照る日曇る日 第372回
この巻では例によって芥川龍之介、菊池寛、川端康成、中原中也、小林秀雄、そして室生犀星と萩原朔太郎の私生活と女性関係が顕微鏡的視野でこれでもかこれでもか、と映し出され、精査されます。
例えば芥川の巻では、秀しげ子からあなたの子を産んだと強迫された龍之介が、中国に逃げて心身に致命的な損傷を受け、帰国して自殺の決意を固め平松ます子に心中をもちかけた。ところが当時一家揃って大本教の熱烈な信者であったためにあっさり断られ、結局一人さびしく青酸カリをあおって死んだそうです。
しかし私は、そんな史実だか逸話だかの膨大な集積はいくら分量が増えても彼の文学とはまったく関係がないと考えているので、そんな与太話はどうでもよろしい。彼は、漱石のような長編小説が書けないために自死したのです。
また菊池寛は根っからの同性愛者で、後に共産党の指導者になった佐野文夫を熱愛するあまり彼が盗んだマントを自分が盗んだと言い張って一高を退学になる。結局都落ちして三高に入って悪しき性癖を清算するとともに冷徹な現実主義に目覚め、芥川と同じ芸術路線では成功できないと計算して「真珠夫人」のような通俗小説に走った、などと書かれていますが、彼の天成のストーリーテリングの才は、初期の短編「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」を読めば明らかなこと。天才菊池寛の文学の起点に、あえてホモセクシャリズムを設定するその魂胆がよくわかりません。
そのほか川端康成や梶井基次郎の秘められた恋など、読めば読むほど週刊新潮真っ青のプライバシー大侵害記事が続々登場して面白いこと無類の本ですが、さてちょっと待てよ。これがはたして日本文壇の歴史なのか。これでは日本文学の歴史ではなく、文学者を陰でリモコンした謎の女性シリーズではないか、とおおいに困惑したことでした。
じつはこの日本文壇史というシリーズを始めたのは伊藤整という文学者で、作家と作品の秘密を解明するためには作家の私生活と人間関係を洗う必要があるという固定観念にとらわれたこの人が、こういうプライバシー暴きを精力的に開始したのです。したがって前任者を継承した本シリーズもやはり一つ穴の狢にならざるを得ないのでしょうが、もう少しなんとか脱下半身路線に切り替えられないものでしょうかねえ。
いずれが最小不幸宰相ならむ阿呆馬鹿絶叫金切り声大演説を抹消す 茫洋