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5.大国主と台与の謎
③倭国征討軍の内戦の勝利者は大国主だった
無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀の仲哀天皇)が、丁度伊都国に来ていた魏使張政の進言で、狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にして倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸までのムナカタ族の王狗古智卑狗(倭国大乱で大活躍した先代の跡継ぎ、兵庫県豊岡市久久比神社の祭神で、上棟式の祭神でもある木霊久久遅命)が反発し、内戦となったと推理しました。
張政は難升米が置き去りにして逃亡してしまったので、狗奴国軍に捕らえられて大将の尾張王のもとに引き出されたと思います。身の危険を感じながらも魏の威光を背景に、強気で魏に従うように説得したのだと思います。尾張王は勿論、張政を殺害すると大変な外交問題が発生することは分かるので、そこまでは冷静でした。しかし張政の誘いに乗って狗奴国を裏切った尾張王は、歴史上、非常に大きな判断ミスをしたと評価できます。狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に伝令を飛ばして判断を仰ぐ必要がありました。
しかし尾張王は先代旧事本紀によれば、ニギハヤヒ大王の長男アメノカグヤマの子孫ですので、アメノカグヤマの弟ウマシマジの子孫である狗奴国王卑弥弓呼とは、ニギハヤヒ大王の血統としては同列ですし、奴国を再興したニギハヤヒ大王一族の有力者ですので、むしろ倭国王として、狗奴国王よりも上に立ってもおかしくないと考えていたのでしょう。
しかし、狗奴国を裏切って倭国王に立ったことで、結果的に八世紀まで尾を引き、数々の悲劇を引き起こしましたから、いまさら言っても始まりませんが、日本史上最も重大な局面での判断ミスだったと思います。詳しくはこのシリーズの終わりの方でまた述べたいと思います。
さて、卑弥呼の弟赤坂比古は、すでに述べたように同じムナカタ族の王狗古智卑狗に投降し、先代の裏切りを謝罪したと思います。そして、赤坂比古が加わって狗古智卑狗の勢力が一気に増強されたので、狗古智卑狗は尾張王よりも兵士の数で圧倒して俄然優勢になり、尾張王に対立できたのだと推理できます。狗古智卑狗勢と尾張勢との戦闘が始まり、赤坂比古は狗古智卑狗の信頼を得るために、尾張勢に討ちかかり、敗走する尾張王を赤坂比古の本拠地の鳥栖市に追い詰めて討ち取る大活躍をしたと推理しました。
鳥栖市の赤坂古墳が尾張王乎止与命の墓であることは、九州最古級の前方後方墳であることから推理できます。前方後方墳は近江の神郷亀塚古墳が発祥地と考えられますが、第1期のものは、(その2)3.古墳時代のはじまりの謎①で示しましたように、他に米原市法勝寺SDX23号墳、清州市の廻間遺跡および八尾市久宝寺遺跡です。
古墳の形から見ても、近江・北陸のムナカタ海人族息長氏の勢力と尾張の勢力は祭祀様式を同じくしており、かなり関係が深いことが分かります。記紀で尾張王乎止与命を住吉大神(正体は武内宿禰=大国主命)に殺された仲哀天皇として、開化天皇の四世孫息長宿禰王の娘息長帯比売命が神功皇后となったとしています。前述のとおり、尾張王はニギハヤヒ大王の長男アメノカグヤマの子孫ですから、恐らくムナカタ海人族の部族長と婚姻関係があったと考えられます。ですから、女王台与をモデルとする神功皇后の父は息長宿禰王ですが、その父が系図上は、開化天皇の曽孫の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)とされています。しかしこれは、神功皇后がムナカタ海人族であることを誤魔化すために創作した系図だと推理しています(注1)。
狗古智卑狗が内戦の勝者となりましたが、尾張王乎止与命が裏切ったとは言え、狗奴国王の一族の有力者を討ってしまったことで、卑弥弓呼大王に許されるか不安になったのだと思います。そこに、張政が再び表れて、今度は狗古智卑狗に魏との同盟を進言してきました。
結局、狗古智卑狗も狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王に立て、魏を後ろ盾として狗奴国と対立することを決心しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主命とされた人物です。
(注1)滋賀県米原市日撫(ひなで)神社で少毘古名命・応神天皇(本当の父は大国主、母は台与、神話ではサルタヒコとアメノウズメ)と並び祭神とされており、息長宿禰王が娘の台与を大国主の妃とし、大国主の国造りのパートナーだったと考えられるので、神話に登場する少毘古名命(スクナヒコナ)のモデルと考えています。サルタヒコ大神とされた大国主命は大柄だったようですから、息長宿禰王は小柄な人物だったので、いつも一緒に居たのでその対比からスクナヒコナとされたのでしょうね(^_-)-☆
息長宿禰王の父の名前「迦邇米雷王」ですが、カニは尾張のシンボルで、米は以前にも米神(=首長霊)で見たように「め=頭目(かしら)」の意味ですから尾張王を意味します。雷王は大国主の国譲り神話で活躍したタケミカズチを連想しますから、後で詳しく述べますがこの神は記紀で仲哀天皇とされた尾張王乎止与命の跡を継いで父の仇討ちをした建稲種命(たけいなだねのみこと、記紀では景行天皇)のことです。この史実を誤魔化すために国譲り神話で登場させた神なのです。ちゃっかり藤原氏の氏神として祀っていますから、不比等が史実を改ざんするだけではなく、藤原氏の出自を誤魔化すことを目的で神話を作ったのが分かりますから、本当に笑えます(;一_一)
ですから、ややこしい話ですが息長宿禰王がムナカタ海人族だったことを誤魔化すために迦邇米雷王の子として系図を創作したと考えています。しかし、尾張氏と息長氏とは婚姻関係があったために、その連想でそのような系図が作られたのだと考えられます。応神天皇の父が大国主(狗奴国王に代々仕えた久々遅彦が武内宿禰のモデル)、母が台与(神功皇后のモデル)であることを隠すために、尾張王乎止与命を仲哀天皇としていますが、応神天皇(オオタタネコ)の史実を隠すために神武天皇とその系譜である日向三代の神話を創作して何重もの複雑な誤魔化しをやっています。
でも、一つひとつ見ていくと連想ゲームのようなものですから、正体は分かります。神武天皇の祖母は豊玉姫で、母はその妹の玉依姫です。どちらもワニの一族ということにしていますが、ワニはムナカタ海人族和邇氏の連想なのです。神武の父ウガヤフキアエズや祖父ホオリノミコト(山幸彦)が、応神天皇の父大国主久々遅彦(狗古智卑狗)と祖父の先代久々遅彦をモデルとしたものでしょう。和邇氏の祖赤坂比古の一族とはいくつもの婚姻関係を結んでいたと想像できます。ですから、先代赤坂比古の子卑弥呼も、神功皇后台与と同様に皇族として扱われる血筋なのだと分かります。
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5.大国主と台与の謎
③倭国征討軍の内戦の勝利者は大国主だった
無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀の仲哀天皇)が、丁度伊都国に来ていた魏使張政の進言で、狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にして倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸までのムナカタ族の王狗古智卑狗(倭国大乱で大活躍した先代の跡継ぎ、兵庫県豊岡市久久比神社の祭神で、上棟式の祭神でもある木霊久久遅命)が反発し、内戦となったと推理しました。
張政は難升米が置き去りにして逃亡してしまったので、狗奴国軍に捕らえられて大将の尾張王のもとに引き出されたと思います。身の危険を感じながらも魏の威光を背景に、強気で魏に従うように説得したのだと思います。尾張王は勿論、張政を殺害すると大変な外交問題が発生することは分かるので、そこまでは冷静でした。しかし張政の誘いに乗って狗奴国を裏切った尾張王は、歴史上、非常に大きな判断ミスをしたと評価できます。狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に伝令を飛ばして判断を仰ぐ必要がありました。
しかし尾張王は先代旧事本紀によれば、ニギハヤヒ大王の長男アメノカグヤマの子孫ですので、アメノカグヤマの弟ウマシマジの子孫である狗奴国王卑弥弓呼とは、ニギハヤヒ大王の血統としては同列ですし、奴国を再興したニギハヤヒ大王一族の有力者ですので、むしろ倭国王として、狗奴国王よりも上に立ってもおかしくないと考えていたのでしょう。
しかし、狗奴国を裏切って倭国王に立ったことで、結果的に八世紀まで尾を引き、数々の悲劇を引き起こしましたから、いまさら言っても始まりませんが、日本史上最も重大な局面での判断ミスだったと思います。詳しくはこのシリーズの終わりの方でまた述べたいと思います。
さて、卑弥呼の弟赤坂比古は、すでに述べたように同じムナカタ族の王狗古智卑狗に投降し、先代の裏切りを謝罪したと思います。そして、赤坂比古が加わって狗古智卑狗の勢力が一気に増強されたので、狗古智卑狗は尾張王よりも兵士の数で圧倒して俄然優勢になり、尾張王に対立できたのだと推理できます。狗古智卑狗勢と尾張勢との戦闘が始まり、赤坂比古は狗古智卑狗の信頼を得るために、尾張勢に討ちかかり、敗走する尾張王を赤坂比古の本拠地の鳥栖市に追い詰めて討ち取る大活躍をしたと推理しました。
鳥栖市の赤坂古墳が尾張王乎止与命の墓であることは、九州最古級の前方後方墳であることから推理できます。前方後方墳は近江の神郷亀塚古墳が発祥地と考えられますが、第1期のものは、(その2)3.古墳時代のはじまりの謎①で示しましたように、他に米原市法勝寺SDX23号墳、清州市の廻間遺跡および八尾市久宝寺遺跡です。
古墳の形から見ても、近江・北陸のムナカタ海人族息長氏の勢力と尾張の勢力は祭祀様式を同じくしており、かなり関係が深いことが分かります。記紀で尾張王乎止与命を住吉大神(正体は武内宿禰=大国主命)に殺された仲哀天皇として、開化天皇の四世孫息長宿禰王の娘息長帯比売命が神功皇后となったとしています。前述のとおり、尾張王はニギハヤヒ大王の長男アメノカグヤマの子孫ですから、恐らくムナカタ海人族の部族長と婚姻関係があったと考えられます。ですから、女王台与をモデルとする神功皇后の父は息長宿禰王ですが、その父が系図上は、開化天皇の曽孫の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)とされています。しかしこれは、神功皇后がムナカタ海人族であることを誤魔化すために創作した系図だと推理しています(注1)。
狗古智卑狗が内戦の勝者となりましたが、尾張王乎止与命が裏切ったとは言え、狗奴国王の一族の有力者を討ってしまったことで、卑弥弓呼大王に許されるか不安になったのだと思います。そこに、張政が再び表れて、今度は狗古智卑狗に魏との同盟を進言してきました。
結局、狗古智卑狗も狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王に立て、魏を後ろ盾として狗奴国と対立することを決心しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主命とされた人物です。
(注1)滋賀県米原市日撫(ひなで)神社で少毘古名命・応神天皇(本当の父は大国主、母は台与、神話ではサルタヒコとアメノウズメ)と並び祭神とされており、息長宿禰王が娘の台与を大国主の妃とし、大国主の国造りのパートナーだったと考えられるので、神話に登場する少毘古名命(スクナヒコナ)のモデルと考えています。サルタヒコ大神とされた大国主命は大柄だったようですから、息長宿禰王は小柄な人物だったので、いつも一緒に居たのでその対比からスクナヒコナとされたのでしょうね(^_-)-☆
息長宿禰王の父の名前「迦邇米雷王」ですが、カニは尾張のシンボルで、米は以前にも米神(=首長霊)で見たように「め=頭目(かしら)」の意味ですから尾張王を意味します。雷王は大国主の国譲り神話で活躍したタケミカズチを連想しますから、後で詳しく述べますがこの神は記紀で仲哀天皇とされた尾張王乎止与命の跡を継いで父の仇討ちをした建稲種命(たけいなだねのみこと、記紀では景行天皇)のことです。この史実を誤魔化すために国譲り神話で登場させた神なのです。ちゃっかり藤原氏の氏神として祀っていますから、不比等が史実を改ざんするだけではなく、藤原氏の出自を誤魔化すことを目的で神話を作ったのが分かりますから、本当に笑えます(;一_一)
ですから、ややこしい話ですが息長宿禰王がムナカタ海人族だったことを誤魔化すために迦邇米雷王の子として系図を創作したと考えています。しかし、尾張氏と息長氏とは婚姻関係があったために、その連想でそのような系図が作られたのだと考えられます。応神天皇の父が大国主(狗奴国王に代々仕えた久々遅彦が武内宿禰のモデル)、母が台与(神功皇后のモデル)であることを隠すために、尾張王乎止与命を仲哀天皇としていますが、応神天皇(オオタタネコ)の史実を隠すために神武天皇とその系譜である日向三代の神話を創作して何重もの複雑な誤魔化しをやっています。
でも、一つひとつ見ていくと連想ゲームのようなものですから、正体は分かります。神武天皇の祖母は豊玉姫で、母はその妹の玉依姫です。どちらもワニの一族ということにしていますが、ワニはムナカタ海人族和邇氏の連想なのです。神武の父ウガヤフキアエズや祖父ホオリノミコト(山幸彦)が、応神天皇の父大国主久々遅彦(狗古智卑狗)と祖父の先代久々遅彦をモデルとしたものでしょう。和邇氏の祖赤坂比古の一族とはいくつもの婚姻関係を結んでいたと想像できます。ですから、先代赤坂比古の子卑弥呼も、神功皇后台与と同様に皇族として扱われる血筋なのだと分かります。
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