刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その8)豊葦原瑞穂の国はここだった

2022-07-04 04:00:09 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
⑤豊葦原瑞穂の国はここだった


前回述べましたが、不慮の死を遂げた卑弥呼の鎮魂のために大国主と台与が卑弥呼の居城である宇佐市安心院町下毛の宮ノ原(みやのはる)遺跡を訪れ、さらに葦が群生する湿地帯だった安心院盆地を挟んで南側の丘に妻垣神社一柱騰宮を造り祀ったと推理しています。大国主らは別府方面から宮ノ原遺跡に入る途中に、佐田川を下ったと推理しています(上の地図の右下が別府方面)。川岸に葦が群生して、その根元に湖沼鉄(褐鉄鉱、リモナイト)が採れることを発見したのだと考えています。

湖沼鉄は阿蘇山麓のような火山地帯の河川でも採れますので、日本の古代でも褐鉄鉱を製錬して鉄ができる可能性が指摘されていますが、実験によって確かめた山内裕子氏のレポート「古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性~ パイプ状ベンガラに関する一考察 ~」 を見つけました。これによると、化学組成は鉄の赤錆と同様のパイプ状ベンガラ(酸化第二鉄Fe2O3)約500グラムを原料にして、七輪を二個の一方を上にかぶせて木炭(重量不明)と一緒に入れて送風し、1,200℃以下の温度で鉄塊(粒)約20グラムが取り出せたとあります(炉底塊・鉄滓・海綿鉄など合計約270グラム)。この鉄塊は炭素量0.02%以下の極軟鉄ですので、冷間鍛造が可能で、刀子と鉄鏃を作って示されています。

この実験から、原料に対して鉄の収量は5%以下と分かったので、大量に鉄鏃などの武器を作っていた大分県大野川流域や阿蘇山麓の鍛冶集落での鉄素材は、やはり半島南部の板状鉄斧だったことが確認できました。勿論、工作しやすいので刀子、釣針、勾玉などを作る鉄製工具なども作ったと思われますが、主な用途は水銀朱と同様に棺の中に塗る赤色顔料だったのではないでしょうか。

大国主はこの土地がたいへん気に入ったようで、辺り一面の葦を刈り取って水田にして稲作を行ったようです。




佐田地区探訪マップ
(左クリックすると、大国主・台与ゆかりの神社・史跡がいくつも見られます)


すでに(その3)②で述べたように、大国主は米神山の山腹に見られる柱状節理からいくつも石棒を切り出して、すべて先代の茶臼塚古墳のある南西方向に向けて置いたことが以下の動画で分かりました。この地に米神(首長霊)を呼び寄せて、この豊葦原の瑞穂の国造りの成功を祈る目的と分かります。



また、切り出した多数の岩石などによって山麓に佐田京石と呼ばれる立派なストーン・サークルを造り、厳かに首長霊祭祀を行ったようです。「京石」という名称からこのスト-ン・サークルによって、この地を大国主の京都(みやこ)と定めたということでしょう(^_-)-☆

佐田京石ヒーリングルームひふみ より)

この南側の低い丘に佐田神社があります。ここを大国主の王宮にしたと考えています。ここの御祭神が武内宿禰・素盞鳴尊・大山祇命となっていますから、実は武内宿禰も大山祇命もすべて大国主の別名であることが分かります(注)。大国主はスサノヲ大王の子孫ですので、これも米神(首長霊)信仰によって二人は霊的に一体なのです。前回も説明したとおり、祭神の正体を隠す意味もあると思いますが、大国主とスサノヲとが同一としても矛盾はないのです。ですから、これら三柱の祭神はすべて大国主であり、ここからも佐太(佐田)神社の本来の御祭神サルタヒコ大神が大国主の分身だと分かるのです(^_-)-☆。

あ、そうだ!これも忘れてはいけません!田んぼの中にポツンと立派なモノが米神山に向けて鎮座しています。ちょっと閲覧注意ですが、こしき石(いわ)と言います。男の中の男「大国主命」のシンボルのようです!(@_@)

ここが憧れの大国主命が最初に国造りした豊葦原の瑞穂の国だったということです!
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(注)大国主は大和朝廷が最も畏れた神々の筆頭だったので、いくつもの別名や分身を作って正体を隠して、至る所で祀っていますよ!(@_@)!。
武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!( ^)o(^ )
大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)

あまりにも沢山あるので、全てを把握しきれませんが、コツを掴めば大体すぐに分かると思います( ^)o(^ )
コツですか?簡単ですよ~オ(^_-)-☆
産土神と説明されている見慣れない、知らない神様で、男神ならば、まず大国主を疑ってみてください。少し調べれば、シッポが見えてくるはずですから、分かったら是非コメントで教えてください(*^▽^*)


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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その7)日本最初の新婚旅行は大国主と台与の邪馬台国旅行だった

2022-07-03 00:04:08 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
④日本最初の新婚旅行は大国主と台与の邪馬台国旅行だった
大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が内戦に勝利して、最初にしたことは、先代狗古智卑狗の古墳造りでしょう。ここで首長権を引き継ぐ儀礼を行って、倭国王として立ったのだと考えられます。(その3)で述べた山鹿市茶臼塚古墳です。現地の説明看板には、九州には珍しい一辺25mの方形墓と書かれており、四世紀後半から五世紀築造とありますが、内戦に勝利した後ですから248年頃に大国主が築造したものと推理しています。方形墳は出雲から丹後で盛行したタイプなのです。広大な鹿本平野と方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡などを見渡すことのできる高台(現在、一本松公園の正面)にありますから、倭国王就任の儀礼に一番ふさわしい場所なのです(注1)。

この周辺には大国主や先代にゆかりの神社仏閣が数多く見られ、サルタヒコ大神と彫られた石碑が目につきます。石碑は後の時代に造られたものでしょうが、地元では大国主や先代ゆかりの神社仏閣の祭神・御本尊を、藤原氏に遠慮してサルタヒコや先代の本地仏と見られる大日如来に変えられているのだと思います。後でまた述べますが、神仏習合も大国主らの日本建国時代に亡くなった高貴な人物の正体を隠して鎮魂するために考えられた信仰なのです。

茶臼塚古墳で王位継承の儀礼をした後、恐らく阿蘇山麓から大分県大野川の支流から下流にかけて数多く作った鍛冶集落を視察し、新たに生まれた倭国のハイテク鉄製武器製造コンビナートとして機能するように部下に命じたと思います。稲葉川や緒方川などの大野川支流域では後で述べる景行天皇(正体は尾張王建稲種命)の九州遠征の話の中に登場する激戦地となった場所ですので、この時点で大国主が整備したと分かります。

その後、大国主は、大分・別府方面から邪馬台国のあった宇佐市安心院町に入ったのだと推理しています。まず、卑弥呼の墓を遥拝するヒカケ三女神社で鎮魂の祈りを行い、当時は葦の群生する湿地帯だった南側の安心院盆地の先の丘にある妻垣神社の本宮とされる磐座(いわくら)「一柱騰宮(いっちゅうとうぐう)」で卑弥呼を改葬したと考えています。古事記は足一騰宮(あしひとつあがりのみや)としています。一柱(ひとはしら)ではなく足一(あしひとつ)は、人間には二つ足がありますから、片足ということです。つまり、別にもうひとつ墓があるという示唆ですから、これは卑弥呼の墓のヒントだったようです。古事記の作者と考えている多人長(おおのひとなが)は日本書紀が隠した真実を暴露するのも目的の一つですから大変苦労人ですね(^_-)-☆




記紀の神武東征神話では、天皇は真っ先に、この場所で母玉依姫の墓参をしてウサツヒコとウサツヒメに歓待されたとありますが、大国主と台与の史実から創作した話なのです。あろうことか、神武天皇に従った藤原氏(中臣氏)の遠祖アメノタネコがウサツヒメを娶ったことにしていますから、呆れた話です。その玉依姫を宇佐神宮の祭神比売大神としていますが、初代神武天皇の母が、どうして第十五代応神天皇やその母神功皇后と共に宇佐神宮で祀られなければならないのか、よくわかりませんね。しかし実は、原八幡神卑弥呼である比売大神を隠すために、玉依姫が一柱騰宮で亡くなったという話を創作したものなので、取って付けたような話になっているのだと分かります。ですから藤原氏は一柱騰宮の伝承地をこの場所以外にも宇佐市内に二カ所も造って、誤魔化していますよ。

後でまた述べますが、まじめな話、七世紀末から、卑弥呼や大国主や台与を隠すことが藤原氏の重要な政策のひとつだったのですよ。当時の多くの人々は史実を知っているのですから、何を愚かなことをやっているのだと白い眼で見ていたはずです。でも、時が経ち、だんだん記憶が薄れた状態で、明治時代になって記紀に基づく国民教育をされたことにより、現代日本人は、ほとんど記紀で洗脳されていますから、不比等の呪いにはつくづく恐れ入ります(;´Д`)

妻垣神社の名称は日本書紀に日本最古の歌として残された、スサノヲがヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメを娶った時に八重垣神社で歌った下の歌から採られたものと分かります(^_-)-☆

八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を

しかし、記紀神話のヤマタノオロチを退治したスサノヲの話は、出雲国風土記にありません(注2)。奴国第十八代王スサノヲは宮廷楽師師升らのクーデターで殺されていますので、この史実を誤魔化すために日本書紀で創られた神話なのですが、この歌は、大国主が台与を娶った史実を示唆していたのです。ということはつまり、ヤマタノオロチ神話は、逆に大国主と台与の史実から連想して創作した神話だったのです。

これは理解しにくいかと思いますが、米神(首長霊)信仰の考え方によると、偉大な祖先スサノヲの霊力を身に付けた大国主はスサノヲと霊的に一体なのです。従来、それぞれ別人の話だと思っているので混乱させられますが(混乱させるためかも知れませんが)、米神(首長霊)に気付けば当時の人々の頭の中ではスサノヲもその子孫の大国主も同一人物として矛盾しないのだと分かります。例えば、アマテラスとスサノヲの誓約で生まれた天神アメノホヒを祖神とする菅原道真の天神信仰も同様の考え方だと思います(^_-)-☆

大国主と新しく妃にした台与との邪馬台国への旅行が、記録に残る日本最古の新婚旅行でした!(@_@)!

しかし、これも後で述べますが、大国主は60歳台の老人だったと思いますから、13歳の妃はまだ早すぎますね(´ω`*)

(注1)先代狗古智卑狗が戦死したのは204年の直後だと推理しています。どこで戦死したのか場所ははっきりわかりませんが、菊池市うてな遺跡か同市木野神社辺りだと考えています。狗奴国を裏切った先代赤坂比古はその主君であった狗古智卑狗の霊に祟られないようにどこかに丁重に葬ったとは思います。赤坂比古がこの茶臼塚古墳で葬ったとも考えることができますが、その場合、それから50年近く経過した時点で、大国主がこれを整備したと推理できます。あるいは大国主が新たに茶臼塚古墳を作ったのかも知れません。その場合、茶臼塚古墳には何かは副葬されたでしょうが、当然先代の遺骸はなかったはずです。説明看板には内部主体は不明とあります。

古墳築造の目的は、米神(首長霊)を新たな首長が身に付け、首長権を受け継ぐ儀礼のためであり、古墳はその舞台装置だと考えています。ですから、先代首長にふさわしい場所に、ふさわしい規模の古墳が造られたのだと考えています(その3参照)。

(注2)これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)雲南市役所 政策企画部 政策推進課HPより
記紀(『古事記』・『日本書紀』)に記される出雲神話の中で、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治神話はよく知られていますが、不思議なことに、『出雲国風土記』にはこの神話は載っていません。しかも、『出雲国風土記』に、スサノオノミコトは4回しか登場しないのです。

スサノヲは奴国宮廷楽師らの反乱で殺されたのが史実です。これが記紀神話でスサノヲの高天原追放劇とされたので、地上に降り立ち、乱暴者の神が突然オロチ退治で人助けする英雄に変身する話はいかにも作り話と分かりますね。日本書紀の編纂者は仲哀天皇紀で奴国(博多)を儺県(なのあがた)としています。「儺」の意味は「鬼やらい・神やらい」ですから乱暴者の厄病神スサノヲの追放を意味する言葉なのです。つまり、編纂当時の人々はスサノヲが何で殺されたか、史実を知っていたという紛れもない証拠なのです。記紀神話の高天原が奴国王が支配する北部九州の倭国のことだということも分かります。これも目からうろこの発見でしたね(*^▽^*)

【関連記事】
伊都国の意味がヒントだった?
奴国大王スサノヲが宮廷楽師らのクーデターで殺された史実について論証していますので、ご興味があればどうぞ(^_-)-☆


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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その6)倭国征討軍の内戦の勝利者は大国主だった

2022-07-02 01:16:54 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
③倭国征討軍の内戦の勝利者は大国主だった
無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀の仲哀天皇)が、丁度伊都国に来ていた魏使張政の進言で、狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にして倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸までのムナカタ族の王狗古智卑狗(倭国大乱で大活躍した先代の跡継ぎ、兵庫県豊岡市久久比神社の祭神で、上棟式の祭神でもある木霊久久遅命)が反発し、内戦となったと推理しました。

張政は難升米が置き去りにして逃亡してしまったので、狗奴国軍に捕らえられて大将の尾張王のもとに引き出されたと思います。身の危険を感じながらも魏の威光を背景に、強気で魏に従うように説得したのだと思います。尾張王は勿論、張政を殺害すると大変な外交問題が発生することは分かるので、そこまでは冷静でした。しかし張政の誘いに乗って狗奴国を裏切った尾張王は、歴史上、非常に大きな判断ミスをしたと評価できます。狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に伝令を飛ばして判断を仰ぐ必要がありました。

しかし尾張王は先代旧事本紀によれば、ニギハヤヒ大王の長男アメノカグヤマの子孫ですので、アメノカグヤマの弟ウマシマジの子孫である狗奴国王卑弥弓呼とは、ニギハヤヒ大王の血統としては同列ですし、奴国を再興したニギハヤヒ大王一族の有力者ですので、むしろ倭国王として、狗奴国王よりも上に立ってもおかしくないと考えていたのでしょう。
しかし、狗奴国を裏切って倭国王に立ったことで、結果的に八世紀まで尾を引き、数々の悲劇を引き起こしましたから、いまさら言っても始まりませんが、日本史上最も重大な局面での判断ミスだったと思います。詳しくはこのシリーズの終わりの方でまた述べたいと思います。
 
さて、卑弥呼の弟赤坂比古は、すでに述べたように同じムナカタ族の王狗古智卑狗に投降し、先代の裏切りを謝罪したと思います。そして、赤坂比古が加わって狗古智卑狗の勢力が一気に増強されたので、狗古智卑狗は尾張王よりも兵士の数で圧倒して俄然優勢になり、尾張王に対立できたのだと推理できます。狗古智卑狗勢と尾張勢との戦闘が始まり、赤坂比古は狗古智卑狗の信頼を得るために、尾張勢に討ちかかり、敗走する尾張王を赤坂比古の本拠地の鳥栖市に追い詰めて討ち取る大活躍をしたと推理しました。

鳥栖市の赤坂古墳が尾張王乎止与命の墓であることは、九州最古級の前方後方墳であることから推理できます。前方後方墳は近江の神郷亀塚古墳が発祥地と考えられますが、第1期のものは、(その2)3.古墳時代のはじまりの謎①で示しましたように、他に米原市法勝寺SDX23号墳、清州市の廻間遺跡および八尾市久宝寺遺跡です。



古墳の形から見ても、近江・北陸のムナカタ海人族息長氏の勢力と尾張の勢力は祭祀様式を同じくしており、かなり関係が深いことが分かります。記紀で尾張王乎止与命を住吉大神(正体は武内宿禰=大国主命)に殺された仲哀天皇として、開化天皇の四世孫息長宿禰王の娘息長帯比売命が神功皇后となったとしています。前述のとおり、尾張王はニギハヤヒ大王の長男アメノカグヤマの子孫ですから、恐らくムナカタ海人族の部族長と婚姻関係があったと考えられます。ですから、女王台与をモデルとする神功皇后の父は息長宿禰王ですが、その父が系図上は、開化天皇の曽孫の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)とされています。しかしこれは、神功皇后がムナカタ海人族であることを誤魔化すために創作した系図だと推理しています(注1)。



狗古智卑狗が内戦の勝者となりましたが、尾張王乎止与命が裏切ったとは言え、狗奴国王の一族の有力者を討ってしまったことで、卑弥弓呼大王に許されるか不安になったのだと思います。そこに、張政が再び表れて、今度は狗古智卑狗に魏との同盟を進言してきました。

結局、狗古智卑狗も狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王に立て、魏を後ろ盾として狗奴国と対立することを決心しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主命とされた人物です。

(注1)滋賀県米原市日撫(ひなで)神社少毘古名命・応神天皇(本当の父は大国主、母は台与、神話ではサルタヒコとアメノウズメ)と並び祭神とされており、息長宿禰王が娘の台与を大国主の妃とし、大国主の国造りのパートナーだったと考えられるので、神話に登場する少毘古名命(スクナヒコナ)のモデルと考えています。サルタヒコ大神とされた大国主命は大柄だったようですから、息長宿禰王は小柄な人物だったので、いつも一緒に居たのでその対比からスクナヒコナとされたのでしょうね(^_-)-☆

息長宿禰王の父の名前「迦邇米雷王」ですが、カニは尾張のシンボルで、米は以前にも米神(=首長霊)で見たように「め=頭目(かしら)」の意味ですから尾張王を意味します。雷王は大国主の国譲り神話で活躍したタケミカズチを連想しますから、後で詳しく述べますがこの神は記紀で仲哀天皇とされた尾張王乎止与命の跡を継いで父の仇討ちをした建稲種命(たけいなだねのみこと、記紀では景行天皇)のことです。この史実を誤魔化すために国譲り神話で登場させた神なのです。ちゃっかり藤原氏の氏神として祀っていますから、不比等が史実を改ざんするだけではなく、藤原氏の出自を誤魔化すことを目的で神話を作ったのが分かりますから、本当に笑えます(;一_一)

ですから、ややこしい話ですが息長宿禰王がムナカタ海人族だったことを誤魔化すために迦邇米雷王の子として系図を創作したと考えています。しかし、尾張氏と息長氏とは婚姻関係があったために、その連想でそのような系図が作られたのだと考えられます。応神天皇の父が大国主(狗奴国王に代々仕えた久々遅彦が武内宿禰のモデル)、母が台与(神功皇后のモデル)であることを隠すために、尾張王乎止与命を仲哀天皇としていますが、応神天皇(オオタタネコ)の史実を隠すために神武天皇とその系譜である日向三代の神話を創作して何重もの複雑な誤魔化しをやっています。

でも、一つひとつ見ていくと連想ゲームのようなものですから、正体は分かります。神武天皇の祖母は豊玉姫で、母はその妹の玉依姫です。どちらもワニの一族ということにしていますが、ワニはムナカタ海人族和邇氏の連想なのです。神武の父ウガヤフキアエズや祖父ホオリノミコト(山幸彦)が、応神天皇の父大国主久々遅彦(狗古智卑狗)と祖父の先代久々遅彦をモデルとしたものでしょう。和邇氏の祖赤坂比古の一族とはいくつもの婚姻関係を結んでいたと想像できます。ですから、先代赤坂比古の子卑弥呼も、神功皇后台与と同様に皇族として扱われる血筋なのだと分かります。

【関連記事】
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抹殺された尾張氏の謎(その1)~ (その3)尾張と言えばカニだ~わ!



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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その5)卑弥呼の死後の千人死んだ殺し合いは倭国追討軍の内輪もめだった

2022-07-01 00:02:21 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
②卑弥呼の死後の千人死んだ殺し合いは倭国追討軍の内輪もめだった
前回述べましたとおり、纏向遺跡に集まった狗奴国の有力者らはとうとう重い腰を上げて、狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ)は倭国に追討軍を送る決心をしたと推理しています。何度も恐縮ですが、下の図は当時の状況を表したものです。



ここで倭国王難升米は、瀬戸内海沿岸部に作った高地性集落の狼煙によって、狗奴国軍が動き出したことを察知したと推理しています(注1)。高地性集落のデーターベースから弥生終末期の狗奴国軍の動きを監視したと考えられる倭国側の高地性集落を調べて、可能性のある狼煙台を図に追加しました。

前回見たように纏向遺跡の外来土器の様子から、この時期の周防・芸予の勢力は既に倭国側についていた模様ですが、讃岐や阿波の勢力は途中から狗奴国を裏切って、倭国についたと考えています。このことは、後の古墳時代初頭(三世紀末)に狗奴国によって讃岐や芸予の勢力などが攻撃されていたことが、鉄鏃・銅鏃の出土状況からも分かるのです。特に狗奴国に近い讃岐などの高地性集落はこの時期には戦略的にとても重要です。なので、倭国勢の実力ナンバー・ツーと考えられる卑弥呼の弟赤坂比古の懐柔を受けて、同族の誼で狗奴国を裏切り少人数で狗奴国の動きを監視したと推理しています。宗像市田熊遺跡と同じ読み香川県三豊市詫間町はムナカタ族が入植した土地の地名で、不弥国の長官多模(たま、たも)に由来すると考えられます(「投馬国へ水行してみませんか?」(注4)参照。

丁度そのタイミングで北部九州で日食が起こりました(247年3月24日日没直前、北九州市・中国地方西部は皆既日食)。伊都国では皆既日食ではありませんが、太陽が欠けながら海に沈む、珍しい日没帯食が見られました。日中の皆既日食であれば時間とともに太陽が再び現れますが、伊都国を王都とした難升米らは、日没帯食を見て、太陽がもう二度と登らないかも知れないと恐れたことでしょう。太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたために起こったと考え、持衰(じさい)と同様に生贄として、卑弥呼の弟赤坂比古に内密で、卑弥呼の暗殺を部下に命じたと推理しました(注2)。前回(その4)⑯で述べたとおり、卑弥呼の男性の付き人の協力がないと暗殺は成功しなかったと推理しています。でも頭のいい難升米は、赤坂比古に知られない様にその男が卑弥呼を殺したと偽装したかもしれませんね(^_-)-☆

卑弥呼の死後に狗奴国側の軍勢が北部九州に到着しました。当初、卑弥呼が難升米に暗殺されたことを、赤坂比古が知ったので狗奴国軍と戦うことを止めて、同じムナカタ族の王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、奴国宮廷楽師師升らに殺された第18代奴国大王スサノヲの子イタケルの子孫)に先代赤坂比古の裏切りを謝罪して投降したと推理しました(話は逸れますが、『新説「因幡の白兎」だ!』は先代赤坂の裏切りで身ぐるみ剥がされた先代狗古智卑狗の王子(白兎)の故事を民話にしたものですよ(^_-)-☆)。

赤坂比古は難升米が卑弥呼暗殺を命じたのを知ったのか、どうかまでは確かめられませんが、卑弥呼が死んだことは、もともと先代が築いた邪馬台国(宇佐市史によれば、和妙抄で宇佐郡野麻郷は安心院町に比定されていますので、ヤマ国と呼ばれていたました)に出入りしていたはずの赤坂比古の部下によって伝えられたはずです。恐らく赤坂比古の部下に卑弥呼を警護する役目を与えていたと思われます。ですから、あの男が難升米のスパイでなければ卑弥呼暗殺は中々実現できなかったと思いますね(^_-)-☆

それで、卑弥呼の死を聞いた時の赤坂比古の精神状態は次のように想像できます。縄文海人ムナカタ族の信仰は、縄文人をルーツとする古琉球および琉球王国を中心に信仰されてきた多神教宗教である琉球神道に受け継がれていると考えられます(「誤解と幻想の卑弥呼」参照)。ですから赤坂比古は「おなり神」である姉を突然喪ってしまいショック状態になり(注3)、元々同族のムナカタ族が加わっている狗奴国軍に対して戦意喪失したと推理しました。

そのために倭国は分裂してしまい、難升米はさらに判断を間違えて、自身も狗奴国軍と戦わずに、多分司馬懿や帯方郡太守を頼って再起を図るつもりで、親魏倭王の金印を持って半島に逃亡したと推理しました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。しかし、魏使張政を倭国に置いたまま単独で逃亡したことで、墓穴を掘ってしまいました。後で分かりますが、この張政も相当頭の切れる人物でしたよ(^_-)-☆。

(注1)Wiki「高地性集落」に「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に[3]、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。」とあります。しかし、高地性集落DBによれば北部九州にもありますよ。北九州市の黒ケ畑遺跡は情報伝達の重要な集落だったと考えています(^◇^)

(注2)持衰(じさい)について、魏志倭人伝に以下のとおり説明されています。
其の行来・渡海、中国に詣るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若(も)し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

太陽神を祭る卑弥呼についても、日食は卑弥呼が不謹慎だから起こったと考えて、不吉な予兆を打ち払うために生贄にしたと考えられます。しかし、難升米が殺したと分かると問題が大きくなるので、神の祟りか、神の祟りを怖れる何者かによって殺されたとカモフラージュしたかも知れません。

(注3)沖縄の男性の約60%が縄文系ですので、同じ縄文系のムナカタ海人族の信仰は琉球神道に伝えられていると考えています。wiki「おなり神」によれば、「柳田國男は、女性の霊的な力によって、妹が兄を守ったり、姉が弟を守ったりする精神的な力による支配を「妹の力」と述べ、これをおなり神信仰に当てはめた[2]。」とあり、卑弥呼と赤坂比古の場合も強い精神的な絆で結ばれていたと考えられます。シナ人の難升米はそのことをあまり理解していなかったのではないかと考えられますよ(^_-)-☆。


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