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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その11)青谷上寺地遺跡の虐殺は大国主への復讐による狗奴国勢の無差別テロだった

2022-07-10 00:00:11 | 古代史
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6.日本建国の謎
①青谷上寺地遺跡の虐殺は大国主への復讐による狗奴国勢の無差別テロだった
前回、大国主の国造りが成功し、従来狗奴国側だった人々が大国主の傘下になってしまい、畿内を中心に尾張・播磨などの狗奴国(旧奴国の正当な後継者ニギハヤヒ大王の一族)は押しつぶされそうになってしまいました(大国主久々遅彦もニギハヤヒの兄で最後の奴国王スサノヲの直系の子孫)。狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は、なんとか苦しい形勢を挽回しようと、裏切り者たちに対して纏向遺跡で毎日祈祷・呪詛を行ったと思います。特に、狗奴国王と同族のニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀では仲哀天皇)が大国主・赤坂比古らに殺されたので、その子の建稲種命(タケイナダネ、記紀の景行天皇、仲哀天皇の祖父)は、鳥栖市の赤坂古墳に埋葬された乎止与命を纏向遺跡内の前方後方墳メクリ古墳で改葬して後継者の儀式を行ったと推理しています。その後、大国主らに仇討ちしますが、記紀では景行天皇の九州遠征として詳しく書かれていますので、次回詳しく説明します。

ここで多くの専門家は、青谷上寺地遺跡の事件は弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱の時期に起こったと考えているようですが、その時期の集団戦闘(矢戦)の痕跡は佐賀県・福岡県・熊本県の三県で見つかっているだけです。鳥取県青谷上寺地遺跡を含めて日本列島のその他の場所での集団戦の痕跡が見られないことは、弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べることによって分かっています(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

さて、まだ若い、血気盛んな建稲種命は、父の恨みを晴らすために取り敢えず、大国主久々遅彦の根拠地だった丹後半島の集落を襲ったと考えられます。京丹後市函石浜遺跡を攻撃した痕跡だということは、出土した銅鏃から考えられます。丹後半島を含めて倭国側は鉄素材は潤沢に供給されていますので、鉄鏃を使用しているはずです。しかし狗奴国側は鉄素材の供給が完全に止まっていますので、銅鐸などの青銅器を鋳潰して鏃(矢尻)を作ったと考えられます。

次に鳥取市の青谷上寺地遺跡を襲ったと推理しています。新生児を含む男女109名の遺体が溝の中に無造作に投げ入れられていました。中には骨に銅鏃が刺さったままの遺体もありました。函石浜遺跡では狗奴国側の銅鏃の外は、恐らく倭国側の兵士や居住者のものと考えられる鉄鏃・石鏃が出土していますが、青谷上寺地遺跡では鹿の骨で造った狩猟用の矢尻(骨鏃)以外はすべて銅鏃ですから、ここには鉄鏃を装備した倭国側の兵士は居ない無防備の集落だったと思われます。その西側約50キロの麦木晩田遺跡は丘陵にあるムナカタ海人族の大規模な城と言ってもいい拠点集落ですから多くの兵士が駐屯していたはずです。もしも警戒していたら青谷上寺地遺跡に警護隊が派遣されていたはずです。ですから、襲撃されることなど全く予期していなかったということでしょう。

日本列島では兵士による民間人へのこの規模の無差別大量殺戮はほとんど考えられませんから、怨恨によることは明らかです。犯人は尾張勢を中心とする狗奴国側の兵士であると推理できます。
事件の詳細は以下の記事にありますのでご参照ください。

【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?

なお、上の記事にもその時点で分かったDNA解析結果について考察しましたが、核ゲノムを含む最新の解析結果が発表されていましたので(篠田謙一・神澤秀明・角田恒雄・安達 登「鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土弥生後期人骨のDNA分析」国立歴史民俗博物館研究報告第 219 集、2020。)、新たに分かったことについて考えてみます。ちょっと長いので申し訳ないですが、お付き合いください。

ミトコンドリア DNA のハプログループ別の内訳を図 3 に示した。ハプロタイプの多様性を反映して,13 種類のハプログループに分類されている。このうち最も大きな比率を持つのはハプログループ D4b の 24 % で,次が N9a の 15 % であり,それ以外は 10 % 以下の比率だった。現代日本人で最も多いハプログループである D4a は 2 体のみだったが,ハプログループ D4 に属するものは全体の 45 % を占めており,現代日本人の 32 % [Tanaka et al., 2004]を大きく上回っている。注目すべきは,この中で明らかに縄文系と考えられるハプログループがほとんどないことである。縄文の代表的なハプログループは M7a と N9b であるが[Adachi et al., 2011],青谷上寺地遺跡のサンプルでは,前者が 1 例認められるだけだった。すなわち,青谷上寺地遺跡に見られる母系の DNA 系統は,ほとんどが弥生時代以降に日本列島にもたらされたものだと考えられる。」(p.168)



wiki「ハプログループD (mtDNA)」によれば「ハプログループDは48000年前に東アジアで誕生し、東アジア・東南アジア・北アジア・中央アジアそしてアメリカ大陸に至るまで広範囲に観察される。形質人類学におけるモンゴロイドの分布域と概ね重なる。日本人の約41%-42%がこの系統に属する[4][5][6]、D4は日本人の30%以上が属す最も高頻度のグループとなっているが、D5は僅か5%程度となっている[7][8][9][10][11][12]。長寿の傾向がある遺伝子とされている[7][8][9][10][11][12]。」とあります。

そして有名人のハプログループmtDNA D4b系統の記事に、長野・湯倉洞窟遺跡 縄文人骨に見られたとあります。なんと縄文時代早期(約7,920年-7,795年前)の人骨とありますから、これはもう縄文人と呼んでもいいと思います。

ですから、恐らく日本列島内のD4のハプログループは、3%の縄文系M7aと共に、縄文時代から列島に居たと考えられるので、縄文人と考えてもよさそうです(合計48%です)。つまり、残りの52%くらいが弥生時代に列島に来たのだと考えられます。しかし、これらの中にも縄文時代から列島に来ていた可能性もありますね。

なお、井上貴央「青谷上寺地遺跡の弥生人と動物たち」(鳥取県教育委員会H18.3,p.22)に「F群かそれに属すると考えられるものが 2 点」とあり、「日本列島に集まった人々とは?」で越南由来のハプログループFは倭人(Y染色体DNA O-47z)の母系かもしれないと述べましたが、今回の解析結果では消えていますし、該当ページも閲覧できないので、F群は最初からなかったと考えてよいようですね(*´Д`)

更に男性と判定された 5 体について,Y 染色体 DNA のハプログループを推定した(表3)。下顎 10 号は DNA 断片の数が足りずに決定に至らなかったが,他の 4 個体に関しては,2 体でサブグループまでを判定し,2 体で大分類までのハプログループの決定ができた。興味深いことに,決定できた 4 体のハプログループのうち,渡来系の弥生人のハプログループと考えられるものは 21 号頭骨の一体のみ(ハプログループ O)で,残りは縄文系と考えられているタイプだった(ハプログループ C1 と D)。この結果は,ミトコンドリア DNA とは全く逆の傾向を示すことになった。」(p.169)

日本列島の人類集団の形質は,縄文から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており[例えば Dodo and Ishida, 1990; Matsumura,1994],弥生時代は日本人の成立を考える上で重要な時期である。基本的には,弥生時代を通して在来集団と渡来してきた集団の混血が進んだと考えられるので,今回解析した青谷上寺地遺跡集団の遺伝的な変異が大きいという事実は納得できる。一方で,母系に遺伝するミトコンドリア DNAの多くが渡来人に由来するものであるのに対し,父系に伝わる Y 染色体 DNA の大部分が在来の縄文人に由来するものだと考えられることは,婚姻が在来系集団と渡来系集団の間でランダムに行われなかった可能性を示唆している。しかし解析できた Y 染色体ハプログループのデータが 4 例と少ないので,現段階ではこの問題に結論を出すことは難しい。その解明は今後の課題としたい。」(p.172)

しかし、「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」で示したとおり、現代日本人の男系のルーツはすでに分かっています。C1は現代日本人男性に2.3%見られるC型縄文人系(C1a1=C-M8)と考えられます。またOについては25.1%見られるO-47z(倭人)だと考えられますので、つまりこの時期には倭人と縄文人との婚姻が行われ、混血が進んでいたと考えられます。王族レベルでも一世紀後半に婚姻が行われたことは、イザナギ・イザナミの国生み・神生み神話から分かります。イザナミは米子市宗形神社を根拠地とした縄文海人族でしたよ(^_-)-☆


(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)

核 DNA データから SNP 情報を抽出し,アジアの他集団との比較を行った結果では,青谷上寺地の各個体は,現代日本人の範疇に入ったが(図 4),狭い範囲に固まることはなく,現代日本人の中に広範に散在する形となった。いくつかの個体では,分析できた SNP の数が少ないので,そのためによるバイアスを見ている可能性はあるが,比較的ゲノムのカバレッジが高かった 15 号と8 号は大きく離れており,今回分析した個体同士の遺伝的な構成がバラついていることは間違いない。」(p.169)



結果のこの図からも、青谷上寺地遺跡の人々はもう現代日本人とほとんど同じなのだと分かります(^_-)-☆。

ですから、「日本列島に集まった人々とは?」にも述べましたが、七世紀に百済から大量に渡来した人々もほとんど倭人と考えていいようですよ。

今回の解析では,解析した 32 サンプルで 29 のミトコンドリア DNA の種類(ハプロタイプ)を確認した。ミトコンドリア DNA は母系に遺伝するので,同一の配列を持つもの同士は,母系につながる親戚,例えば母と子,同じ母から生まれた子ども同士などの関係にある。その中で共通するミトコンドリア DNA のハプロタイプが全体の 1 割に満たないことは注目に値する。青谷上寺地遺跡では,狭い溝の中から 5300 点もの人骨が散乱状態で出土した。同時期に遺棄されていることから同時代を生きた人々であると判断でき,先祖と祖先の関係を見ているわけではないので,この事実は彼らの大部分が同時期に生きた母系の血縁関係のない人々であったことを示している。核ゲノム解析でも,解析した個体のゲノムは広く現代日本人集団の中に散在しており,集団として遺伝的な多様性が高かったことが示されている。
 ヒトの流入が少ない長く続いた村落では,同族の婚姻が増えることで,やがて構成するミトコンドリア DNA のハプロタイプは少なくなるのが一般的である。その場合は,特定の数種類のタイプが多数を占めるようになることが,これまでに行われた縄文時代の遺跡で確認されている[Shinodaand Kanai, 1999]。これに対し,都市のように多くの人々が流入や離散を繰り返しているような地域では,同時期に多数のミトコンドリア DNA のタイプが観察されることが予想される。
」(p.172)

ということで、青谷上寺地遺跡の人々が縄文海人族だったと気付けばすべて理解できますね(^_-)-☆


ちょっと長くなりましたが、ここまでお付き合い、ありがとうございます。つづきもまたよろしくお願い致します(/・ω・)/
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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