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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

村上龍著「歌うクジラ下巻」を読んで

2011-01-16 13:15:56 | Weblog


照る日曇る日 第403回


舞台は、少子高齢化と階級分化がどんどん進行した22世紀の日本です。

海外から移民を迎え入れて労働と人口の生産性の低下を防ぎ、移民を含めた下層階級と中間層を一部の最上層と上層階級が国家全体を、階層別に効率的に管理運営する文化経済効率化運動が提唱されますが、2度にわたる移民内乱を弾圧し、階級矛盾を各階級の「棲み分け」とSW遺伝子の「適切な」配分とによって見事に解消したのが、最高権力者のヨシマツケンイチでした。

彼はまず各層の情報を完全に遮断し、警察力をロボットに託して絶対的な治安と秩序を獲得します。そして、たとえば100歳以上の最上層階級を高級老人施設や宇宙ステーションに移住させて幸福な長寿ライフをエンジョイさせたり、隔離施設に隔離した犯罪者の生命遺伝子を短縮・断罪したり、最大多数の労働者層が満足するだけの適切な所得を与えたりして、疑似的な「理想社会」のトバ口に立ったように見えました。

しかし表層の幸福に埋没したはずの最上層と上層の住民は、刺激のない日常に倦怠して生殖率がいちじるしく低下し、総合精神安定剤を乱用して幼女を誘拐・暴行・殺戮するなどの性的倒錯と性犯罪に溺れるようになります。

このままでは遠からずアッパー・ブライテスツが消滅してしまう。移民の人口急増が階級ヘゲモニーの全面的転倒につながる危険を察知したヨシマツは、SW遺伝子を持つひとにぎりのエリートを下層階級の女性とノルマを与えて交接させ、優良遺伝子を授けられたヤングゼネレーションを純粋培養しようなぞと決意するのですが、実効が上がりません。しかし主人公のアキラの実の父親は、もしかするとヨシマツかもしれないのです。

けれども、科学技術の粋を駆使してつなぎとめられてきたこの最高権力者のネットワークに、いまや重大な危機が迫っていました。日本を完璧に支配してきたこの男の権力を持続するためには、生命力にあふれる若者の知的な脳が必要だというのです。父を尋ねて遥か宇宙を二万マイル。果たして主人公アキラの運命やいかに? おあとは本巻を読んでのお楽しみ。

ダンテの「神曲」とソポクレスの「オイディプス王」にならいつつ、人類の悲劇的な未来史像を骨太に提示した著者の意図は、全篇覇気に満ちた壮大な企図として称賛に値しますが、全知全能を傾けたその理論的考察とファンタジーとの有機的な調和がいま一歩果たされていれば、著者がめざす平成版「夜の果ての旅」の境地に到達したのではないでしょうか。


智に働けば角が立つ情に掉させば流されるとかく村上小説は難しい 茫洋

町田康著「人間小唄」を読んで

2011-01-15 11:17:24 | Weblog

照る日曇る日 第402回


貧困は男根ですよと言い切るとき団塊オヤジきみの脚をみている

などという野放図な狂歌を軸にしてでたとこ勝負の法螺吹き噺が、それこそ疾風怒濤の勢いで、なおかつ鼻歌交じりに繰り広げられる、非常にノリのよいパンク小説である。

が、しかし、だからといってこの小説に構想やプロットがないというわけではない。冒頭の妙チクリンな「おうた」を送りつけられた書けない小説家、糾田両奴が、それを無断で引用し独自の解釈と鑑賞を施したエッセイを文壇誌に載せたところ、その狂歌を送りつけた張本人、蘇我臣傍安こと俺、が押しかけ、著作権の盗用だといきりたち、くだんの小説家を拉致して無理無体な難癖を付けまくる。

で、どういう難癖かというと、1)よい短歌を作る。2)ラーメンと餃子の人気店を作る。3)暗殺する、のいずれかを選んで実行すれば許してやる、というアバウトなもので、これが構想やプロットという名に値するかは、はななだ疑問であるが、物語は委細構わずどんどん進行していくのである。

さんざん苦悩した挙句、ついに小説家は

朝ぼらけだってよって嘲笑されて朗唱不能きみとペンネ食ったのも忘れてしまった

という、私など7度生まれ直しても詠めない大傑作!をものするのであるが、運悪く蘇我臣傍安のガールフレンドで白いワンピが良く似合う新未無の気に入らずに没になり、やむを得ず天下一のラーメン屋をめざす羽目になり、それからそれからとこの行く宛なしの与太話は延々と続いて行くのであるが、もはやあらすじなどはどうでもよい。

読者が堪能するべきは、その恐るべき教養に満ち満ちた、ユーモアとウイットみなぎる軽佻浮薄なパンクロック小唄の流麗な調べそのものである。




        2匹の猫に見下ろされながら咳2つ 茫洋





川上弘美著「機嫌のいい犬」を読んで

2011-01-14 09:41:18 | Weblog


照る日曇る日 第401回

当代一流のものかきによる初めての俳句集です。いくら優れた小説家でも俳句の本なんてそうは簡単に出せないでしょう。出した出版社もえらいけど、出してもらった作家は、してやったりとニコニコするでしょう。だから「機嫌のいい犬」という題名がつきた、とういうのは私の勝手な想像です。

徹頭徹尾機嫌のいい犬さくらさう


本書には1924年から2009年までにつくられた、それほど数が多くない俳句が1ページあたりたった2句という贅沢なレイアウトで並べられていますが、歳月が経つにつれてその出来栄えが急速に変化し、いうならば素人が素人裸足のレベルへと突きぬけて著者独特の俳句世界を築き上げていったありさまをつぶさにうかがい知ることができます。

夕桜ホテルのバーに人待てる

秋風や男と歩く錦糸町

はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く

などという句は、映像的輪郭がくっきりしていて、秘め事をのぞき知ったような妖しいときめきを感じます。さすがは小説家の俳句です。そして女の句です。


 そんな次第でどれも悪くないのですが、私が格別にいいなと思うのは、こんな句です。

たくさんの犬埋めて山眠るなり

舐めてとる目の中の塵近松忌



でんでん虫生きているって言ってみろ 茫洋

村上龍著「歌うクジラ上巻」を読んで

2011-01-13 13:32:26 | Weblog

照る日曇る日 第400回


同じ村上でもハルキさんが大活躍なのにライヴァルのリュウさんはつまらん経営者PRテレヴィにばかり出ていったい何をしているんだろうと思っていましたら、どっこいすんごい小説をひそかに書き続けていたんですね。

つねに時代の最先端で揺曳する政治、経済、社会、文化問題の本質にずぶりと切りこんで、愚かな私たちをあっと言わせて蒙を啓いてみせてくれる著者ですが、今回は22世紀の日本および日本人をテーマとする気宇壮大な超未来ファンタジーを繰り広げてくれました。

紀元2022年のクリスマスイブに、グレゴリオ聖歌を歌う推定1400歳のクジラがハワイ沖で発見され、そのクジラちゃんの細胞から不老不死の機能を備えたSW遺伝子が発見されるところからこの希代の空想とリアルが合体された物語が始まります。

私は第1章の38頁に書かれたこのらちもない記述にあきれ果て、「フィリップ・K・ディックならもっと巧みな導入をするぞ!」と叫んで、本書をゴミ箱に投げ入れ、およそ1週間放置していましたが、どうにもその先が気になってまたまた手に取ったのですが、著者が入念に仕掛けたはずのこの種の強引な設定に乗れないまま、読書を放棄する読者もさぞ多いことでしょう。

さて長年の夢をついに叶えた人類は、一方ではノーベル賞受賞者や高い知能・才能の持ち主の寿命を延ばすとともに、大量殺人者や凶悪性犯罪者あるいは反社会的人物の老化を促す医学的刑罰を下して現世からの急速な退場をもくろむようになります。

この物語の主人公のアキラの父親も、SW遺伝子処分を受けて幽閉され、処断された「新出島」の住民なのです。亡き父親がアキラのICチップに書きいれた秘密指令を実行するべく、身体障碍者のサブロウと共に厳重に隔離された「新出島」を脱出することに成功した2人の少年を待ち構える、異様な世界の異常なピープルの正体は果たして何か?!

読者はたちまちキッチュでポップなジェットコースターに乗せられ、どこへ連れられて行くのかまったく予測不可能な旅に拉致されてしまうのです。著者が予告する「22世紀版神曲」の遍歴は、いま始まったばかりです。


けふも悲しい顔をしておった不老長寿の老人 茫洋

クリント・イーストウッド監督の「ダーティハリー4」をみて

2011-01-12 15:04:49 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.72

1983年にクリント・イーストウッド監督が主演製作した「ダーティハリー4」では、ならず者たちに暴行された女性ソンドラ・ロックの犯人への復讐がテーマになっています。いたいけな妹ともども遊園地の回転木馬の中で強姦された彼女は、怒りの弾丸を陰部と脳天に1発ずつ撃ち込み、血の報復の輪をまさに完成させようとしたときにサンフランシスコ市警のキャラハン刑事が登場しとのたもうのです。

暴力装置としての国家権力にがんじがらめに囲繞された私たちは、もはや他者によって加えられた犯罪や暴力に対して自力で対処する自然かつ当然の行為を禁じられ、そのすべての落とし前を国家権力にゆだねてよしとしているように表向きは見えますが、ホントの本音の部分では、爬虫類の脳が、「目には目を、歯には歯を!」と絶叫しており、実際にはそうした表層の人間脳の知的な判断を爆砕して第2の犯行におよぶ例は枚挙に暇がありません。


げんにわが国でも赤穂浪士の敵討、下がっては権力による横暴と殺戮に我慢に我慢を重ねた高倉健が、自らも近代知識人としての封印を破って再びの殺戮をおかしてしまう。世界中で古来数多くの私刑が実行され、劇化されて人智の暗闇にひそむ血の報復の合理性と快感の入り混じったカタスシスを提供し、大衆の快哉を博してきたのですが、本作も比較的新しいその好例で、美しく理知的な容姿に惹かれたキャラハンは、その私刑を最終的には容認してしまいます。

彼がGo ahead, Make my day!と叫ぶと、おおかた犯人はやろうとする前にやっつけられてしまうのですが、この作品だけは例外で、やはり可憐でけなげな美女の前では、法の下での正義などどうでもよくなってしまう。この理不尽な結末を正義について語るのが大好きなサンデル教授に見せたらなんとコメントするでしょう?


 Go ahead, Make my day!ドラ猫が見毛猫にいきまく冬の昼下がり 茫洋

アニエスカ・ホランド監督の「ベートーヴェンにならって」を観て

2011-01-11 14:49:36 | Weblog



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.71

 
「敬愛なるベートーヴェン」という訳のわからない邦題をつけたのは、東北新社という配給会社のド阿呆。「敬愛」は名詞で形容動詞ではないから、このれっきとした誤用では楽聖を尊敬するどころか日本文化全体をコケにしたも同然である。

 ちなみに原題は「COPYING BEETHOVEN」。作曲家をめざすこの映画のヒロインが、ベートーヴェンを尊敬しており、彼の晩年の作品の写譜をする若い女性なのでこのタイトルがつけられているが、もうひとつ彼女の作品が「いい曲だが、私の真似をしている」と楽聖から批評されたポンイトを強調したいために、こういうネーミングにしたのである。

いやしくも創造をめざす表現者は、師表のたんなる模倣者に終わってはならぬ。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という貴重な人生訓を含んだ文部省推薦映画なのに、せっかくのその有り難い内容を、無知で無教養な日本の配給会社が台なしにしたのである。おそらくこの会社には、日本語を正しく読み書きのできる日本人がひとりもいないのであろう。

そこでそんなアホバカ会社に代わって私が考えたのが新邦題の「ベートーヴェンにならって」。トマス・ア・ケンピスの名著「キリストに倣いて」にならったのですが、以後は日本全国このタイトルに変更していただきたい。

と、さんざん悪口を叩いたけれど、映画自体はなかなかおもしろかった。

1824年5月7日の第9交響曲の初演は、この映画では、なんとくだんの写譜係の女性が、オケのなかにもぐりこんで楽聖に向かって指示を出し、それを見ながらつつがなく指揮を終えたベートーヴェンが、ウイーンの満堂の聴衆の拍手喝采を浴びることになっている。

しかし実際は、そもそもこんな若い女性なぞはベトちゃんの妄想の中にしか実在せず、難聴のために正確な指揮ができないベートーヴェンの隣に正指揮者が並び立ったために、即席のオーケストラは大いに混乱したそうだ。さもありぬべし。

 彼女はベートーヴェン宅に通うためにウイーンの修道院に下宿しているという設定になっているが、修道院長のおばさんはサリエリの弟子についたという設定にもなっていて、この映画は、生涯を独立不羈に生き抜いた楽聖の励ましで、男でも難しい作曲家をめざす女性に対してエールを贈るところで幕がおりる。ちょっととってつけたようなフェミニン映画とも言えるだろう。


 聖キリストにはならえなくとも楽聖のベートーヴェンならならってもいいな 茫洋

フェデリコ・フェリーニ監督の「道」をみて

2011-01-10 14:39:01 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.70


ニノ・ロータの哀愁あふれる「ジェルソミーナ」がいつまでも耳に残る悲しい愛の物語です。なんといってもけだもののようなアンソニー・クインとノータリンで無垢なジェリエッタ・マシーナの組み合わせが絶妙。そこにファンキーな綱渡り芸人のリチャード・ベイスハートが絡んで三幅対の悲劇が完成します。

 何度見ても目を引くのがザンパノが運転するオート三輪。敗戦直後のわが国ではいたるところでこのスタイルの乗り物が使用されていましたが、この映画の中で登場するのは「故障知らずの米国製」とザンパノが自慢していました。

ザンパノの得意技は胸に巻いた鉄の鎖を吸い込んだ空気で断ち切ることですが、これって何回見てもカットはされていない。ぶち切れるのではなくブリッジされた細い部分がはずれるのではないかと想像されますが、どんどん歳をとっていく旅芸人が馬鹿の一つ覚えの力技を見せものにする情景は侘びしいものがあります。

 物語の終わりの方でザンパノに殴り殺された綱渡り芸人のイマージュがトラウマになってそれまでも頭が弱かったジェルソミーナをザンパノは見捨てるのですが、彼女が横たわっている地面だけは太陽の光が当たっていない。ザンパノはもっと明るい方へ来いよと呼びかけるのですが、彼女はココでいいと言って拒むところも印象に残ります。

自分が捨てた女の哀れさと喪ったものの大切さにはじめてきづいて夜の浜辺で嗚咽するザンパノですが、なに一晩経てば色女とよろしくやっていくに違いありません。


お母さん自閉症ってなにと尋ねている自閉症の息子 茫洋


安田公義監督の「眠狂四郎魔性剣」を傍観視する

2011-01-09 10:20:16 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.69&音楽千夜一夜 第176夜


1965年製作の、市川雷蔵主演のシリーズ第6作。柴田錬三郎の原作を安田公義監督が映画化しましたが、高峰を知るためには谷底を這いずりまわることも必要、という茫洋格言を地でいくような凡庸極まり無きルーチンピクチュアーです。

まあ元をただせば原作自体が黒ミサとか蛇使いの女忍者とか荒唐無稽なプロットの連発なので、これを映画にするにはシナリオの名人が必要であるにもかかわらず、星川清司の脚本があまりにも素人作文で芸がなさすぎるために、雷蔵と嵯峨三智子の「美貌」を鑑賞するしか能のない典型的なC級大映映画になり下がっています。

しかし当時のわが懐かしき観客たちは、「こんな品性下劣な娯楽映画」に手に汗握って満員立ち見で見物していたことを思うと、溝口や黒沢や小津や成瀬なぞの「名作」がいかに日蔭の華であったかが如実にうかがい知れるというものです。

「こんな俗物映画が映画だ」と信じ込んだ観客自体のこころ、それは平成の御代の音楽世界にも健在です。たとえば演歌やレゲエやラップやAORや今様の沖縄ポップスの単純明快な三三七拍子にいとたやすく飛びついて身をゆだね、多少の違和感を圧殺してそれを自主独立の自前の音楽と信じこみ、無反省に身体やのんどを振動させてゆく、自己投棄の内部におおきく横たわっている脱主体・反知性ワールドへの軽挙妄動です。 

今年の紅白でいうと、嵐とかエグザイルとかの実存に相亘らぬ駄曲たちの世界。まあ桑田の新曲以外のたいがいの曲がそうでしたが、とりわけこれをおのれの人生の秘事として胸中に大事に内蔵すればいいのに、「トイレの神様」などという「迷曲」を作り、大衆の面前で恥知らずに延々と歌う「喉だけは素敵な素人」と、このこっぱずかしい稚拙な歌謡に拍手喝采大泣きする大衆の心根で、これらの対極に光り輝いているのが例えば友川かずきの「生きているって言ってみろ」の切り裂きナイフの突端であることは、もはや言うを待たないでしょう。

それはともかく日本映画の黄金期を下支えし、その凡庸さに改めて辟易した観客自体が映画会社のマーケティングに失望した瞬間に、日本映画の黄金時代は終わり、この低迷は現在もなお長期にわたって持続しているのです。

元に戻って、そんなに駄目でひどいこの映画にも褒め称えるべきキーポイントが2つありました。一つはその素晴らしい題名で、これを見た人は嵯峨三智子が全裸になって雷蔵を誘惑するのではないかと思うはず。もうひとつは私の親戚の時代劇俳優、五味龍太郎の名演技。悪役専門のこの名優が、眠狂四郎の「円月殺法」の血祭りになるシーンを一瞥するだけでもこの映画の価値はあるといえましょう。


ゆるやかに円弧を描く村正の一太刀浴びてゴミリュウ仆る 茫洋



福田善之著「草莽無頼なり」下巻を読んで

2011-01-08 10:19:01 | Weblog


照る日曇る日 第399回

いよいよその運命の日が近づいてくると、著者の筆が鈍って、書きたくないという。その気持ちは分かるが、こういう史伝は初めて読んだ。

この人は、志半ばで倒れた男、自分が惚れこんだ男を、いっかな死なせたくないのである。「維新史土佐勤王史」、大佛次郎「天皇の世紀」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」の3著に依拠しつつ様々な「たられば」を論じながらも、中岡慎太郎というけったいな男の実存に迫ろうとして、延々と回り道を楽しみ、その人柄や思想、特に前者について、あれやこれやの空想をたくましくしたい人なのである。

近江屋の2階で刺客の鋭い刃に斃されるまで、彼と龍馬がどのような対話を交わしたかという想像を巡らせるその要点が、政局よりも死んだ高杉晋作の女についての感想であるというのも、「さもありなん」と感じさせるし、全篇を通じて「くぐつ師」のおふうや半兵衛という空想上の人物に神話的いのちを与えて、主人公の予言者ないし守護神の役割を割り当てていることも、いかにもな福田流演劇作法のひとつといえるだろう。

しかし著者がいうように、土佐藩の板垣退助を動かして薩摩との同盟を果たし、蟄居中の岩倉具視を薩長のネットワークに組み入れ、陸援隊を組織したのは、なんといっても中岡慎太郎一個の手柄であり、とりわけ吉田松陰と高杉晋作の「奇兵隊」の草莽思想の影響を受けた陸援隊の、万人に向かって開かれ、出入り自由という民主的である以上にアナーキーな組織原理が、中岡によって夢見られていた、と説く著者の語り口は魅力的である。

もしこの未完の偉大なる革命家がいましばらく健在で、この陸援隊の草莽原理が、軍隊の枠をはみだして大きく発芽し、わが国の政治原理の基底にまで喰い込んでいたら、と著者ならずとも誇大妄想的な「たられば」的初夢をエンジョイできるところが、この本の得難い変態性なのではあるまいか。


転配はわが本意にあらずという人思い墓地歩みけり正月三日 茫洋


福田善之著「草莽無頼なり」上巻を読んで

2011-01-07 11:19:37 | Weblog


照る日曇る日 第398回

福田善之といえば「真田風雲録」。その主題歌を「てんでかっこよく死にたいな」なぞと高歌放吟しながら機動隊に突っ込んでいった昔もあったわけですが、どっこい「袴垂れはどこだ」の当のご本人が健在で、幕末の志士中岡慎太郎を主人公とする小説をお書きになっていたとは知りませんでした。

 世間ではまるで馬鹿のひとつ覚えのように、海援隊の坂本龍馬が幕末史を主導したかのような奇怪な幻影にとりつかれていますが、(特にひどかったのはエヌエチケイの大河ドラマの史実を無視した英雄主義史観)とんでもない話で、別に彼がいなくたって維新は達成されたわけですし、彼のほかにも無数の志士たちが列島各地に叢生していた。著者がいうように、時代が青春期を迎えていたわけです。

 慶応3年(1867)11月15日、所も同じ四条河原町上ル醤油商近江屋新助方2階で暗殺された一代の英雄?龍馬ではなく、従来あまりフットライトを浴びることがなかった、このどんくさい土佐の庄屋の倅、に着目して幕末動乱史を描こうとしたのは、さすがは福田善之といえるでしょう。

 本刊ではこの、いささか遅れてやってきたけれども真打ちの革命家の前史として、土佐藩の武市半平太、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作など尊攘派志士とのまじわりを通じて、吉田松陰の「天朝も、幕府、我藩も不要、ただ六尺の我身が入り用」という草莽の思想に逢着し、疾風怒涛の青春の渦中に身を投じるところまでを、悠揚せまらぬ、けれど深い学殖に裏打ちされた、見識ある高等漫談とでも評すべき語り口で吟じつくしています。



 青春を終わりし時代の行き止まりてんで恰好悪く死んじまうおれたち 茫洋



マイケル・マン監督の「マイアミ・バイス」を見て

2011-01-06 13:30:41 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.68

2006年に製作された特捜刑事マイアミ・バイスの映画版である。

冒頭から画面はダークで誰が何をしているのやらさっぱりわからない。ジョン・マーフィーの音楽も輪をかけて暗い。犯罪都市マイアミの悪徳を描くB級映画だからそれはそれでいいのだろうが、ギャング、ドラッグ、武器、密輸、秘密捜査と話が揃って、糞ダメに名花コン・リーと主人公コリンファレルの間に敵味方を超えた運命の恋が芽生えてもまったくも救いがない。こんなあほくさいドラマを撮影・製作していても創造のよろこびなんて全然なかっただろう。

監督のマイケル・マンの経歴を調べてみたら、あのクーパー原作の「モヒカン族の最期」を映画化した「ザ・ラスト・オブ・モヒカン」の監督であった。これで私の中では1955年製作の「侍ニッポン」と並ぶ心も冷えるお先真っ暗映画3本立てが完成したことになる。いずれをとっても夢も希望もない世界的なご時世にぴったりの映画であろう。

ゆいいつはきだめの鶴的な存在感を示しているのがコン・リーだが、あの1987年の「紅いコーリャン」から20数年、この女も幾星霜を経て今頃はどんな想いで暮らしているのだろう。映画のラストの暗い海に消える百合のような痩せた顔、思いつめたたような翳のある瞳を見ていると、こちとらまでがやるせない気分に襲われるのである。

生も暗く死もまた暗いそんな眼をしてこっちを見るなコン・リー 茫洋

田村志津枝著「初めて台湾語をパソコンに喋らせた男」を読んで

2011-01-05 15:14:29 | Weblog


照る日曇る日 第397回


昨年のユネスコの調査によると、世界ではおよそ6000の言語があるそうですが、そのうち約2500の言葉が、絶滅の危機にあるそうです。

日本ではあの金田一さんが研究なさったアイヌ語の話し手が、いまやたった10人になってしまい、その他八丈島・南西諸島(奄美、沖縄、宮古、八重山、石垣島、国頭)など合計8つの言語が滅びつつあるというのです。貴重な動植物の消滅も気になりますが、言葉の消失も人類の文化遺産とその多様性の喪失という意味で惜しまれてなりません。

しかし私は、台湾語もある意味で存亡の危機にある言語であるとは、この本を読むまではまったく知りませんでした。

著者によれば、台湾語はもともとは中国福建州南部の言語で、その住民の移住によって台湾で使われるようになったそうですが、その移住民の子孫が7割を占めるこの地で台湾語が公用語になったことは一度もなかったそうです。

日本の植民地時代には日本語、中国からやって来た国民党政権の時代には標準中国語の使用を強要された台湾の人たちは、日常の生活語としてのみ彼らの母国語を、まるで江戸時代の「オラショ」のようにひそかに口伝えてきたというのです。

日本人でありながら台南に生まれ、侯孝賢監督の「悲情城市」などの台湾ニューシネマを初めてわが国に紹介するなど、この南の島に浅からぬ因縁を保ち続けてきた著者は、台湾語の消滅を憂慮し、最新のコンピューター技術を駆使して母国語を保存しようとする友人アロンの情熱的な生き方に次第に魅入られ、その一途な仕事振り寄りそうようにして、この「絶滅危惧言語」の実態に深入りしていきます。著者がとつおいつ書きすすめていく随筆とも交友録ともルポルタージュともドキュメンタリーともつかぬ奇妙な文章を読まされているうちに、あら不思議や、現在の台湾と台湾の人たちがかかえこんでいる歴史と年輪の重さというのものが、おのずから浮かび上がってくるような気配なのです。

「台湾語は美しい言葉だ」と語るアロンに共感する著者は、きっとこう言いたいに違いありません。「台湾は美しいふるさとだ」と。



ユニクロで6足1000円の靴下を迷いつつ選ぶ小さなしあわせ 茫洋

マーチン・スコセッシ監督の「アビエイター」を見て

2011-01-04 17:31:59 | Weblog
偉大なる飛行家であった大富豪ハワード・ヒューズの半生を名監督のマーチン・スコセッシが見ごたえのある映画に仕上げています。

史上最大の水上輸送機ハリキューズやゼロ戦に似たデザインの高速機などの設計統括に携わっただけでなく、飛行機会社を立ち上げ、ついにはトランスワールド航空を買収して当時最強の航空会社パンナムに対抗するなど、この一代のヒコーキ野郎の飛行機に賭ける情熱の凄まじさには圧倒されますが、その野心的な事業欲にも増して彼を突き動かしたものは、「大空を自由に飛ぶ喜び」であったことが、いき生きと描かれていて共感を呼びます。

恋人キャサリン・ヘップバーンに操縦を教えながら、ロサンジェルスを夜間飛行するシーンはとても感動的ですが、おそらくこの瞬間こそが、ヒューズとヘップバーンにとって生涯で最も幸福な時間であったのではないでしょうか。

強迫性障碍に付きまとわれて悲惨な死にざまを余儀なくさせられたハワード・ヒューズの霊を慰めるために、マーチン・スコセッシは、彼を野心的な大事業家や軽佻浮薄な漁色家として描くよりも、悲運の大フィルムメーカー、あるいは米国のサン・テクジュペリとして描くことを好んだような気がします。

なおヒューズ役のデカプリオは大健闘していますが、女優陣はみな駄目で、それら当代の有名俳優たちを「当節はどうしてこんな大根役者しかいなくなってしまったのかいな」と野村監督のようにぼやきながらも、楽しそうにメガフォンを取っているマーチン・スコセッシの穏和な顔つきが見えてくるようです。


此岸より名優多き彼岸かな 茫洋

メトのベルディ「アイーダ」を視聴する

2011-01-03 16:33:37 | Weblog

♪音楽千夜一夜  第175夜


新春の気分にあうか合わないか分からないが、ともかく見たのはこのNHKの録画。2009年10月24日のメトロポリタン歌劇場のライヴで幕間にルネ・フレミングが出演者にインタビューするというおまけ付きです。

表題役をヴィオレータ・ウルマーナ、ラダメスをヨハン・ボータ、アムレリスをドローラ・ザジックが熱演する3時間を楽しみましたが、中ではやはりベテランのザジックが遠くまで声を飛ばして圧巻ですが、この主役3人の最大の欠点は顔も体もブタブタブタなことでしょう。演技もいまだしであります。

指揮は、小生がかねがね注目しているダニエレ・ガッティですが、ウイーン・フィルで管弦楽を振っているときには威勢が良かったけれど、メトではどうも冴えない。音楽監督のレバインから、もっと自在な感興の高まりを引き出すすべを学んで欲しいものです。

演出は有名なゼッフィレッリを薄味にした感じのソニア・フリゼルですが、凱旋の場面で馬は4頭登場しても象が出てこないところにいちまつのわびしさを感じます。ともあれニューヨークの観衆は温かい。ウイーンやミラノと違って、あんまり細かいところを問題にせず、おおような態度で盛大なブラボーを浴びせるのは、これはこれで結構です。


野晒しや百尺竿頭一歩を進む 茫洋


年末年始音楽三昧

2011-01-02 16:32:00 | Weblog

♪音楽千夜一夜  第174夜


旧年中からの仕事で、大晦日も元日もなくひたすらパソコンに向かっている2011年の幕開けですが、そういいながらもちゃんとNHKの音楽番組はチエックしておりました。

先ずは2009年のベルリンフィル恒例のシルべスター・コンサートですが、これが思いがけず良い演奏で拾いものをしたような気持ちになりました。ベルリンフィルは高く評価するものの、そのシェフのサイモン・ラトルの音楽性について大いなる疑問を懐き続けてきたわたくしめでありましたが、当夜のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」はなかなか良かった。

チャイコのバレエは、彼の交響曲やオペラを凌ぐ本当の傑作ばかりですが、とりわけこの曲はいくら聴き続けてもけっして嫌にならないほどよく出来た曲です。その名曲をまるで作られたばかりの新鮮さで聴かせてくれたラトルは、もう昔のラトルではない。かれのブラームスの全曲録音がかれの音楽遺伝子を全とっかえしてしまったのかも知れません。
この度めでたくコンマスに就任した樫本大進やビオラ首席の清水直子も、ラトルともども力演していました。

 続く元旦恒例のウイーン・フィルのニューイヤーコンサートは、指揮者が小澤の後任で国立オペラのシェフに就任したフランツ・ウエルザー・メストへのお祝儀ということで、なんの期待もしていませんでしたが、まったくその通りの普通の演奏に終始していました。

 ウイーン・フィルのウインナワルツは、妙な指揮者(例えば小澤、メータ、アーノンクール、バレンボイムなど)が妙なことをすると、その本来の良さが傷つけられて台なしになるのですが、ぬきんでた指揮者(例えばカラヤンやクライバー)が妙なことをすると、時として素晴らしくなるという変態的な特性があります。

 メストはそういう危険を冒さない代わりに、かといって「メストならではのなにか」はアンコールの2曲にいたっても何も出てこない、まるで水道水の垂れ流しのような演奏でした。こんなことは彼がチューリッヒ歌劇場で垂れ流していた「清く正しく美しい宝塚オペラ」を聴いたことのある人なら、とっくに分かっていたはずです。

 私がいいたいのは、この人やブロムシュテットとかサバリッシュなど賢くて秀才型で真面目な人格者は、あんまり指揮者などにならないでほしいということです。大体君たちのインテリ臭い顔は、そもそも音楽をやる顔じゃあない。古今東西を問わず、ミュージシャンは、やくざなの専売特許であることを忘れてもらっちゃあ困ります。

 偉大なるサイモン・ラトル「卿」が、サーなるご立派な称号を惜しげもなくテムズ河に投げ捨て、かのビートルズを生んだリバプールのバサラな伝統を受け継ぐラトル「狂」になり下がった時、ベルリン・フィルはカラヤンを超える偉大なマエストロを戴冠することになるでしょう。



    おいらはしょせんそうおもいながら指揮せよ指揮者 茫洋