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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

極月三題噺

2010-12-16 17:01:39 | Weblog
バガテルop133

日本経済新聞。
毎日これほど膨大な数字を取り扱う媒体は類を見ないが、石川啄木のような人が校正しているのであろうか。たまには誤植もあるのではなかろうか。この新聞の文芸欄は朝日より充実しているが、最近連載が終わった小池真理子という人の「無花果の森」はお粗末だった。これでも直木賞作家の作品か。結局なにごとも起こらなかった。文学も音楽もなにかが起こらなければぜったいに駄目だ。小澤征爾とN響は死ぬまで待ってもなにも起こらないから駄目なのだ。短い文章なのに日経夕刊でいつもあざやかな火花を爆ぜているのが森岡正博の火曜日のエッセイ。「ソトコト」巻頭の福岡伸一、林望と並ぶ現代日本語随筆の三筆だ。


菅内閣。
予想通り、いやそれ以上にひどいものだが、そもそも汝政治に多くを期待するなかれ。それほど悲噴慷慨なさるのなら夫子自らやってみなはれ。他人の悪口は言えても自分でやるとなるとなかなか難しいものだよ。昔の明るいナショナル小泉自民党にくらべたら靖国に参拝しないだけでもはるかにまし。われわれとまったく変わらぬ凡人どもが、クラス委員よろしく下手くそなド素人政治やら裁判を悲喜こもごもわいわいがやがややるのが民主主義というもの。戦前のわが帝国や中国やビルマ、ロシアなどに比べればそれこそ天国と地獄の違いだ。ああ、素晴らしきかな、この駄目で無様で最悪な邦、ニッポン! このままよろめきながら遠くまで行けばいいんだ。沈みゆく真っ赤な夕陽に向かって。


NHK。
どうしていまのBS3チャンネルを、来年4月から2チャンネルに減らすのか。下らないあほばか民放チャンネルばかりうじゃうじゃ増やしていったいどうするんだ。総務省のくそたり。

N響 しかなたなく耳にしているが他の民間オケと比べて演奏内容が無個性でひどすぎる。無能オケにして無脳桶。即刻解散して公募でメンバーを再募集するか、経営をNHKから切り離して独立採算制で鍛え直すべし。泣く泣く滅びた新星日響の爪の垢でも煎じて飲め。

「坂の上の雲」のはるか坂下で子規死す。好漢香川照之選手が子規さながらに果てた。じつに立派な死に顔であった。このドラマはかの「龍馬伝」とおなじ伝で国家主義を時を得顔に鼓吹する低俗番組であるが、妙なところで時々面白い。前回は子規が「鶏頭の十四五本もありぬべし」と詠んだ根岸の子規庵がリアルに再現されていた。わが国の近代文学と近代建築の源流は、この粗末な木造平屋のガラス窓を流れていった四季折々の坪庭の風景から出発している。昔私がここを訪れたとき、寒川鼠骨の子孫に当たる年輩の女性が、子規の高弟が子規庵の保存に無関心であることを盛んに訴えて、なかなか帰してくれなかったことをはしなくも思い出したが、さもあらんか。


香川逝けり子規さながらに極月12日 茫洋


おまけの四題目
「親交が深い」。
とは同義反復。トートロ爺。すでにして親し、さすれば交わり深からぬはずがない。記者諸君は、ただ「親交があった」と書けばいいのだ。




ヒッチコック監督の「知りすぎていた男」を見ながら

2010-12-15 17:54:49 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.67

1956年公開のスリラー映画の傑作。ヒッチは何気なく昼下がりの無人の街路を撮って見せても、それだけで観客を怖いと思わせることができた人。何回見てもいくつもの見落としと新たな発見がある映画です。

今回の発見は、ドリス・デイが熱唱する有名な「ケ・セラ・セラ」のこと。サビのケ・セラ・セラの箇所で、私は後半のセラのセが半音上がっているのに初めて気づきました。ここで上げられると虫歯のホウロウ質が痛くなるような気色悪さがある。どうしてこういう音符を書くのだろうか。

でもきっとあえてそういう風にしたんだろうな。滝廉太郎が「春高楼の花の宴」の最後のエを半音下げたように。しかしレコードを聴くとみんな半音上げて歌っている。これでは作曲家に失礼ではないだろうか。

もひとつこの映画ではバーナード・ハーマンが作曲指揮して広大なロイヤル・アルバート・ホールで演奏される、ああいかにも英国音楽だなあという声楽入りの大曲が鍵を握っています。

恐怖のシンバルが打ち鳴らされるその瞬間を、ドリス・デイも我々も今か今かとはらはらどきどき待っているわけですが、しかし銃弾の引き金を引くその瞬間を、あの暗殺者はどうやって察知できたのかよく分からない。
あの時点ではもうスコアを持ってカウントしていた女性は姿を消していましたからね。よほど音楽的センスのあるアサシネーターだったと思われます。

最後に何回見ても面白いのが、ジェームス・スチュワートに乱入された剥製製造所の面々。カジキマグロやライオンもびっくりでした。


夥しき死人出せる家並び鳶舞う鄙を鎌倉と呼ぶ 茫洋


山本薩夫監督の「華麗なる一族」を見ながら

2010-12-14 16:00:24 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.66

山崎豊子と組むと無類の面白さを発揮する山本薩夫の代表作です。この人はいかにもな旧時代型の反体制主義者なおですが、であるがゆえに安心し、かつ、たかをくくって見物していられるところに、いわゆるひとつの偉大なる暗闇的存在価値があるのです。

この映画のいちばんの見どころは、万策尽き果てた万俵家の長男鉄平が国会議事堂のまん前の交差点を赤信号であるにもかかわらず平然と歩いていくところ。親にも、政治家にも絶望して自死を決意した男の孤独と絶望をこれほどさりげなく表出したシーンはないでしょう。

役者は鉄平の仲代達也、父親の佐分利信、情婦の京マチ子、私の大好きな酒井和歌子などみな好演しているが、とりわけ素晴らしいのが大蔵大臣役の小沢栄太郎。こういう役者は日本全国どこを探してももういなくなってしまいました。

丹波篠山の山奥で右足の親指で猟銃の引き金を引いて自殺する仲代達也の演技を見ながら、僕ならもっと上手にやってみせると呟き、その4年後に実践してみせた田宮二郎も別の役で出演しています。


介護せず介護されずに生きてあれば天国にある心地こそすれ 茫洋


「あるいは裏切りという名の犬」を見て

2010-12-13 20:47:25 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.65

パリ警視庁のある「オルフェーブル河岸36」という題名が、どうしてこのような訳のわからないタイトルになってしまうのか不可解だが、この血なまぐさい警官の殺戮と暗闘の物語は実話だというから驚く。

ともかくパリ警視庁を代表する有力刑事(ダニエル・オートイユ)がひとりは暗黒街のチンピラたちとつながっており、簡単にだましたりだまされたりする。こんなやつがよく警官をやっているもんだ。

ところがもうひとりの、同僚に圧倒的に人気がない刑事(ジェラール・ドパルリュー)は、人気者のライバルが妬ましくてならず、その手柄を横取りしようと大捕り物を失敗させて同僚刑事を死なせたり、ライバルの刑事をちくって牢屋に送ったり、しまいにはその愛妻を殺したりする大悪人。

それなのにライバル不在の間に大出世してナンバー2の警視長として君臨していたというのでまた驚く。しかしこれでは第一の刑事があまりにも可哀想。きっと復讐するに違いないと思って息を殺して見ていたら、結局自分では手を下さなかったのだけれど、自分が主催する華麗なパーティの夜に、通りすがりのあんちゃんにいきなり頭に拳銃をぶち込まれて即死するのでまたまた驚く。

いったいこれってほんとうに実話なのか? パリ警視庁ってこんな連中がたむろしているのか? だったら日本の警視庁は大丈夫なのかしらん。私の家に以前やってきた二人の刑事のレベルは相当低かったけれど。

往年の青春スタア、ミレーヌ・ドモンジョが乳母桜になって登場しているも驚き。おばあさん、お手柔らかに。


営業は真心に尽きるなり逗子ホームイング石田店長 茫洋


梅原猛著「世阿弥の神秘」を読んで

2010-12-12 09:12:13 | Weblog


照る日曇る日 第391回

角川から出ている「うつぼ舟」シリーズの第3巻である。

本巻の主題は世阿弥作品に流れる思想の研究である。著者はわが国の能を主導した世阿弥の代表作を俎上に載せて、その根幹思想を例によって梅原流にえぐり出そうと試みている。

著者は、たとえば世阿弥の有名な「高砂」や「西行桜」「当麻」「鵺」などに「天台本覚思想」における「草木国土悉皆成仏」の通奏低音を聞き取り、世阿弥の反人間絶対主義を評価する一方、「白楽天」では本邦初の文化的・軍事的ナショナリズムの世阿弥的発露が認められると喝破し、さらには修羅能の代表作「清経」の本質にひそむ実存主義的人間像を発掘するのであるが、こうした資料と文献の徹底的な読み込みと独自の創見はかつて著者以外の誰もがなしえなかった成果といえるだろう。

また私は住吉神社がミソギの神であり、航海の神であり、戦いの神であるとともに歌の神でもあることを、本書ではじめて知った。

住吉大社は周知のように表筒男命、中筒男命、底筒男命の三柱を祭るが、神功皇后とも縁が深い。そしてこの神社は、応神王朝が間違いなくアマテラス、神武天皇以来の万世一系の後継者であることを示すために、応神陵、仁徳陵と三点セットで創建したという著者の主張は、はなははな興味深いものがある。

著者が紹介してくれたもっと興味深い話。

それは、神功皇后が反逆者である息子忍熊王とその部下五人の首を、甲と共に近所の山の頂上に埋めたので、その山を「六甲山」と呼ぶようになった、という竹中靖一氏の説である。

この話を聞いた後ではいくら熱狂的な阪神ファンがアホ馬鹿巨人に大勝しても、あだやおろそかに「六甲颪」を歌えなくなるのではないだろうか?


「だ」で書くと男「です」で書くと女になったような気がします 貫之



マイケル・アプテッド監督の「エニグマ」を見て

2010-12-11 08:26:56 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.65

「エニグマ」はエルガーの曲でよく知られているが、その同じ名前をナチスが自軍の暗号名としていたとは知らなかった。

この映画は、第二次大戦中にそのエニグマの謎の解明に青春を捧げた英国暗号解読チームの知られざる活躍を、彼らの恋と友情、そしてソ連のカチンの森の虐殺事件のエピソードを交えて描いている。

結局彼らの活動のおかげで英軍は暗号解読に成功するのだが、それ以上に興味深いのは当時の友好国ソ連が、カチンの森でポーランド将校を虐殺したことを知った暗号解読チーム内のポーランド人や英国軍の高級将校たちの動きである。前者は敵の敵であるドイツに味方しようとしてスパイとなり、後者はその「危険な」情報を抹殺しようとする。

ケイト・ウインスレットなど存在感の乏しいうすっぺらな役者しか登場しないが、戦争当事者である英国とドイツ両国の資金で製作されたこの映画はハリウッドとは一味違う暗さと重さが底流に流れており、ベテランのマイケル・アプテッド監督がそつなくまとめている。

特筆すべきはジョン・バリーの音楽。ジエーン・バーキンの最初の夫であったこの人は、なにを隠そう私が最も評価している映画音楽家で、彼の最新作を一聴するためだけでもこの映画は価値がある。



          わが魂の奥に燃ゆるか修羅炎 茫洋


山本薩夫監督「続忍びの者」を見て

2010-12-10 08:39:59 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.65

かろうじて生き残った五右衛門だったが、もう忍者稼業は卒業だ。親子3人水入らずで楽しく暮らそうと思っていたところへ、乱入してきた信長の家来に愛児を殺されてしまう。

怒り狂った五右衛門は、最後に残った一向一揆の拠点であり、妻の故郷でもある紀州雑賀一族に身を寄せ、再び信長暗殺の野望に燃える。そうして家康の隠密服部半蔵と連携しつつ、反信長の先鋒明智光秀をそそのかせて本能寺の変の現場にまぎれこんで宿敵信長を切り殺す。手足を1本1本ちょんぎる残酷さは本編の白眉。さんざん悪事を働き、仏敵を惨殺してきた天下の大悪人を天下の大泥棒が打ち果たすのだから痛快無比とはこのことであろう。

しかし万万歳もそこまで。間もなく信長の後を襲った秀吉(東野英治郎が好演)の軍勢が雑賀一族の砦に押し寄せる。友軍の根来衆を引き連れて砦に戻ってきた五右衛門が見たものは全滅した仲間たちと妻の変わり果てた姿だった。
意を決した五右衛門は秀吉が磐居する聚楽第に忍び込むが善戦虚しく捕えられ、三条河原で釜ゆでの刑に処せられるのだった。ジャンジャン。

正編のでたらめさと違って、この続編はいちおう史実の流れに立脚したうえでのドラマになっているのでさいごまで居眠りしないで鑑賞することができました。


わらわらと松の廊下を駆けにけり 茫洋


山本薩夫監督「忍びの者」を見て

2010-12-09 08:07:01 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.64

村山知義の原作を昭和37(1962)年に山本薩夫が映画化した大映映画だが、これは漫画以下のおそまつな出来栄え。市川雷蔵が扮する石川五右衛門が主人公でその恋人が藤村志保というコンビもいまだ青臭く、稚拙な演技をいたずらに繰り広げる。むしろ伊賀一族を弾圧する織田信長の若山富三郎などのほうが、よっぽど安心して見物していられる。

全篇まるで現実味のない忍者ごっこ大会にあって、多少興味深いのは五右衛門の師、百地三太夫を演じる伊藤雄之助が、三太夫と対立する武将を掛け持ちで演じていること。これはたんに2役を兼ねているだけではなくて、そういうプロットになっているのである。

そんな複雑な性格の恩師から伊賀の忍者としての手引きを受け、泥棒の使命も果たし、女体の蜜の味も知った五右衛門。得意の忍びの術を駆使して安土城に潜入し、天井から垂らした糸を伝わらせて熟睡中の信長の口に毒液を注ぎ込む。

信長はたしかにそれを口中にし、のたうちまわって苦しむが結局一命をとりとめてしまうのが、見ている方もはがゆい限りである。まあ映画だから仕方がないが、あんなに強烈な毒薬なのに、どうして死んじまわないのか、と思ってしまう。

結局信長のために伊賀一族は殲滅され、あわれ百地三太夫も死んでしまう。運の強い五右衛門は愛妻ともども生き残り、その後の物語が続くことになるのだが、これほどつまならい映画にどうして続編ができたのか不思議でならない。


円安の時は黙って左団扇円高になれば泣いて文句言う幼児の如き輸出企業 茫洋


原護監督・三谷幸喜原作脚本の「笑の大学」を見る

2010-12-08 08:38:07 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.63

監督は誰でもいいが、あくまでも原作と脚本を書いた三谷幸喜の作品である。

時は昭和一五年。太平洋戦争突入寸前の浅草のボードヴィル劇団「笑の大学」の座付き作者稲垣吾朗が、警視庁保安課検閲係の役所広司と繰り広げる脚本検閲をめぐる熱い戦いの物語である。

最初は芝居やお笑いなどとは全く無縁のお堅い軍人だった役所が、はじめてその面白さを知り、次第に魅入られ、しまいには脚本に注文をつけるどころか提案をしたり、役者になって演じたりするように劇的に変身していくさまが、終始警視庁の取調室を舞台に繰り広げられていく。

検閲側の再三再四にわたる修正要求に対して、座付き作者は「無か全か」の二者択一の道を選ばず、あの手この手でゲリラ的に突破していくのだが、権力と表現の自由の対立がとうとうその極点に達し、座付き作者は「絶対に笑いが起こらない笑劇」を書かざるを得なくなる。

しかしちょうどその時、座付き作者に赤紙がやって来て、映画は、人生における笑いの意義にめざめた検閲係が、この稀有の才能を持つ喜劇作家の貴重な生命を案ずる「絶対に死ぬな。無事に帰ってこい!」の絶叫とともに幕を閉じ、観客の涙を誘うのであるが、そういうお決まりのフォーマットよりも、私は三谷幸喜の手になる前代未聞の「絶対に笑いが起こらない笑劇」のシナリオを見聞きしたかったのである。


なにゆえに福田の里より電話しないホームステイの息子よ元気か 茫洋


三谷幸喜脚本・監督の「みんなのいえ」を見て

2010-12-07 08:32:39 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.62

三谷幸喜は題材を見つけるのが非常にうまいが、これもほぼそれに尽きている。恐らくは彼自身の個人的な体験がこのユニークな喜劇を生みだしたのだろう。

一生に3軒作らないと理想的な家はできないとよく言われるが、普通の人はたった1度のチャンスに全知全能全予算をあげて勝負に出る。これが人生最大のドラマでなくてなんだろう。私も30年前の体験を懐かしく振り返ったことだった。

この作品では設計を担当するモダン派の唐沢寿明と建築を請け負った純日本派の大工田中邦衛の激突が最大の見どころ。本当は施主の若い2人がきちんとコントロールしなければいけないのだが、ちょうどいまの菅首相のように玄関のドアの内外の開き方にさえもイニシアチブを発揮できないために、事態は観客の予想通りにますます紛糾していくのである。

しかし道中いろいろあっても、最後は新旧両派がお互いを認め合い、シャンシャンと手打ちして立派な住宅が完成する。当初6畳のはずだった和室が20畳!になってしまった点を除けば、あまりにも当たり前の住宅だったからちょっと拍子抜けだった。

これは喜劇映画なのだから、もっと映画を面白くするために、たとえば最近亡くなった荒川修作の「養老天命反転地」のような、現代人の住まいの本質に迫るような建築物を画面に登場させてほしかったとも思うのである。


ひだりぎっちょなので小便も左に向かって飛んで行く 茫洋

三谷幸喜原作・脚本・監督の「ラヂオの時間」を見て

2010-12-06 16:26:12 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.61

一人の主婦が書いた処女脚本が、プロの演出家やプロデューサー、役者、マネージャー、スポンサーたちの思惑によってあれよあれよと思う間もなくどんどん書きかえられ、修正されていく。

はじめは国内のパチンコ屋の主婦をめぐるラブストーリーだったはずが、主役のタレント(落ち目の元スターを戸田恵子が好演)の我が儘からニューヨークのやり手の女弁護士に変更となり、それが脇役の怒りと動揺を買ってラジオドラマの生収録は前代未聞の危機に遭遇するのだが、こういうジエットコースター式爆走プロットが面白くないはずがない。

喜劇にうってつけの題材を見出した三谷幸喜は、このうえない奇想天外なアイデアを随所で連発し、その類稀な才能とセンスを本作で思う存分発揮している。

次々に勃発する難問奇問を解決していくプロデューサー役にぴたりとはまった西村雅彦、理不尽な変更に頭を痛めるディレクターの唐沢寿明、ヒロインの相手役を務める細川俊之、井上順、生真面目なアナウンサーの並樹史朗、引退した効果マンの藤村俊二、トラック野郎の渡辺謙など、どの役者も三谷の脚本に徹底的に奉仕して、わが国では珍しい自然な笑いの洪水を生みだしているのである。

その笑いは昨今のテレビや映画を占拠している吉本興業などの「下品で芸のない笑えないお笑い」ではなく、計画的に熟慮された上品なユーモアとウイットで構成されている点がなにより尊いと思うのである。

様々な制約があっても、脚本家の役割がハリウッドなどと比べていちじるしく軽んじられている悪条件下においても、それでもなお「良いドラマと良い笑いを目指そう」とする三谷幸喜の善き志が、よく伝わってくる彼の見事な代表作である。


いっちょ戦争でもやりたいなとアホ餓鬼ども騒ぐ 茫洋

オーソン・ウェルズ監督の「黒い罠」を見て

2010-12-05 08:46:58 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.60

ファルスタッフのように醜く肥満した体躯にどんとのっかっている「ごんずい」のような顔の上部から照射される鋭い眼光……。

悪をやらせたら天下無敵の男オーソン・ウェルズが、正義派チャールトン・ヘストンを向こうに回して暗躍し、結局は完全に喰ってしまうハリウッド製フィルム・ノワールの異色作品です。

最初メキシコ人麻薬捜査官として新妻ジャネット・リーとアメリカメキシコ国境の町に登場したときには確かにこの映画の主役と思われたはずのヘストンが、次第に悪徳刑事ウエルズの妖気漂う存在感にからめとられ、大詰めの溝川落ちのくだりでは完全にお株を奪われていくカルトなゆくたてを白黒画面でじっくりと見せてくれます。

不気味ついでにウェルズの昔の女マレーネ・デートリッヒまで友情出演して、あのけっして瞬きをしない暗い瞳を見せてくれるから堪えられません。

けれどもこの映画のいちばんの見せどころは、ウェルズの指嗾を受けたちんぴらメキシコ野郎どもがメキシコ人捜査官の若妻ジャネット・リーちゃんを誘拐し、裸にひんむいて麻薬やヘロイン注射を打ってヘロヘロにするところ。

太腿もあらわにベッドに横たわるリーちゃんの乱れた肢体は、まことにおんなにかつえた男性どもの欲望の餌食となる。目のご馳走とはこのことでげす。

そんな怪作に勝手に編集改竄を加えたハリウッドに対して、怒り心頭に発したオーソン・ウェルズは、これを最後に欧州に河岸を変え、二度と故国に戻らなかったのでした。


なにゆえにいまごろ生まれしか黄色なタテハ 茫洋



「車谷長吉全集第三巻」を読んで

2010-12-04 09:01:47 | Weblog


照る日曇る日 第390回

一か月がかりで大部の「車谷長吉全集第三巻」をやっとこさっとこ読みあげて次のようなことが判明した。

車谷長吉は、常に頭陀袋と抜き身の剣をぶら下げた平成最後の文士である。

車谷長吉は、人生の本質は淋しさであり、その淋しさは人が他の動物と違って死ぬことを知っているからだということをよく知っている。

「人は生きながらにしてすでに死人であり、それが人間の悲しみである」(『物狂ほしけれ』より引用)

三人の嫁はんと姦通し、反近代主義者を標榜する車谷長吉は、いつも猿股を穿き、ズボンの社会の窓を開けていて、時々三省堂書店の前で立ち小便をする。

車谷長吉は、死ぬまで「四苦八苦」するのが人の世であると思うている。
「四苦八苦」とは生・老・病・死の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦を加えたものである。ちなみに五陰とは、色・受・想・行・識をいう。

車谷長吉の唯一の楽しみは、本郷の自宅で飼っているクワガタムシやウシガエルに昔風の名前を付けて、四帖半の畳の上に放して一緒に遊ぶことである。

48歳の車谷長吉は浅草で「わたし貧乏でもいい、しみじみした生活ができれば」というてくれた49歳の女(詩人の高橋順子)と結婚した。ともに初婚であった。長吉は朝寝している妻のパンツをそっとひきおろして、そのやわらかな尻の隙間を見ることがある。

そんな車谷夫妻は、高浜虚子の勧めで俳體詩「童謡」をホトトギスに書いた夏目漱石を近代日本最高の詩人だと考えている。その詩とは次のようなものである。

源兵衛が 練馬村から
大根を 馬の背につけ
御歳暮に 持て来てくれた

源兵衛が 手拭でもて
股引の 埃をはたき
薹どこに 腰をおろしてる

源兵衛が 烟草をふかす
遠慮なく 臭いのをふかす
すぱすぱと 平気でふかす

源兵衛に どうだと聞いたら
さうでがす 相變わらずで
こん年も 寒いと言った

源兵衛が 烟草のむまに
源兵衛の 馬が垣根の
白と赤の 山茶花を食った

源兵衛の 烟草あ臭いが
源兵衛は 好きなぢぢいだ
源兵衛の 馬は悪馬だ


最後に車谷長吉は、世にいう「福澤心訓七則」を心の掟にしている。

世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことです。

世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。

世の中で一番さびしいことは、する仕事のないことです。

世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことです。

世の中で一番尊いことは、人のために奉仕し、けしって恩に着せないことです。

世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことです。

世の中で一番悲しいことは、うそをつくことです。


車谷長吉は、上の七カ条のうちで一番難しいのは、「すべてのものに愛情を持つこと」だと言うておるが、私も同感だ。


喰うてひりつるんで迷ふ世界虫 上天子より下庶人まで 司馬江漢

痩我慢しながら野に生きし福澤諭吉の七つの教え 茫洋


ダンテの「神曲」を読んで

2010-12-03 08:16:00 | Weblog
照る日曇る日 第389回

キリスト教世界では聖書に次いで重要とされるとかいうこの本。これまで野上素一、寿岳文章両先生の訳で読みましたがどうにもこうにも陸に上った海鼠のように面白くもおかしくもない喰えない書物。いったいどこが世界の名著なのかと頭を悩まし続けておりましたが、このたびの平川裕弘先生の定評ある翻訳を地獄・煉獄・天国とつらつら彷徨してもさっぱり興味がわいてこないのでした。

その原因はきっと私がキリスト教徒ではなく、神も地獄も天国も信じていないからでしょう。それでも地獄の恐ろしげな描写はわが国の仏教の様々な地獄絵図でもお馴染みであり、蛇に我身を食らわれたり糞尿の海に生きながら永遠に漬けられたりすれば嫌だなあという思いはあるのですが、詩人ウェルギリウスのガイドから離れたダンテが、ゆくゆくは天国に入るための予備校として、これまでに犯した罪の清めを行う煉獄界というみょうちきりんな世界に入っていく辺りでは「その嘘ほんまかいな」という無知で無信仰な庶民の健全な良識がにょきにょき頭をもたげてこないわけにはまいりませぬ。

そもそもキリスト生誕以前に活躍したギリシア、ローマの神々やホメロス、ソクラテス、オデッセウス、アキレウスなどの偉大な詩人、哲学者、英雄が紀元1300年頃のフィレンツエで党派闘争に明け暮れていたイタリアの小詩人によって有罪宣告を受けて、哀れ地獄や煉獄に落され、なんで塗炭の苦しみを味あわなければならないのか。

いくらキリストとキリスト教が偉大であるからというて、その創始者と教義と教会がこの世に誕生すらしていない時代に生きた無数の秀いでた無信仰者たちを、地獄・煉獄・天国のアバウトな3つの境界に投げ入れることなぞ、それこそ神様お釈迦さまでも出来るわけがない。

ローマ帝国を制覇した新興勢力のキリスト教が、ギリシアローマの古い神々を皆殺しにしたあとで教会の祭壇から追放して地獄においやるという構図は、わが国のアマテラス神話を政治文学的に編集した「古事記」と瓜二つで、それと同じ宗教文学史の書き換えを、遅まきながら14世紀の西欧で美辞麗句を並べたててやってのけたのがダンテというわけです。

それにしてもはじめの地獄篇ではそこそこ読むに堪えた彼の詩文が、想い人ベアトリーチェに導かれて水星、金星、太陽と舞い上がる天国篇において急激に天与の霊感を失い、なんの変哲もない神様万歳ハレルヤ晴れるやの御託の羅列に堕するのはなぜでしょう。

思うにベアトリーチェに再会するやいなや、彼の浮気と変節を厳しくなじられてしまったダンテが思いっきり自信喪失した当然の報いかもしれません。


なんだって後出しじゃんけんで偉さうに歴史を裁くなダンテ 茫洋


イングマール・ベルイマン監督の「サラバンド」を見て

2010-12-02 07:27:42 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.59


昨日の「ある結婚の風景」の2003年製作の続編です。

それぞれ60代と80代に達したマリアン(リブ・ウルマン)とユーハン(エルランド・ヨセフソン)がユーハンの別荘で久しぶりに再会。そこで繰り広げられる新たな血族の葛藤をスエーデンが生んだ希代の名監督が衰えを知らぬ熱意と卓越した映画技法で描いています。

ユーハンの息子ヘンリックと一人娘カーリンの葛藤、音楽家をめざす娘の父親からの自立をマリアンとユーハンがやきもきしながら見守る形で物語が進行していくのですが、音楽の扱いが見事です。

「ある結婚の風景」ではまったく劇中音楽を使わなかったベルイマンでしたが、本作ではヘンリクが森の中の教会で演奏するバッハのトリオソナタのオルガン演奏、息子を愛せないユーハンが聴き入るブルクナーの第9番シンフォニーの咆哮、そして父との別れでカーリンが奏でるバッハの無伴奏チェロソナタ第5番のサラバンドが絶妙な劇的効果をあげています。

父と涙ながらに決別し、祖父が用意した道をも蹴って自力でクラウディオ・アバドとの共演をかちとり、チェリストへの道を歩む若き美少女カーリンに当時85歳の老監督が次代への希望を託した遺言であり祈りでもあるような映画です。


ゆいいつの欠点は、最新のデジタル技法を駆使して撮影したにもかかわらず照明が不安定で、あらゆる画面で明暗が不自然に点滅されることです。


ロシアといえばイワンの馬鹿を思うロシアの馬鹿 茫洋