はじめに(C、の残り)
前回は、徐福が中国に帰り、始皇帝に報告の、C、の途中で切ってしまった。「礼物が薄いから、見せてやるが、採らせない」と続いています。
ここで、始皇帝の興味を引き、多大の礼物をせしめる網を放っています。この時の相手(始皇帝)の態度によって、徐福は成功しそうだと思ったことでしょう。
薬に関する報告をして皇帝をますます乗り気なさせる話が、続きます。薬は在って、それを見てきたという報告によって、皇帝は半信半疑から、礼を多くしてぜひ手に入れたいと思った。
徐福は、用意周到に、その薬を見たから、要求の礼をすれば持って帰れると話します。これで、始皇帝は徐福の術中に嵌ったのです。
ここまで、C、残りの話です。
D、の話
D、私は直ぐに、東南の方、蓬莱山に連れてゆかれました。そこには霊芝に囲まれた宮殿があり、仙界の使者が居ました。それは、赤銅色の竜のごとき身体を持ち、発する光は天まで照らしていました。
この話の最初の部分は本当の話でしょう。先に言ったように、海の大神は日本の主(大王・後の高天原の主、イザナギや天照大神)ではありません。
日本全体の問題解決は日本の主が決定するので、ここに連れて行かないと、海の大神が勝手に決めるわけには行かないのです。
そして、日本の主と見られる人物が、この時代にも居たことが、この報告から判るのです。その位置は、九州の南を東南に進んだとあります。
九州を通過して東南に進んでも日本の大きな島はありません。徐福は九州の西側を南に進んだ後、南端を周り、東に進んだので、東南の方向となったのでしょう。
または、船上から海岸に目をやっていると、周囲を回っても方向が変わったことに気付き難いものです。だから、九州海岸を見ていて、90度以上も廻った事に気づかなっかたのでしょう。
日本の主がいた高天原は、宇摩説では四国なので、九州の東にある島(四国・蓬莱山)に来たと見ます。九州から潮流に乗って四国を通過し東側を回ったのでしょう。
このように海の大神に案内されて行った所が高天原(蓬莱山)であり、この部分までは徐福の体験でしょう。
この後は大幅に脚色しています。「霊芝に囲まれた宮殿」も、信じさせるための中国流の少しオーバーな表現ですが、周囲に霊芝があったとすれば、次のように考えられます。
普通は霊芝があるのは、大木の切り株が多い。もし、ここも史実なら、この宮は山間部の周囲の木々が開発で切り開かれて、年数が経ていたことを示すものでしょう。
仙界の使者が居ました。それは、赤銅色の竜のごとき身体を持ち、発する光は天まで照らしていました、とある。これは海人(あま)を着色してモットもらしくしたものでしょう。
海人の赤銅色に焼けた身体と、その光沢をオーバーに表現したと思われます。つまり、徐福は海の大神(海人)に案内されて、海人の多く居る場所に来たということになります。
こう解いて来ると、初期の高天原は、多くの海の男たちが守っていたことが判ります。古事記の解明で解いた高天原の全身だと思われます。
この原・高天原は、著書1で、日本の統治は各地との交易・商業・海運によって支配者が生まれたと解いているのと一致します。
だから、ここも、薬の実在と、多少粉飾した部分を省いて、徐福は日本の体験を報告したと見られます。
基本的に旅の様子を語っているので、始皇帝は嘘ではない、夢の薬は在ると判断したのでしょう。
以上で、今回は終わります。
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