だけは確信に満ち満ちたピアノの鳴りっぷりをしており、異質とゆうか、一皮抜けきったとゆうよおな特色があるが、はてそれがサティの音楽の本質に近いか遠いかは、弾いたご本人にも分からんじゃろう。



サティって何者なんやよお分からんわとぶつぶつ言いながら弾いてるからこーゆ録音になるんじゃチッコリーニ 茫洋



吉田司著「カラスと髑髏」を読んで

2011-04-01 11:44:07 | Weblog


照る日曇る日 第420回

「世界史の闇の扉を開く」という副題がついていますが、これは文字通り東西の世界史を、古代から現代まで牛若丸のように、ここと思えばまたあちらと縦横無地に飛び回って、私たちの立場を再確認しようとするサーカスの空中ブランコ芸人のような超軽業的な試みです。

著者によれば、第1部では天皇制と武士道という2つのイデオロギー怪物を解剖し、第2部では西洋思想の根幹となっているキリスト教と資本主義という2つの物神の怪物と戦うために聖母マリアの処女伝説を解体し、番外編では、フラットな世界を変えるための仮設の冒険を行うといい気宇壮大な思考冒険を敢行しています。

そしてそのドンキホーテ的な試行錯誤は、終章のアメリカ帝国初源の光景を幻視する箇所では急性インポテンツ状態に陥ったようになってあえなく頓挫してしまうのですが、そこに至るまでは、鋭い直観と精力的な博引旁証、力任せの三段論法をマサカリのようにぶんぶん振りまわし、ともかく大団円にまで漕ぎつける。その圧倒的な知の渉猟振りは、ほとんど感動的であるとすら言うてよろしいでしょう。

二〇〇六年九月にアメリカを訪れ、ボストンのハーバード大学の近所の公園で、当時イラクで戦争を続けていたブッシュ大統領を弾劾し、明治三五年頃に本邦で流行った「ワシントン」の歌を絶叫したというこの人を、私は♪てんで恰好いい奴だな、とすらひそかに思っているのです。

天は許さじ 良民の
自由を蔑する 虐政を
一三州の血は 滾り
ここに立ちたる ワシントン


死地に乗りゆくあほばか兄弟てんで恰好よく死にたいな 茫洋