刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代史の謎を推理する(^_-)-☆

2021-01-16 09:01:58 | 古代史
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刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆

【刮目天の古代史】仮説を検証する(^_-)-☆

【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆



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道祖神もやっぱり(^_-)-☆

2021-01-14 22:05:37 | 古代史
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左義長とは?意味や由来、歴史を紹介|主な有名左義長も
2020.02.28 四季の美


左義長?さぎ師の長介のこと?

冗談です(;´Д`)

刮目天も知らなかったのですが、どんど焼きといえば分かると思います。このページに由来などが簡潔に説明されていますが、中部や関東地方では道祖神の祭日として子供が司祭となる火祭りです。いつもフォローしている木が大好きな材木屋様のブログにきれいな写真がたくさんありますよ(^◇^)

道祖神は都心を外れて、のどかな場所を散歩すると道端によく見かける丸石や男女の肩を抱き合った双立神の小さな石像やぎょっとする様な男性のシンボルなどなど色々あるようです。こちらをクリックすれば色々な道祖神の画像が見れますよ(*^▽^*)

なぜ、道祖神が火祭りと関係あるのかですが、「もともと左義長と道祖神の祭とは無関係のものであったと思われるが、・・・・十二支の申は、方向としては西南西にあたり、西は五行の火にあたるので、いつしか猿田彦と火が結びつけられ、火祭りである左義長が道祖神祭となったのではないかと思う。とすれば、双立神地帯のサエノカミマツリも猿田彦が関わっているのである。とあります(本位田重美「続道祖神考」関西学院大学リポジトリ1975.12.5 p.13)。本位田先生の説明によると、図に示した道祖神には様々な性格のものがあるようです。



この民間信仰が誰によって広められたのかは今いち、よく分かっていませんが、ほとんど日本全国ですから大したものです。

そうなんですよ。

猿田彦といえば、【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!で見たようにその正体は大国主なのです。

ですから、双立神はサルタヒコのお相手のアメノウズメであり、大国主久々遅彦と女王台与なのです。

日本建国の真相を庶民も知っていたと思います。


この二人が大和朝廷に国譲りをした、つまり殺された実在人物なのですから。

だから天変地異や疫病などによって祟るので、疎かにできないのです。

至る所で起こる地震などの災害は二柱の祟りと考えて、真剣に祀っているのです。

そこから、怖い怖いだけではなく、人々は二柱の霊魂を和ませて祟られないようにと、

様々な思いを神に伝えるためにいろいろな形式を編み出したのではないかと思います。

大国主が天狗のような風貌のサルタヒコとして描かれているのは、たった十三歳の台与を女王に立て、その数年後だとは思いますが、妃として子を儲けた六十歳過ぎの精力絶倫老人だったからだと推理しています(注1)。他にもたくさん妃を抱えていただろうことは、古事記などの神話からも想像されます。悲劇の女王台与のはなし(その1)(その4)に記事にしましたが、当時の民衆は台与を気の毒におもい、わらべ歌「かごめ」でその霊を慰めたのだと推理しています。

本位田先生は、今昔物語(巻二十六第七話)の猿と大蛇の神が未婚の女子を人身御供として要求するはなしを紹介して次のように説明されています。「蛇が淫欲が深いものであることは、風土記や日本霊異記を初め諸書に散見するところであるが、・・・・猿も同様に考えられていたことは明らかである。ただ蛇の場合ほどは古い文献に姿を現さないのは不安であるが、狒々の淫欲の深いという点に関しては、全国でも信じられているところであるから、その起源も相当古いものであると見てよいのではなかろうか。もしそうなら、猿田彦に性神的な要素があり、その長い鼻は当初から陽物の象徴と見られていたのではないかと思われる。」(p.6)。

そして性神であるサルはヘビと同体!

くどいようですが、サルタヒコは奴(ナーガ=龍蛇神)国大王スサノヲの子孫の大国主狗古智卑狗(久々遅彦)なのですから(*^▽^*)

平安時代の人々が日本建国の真相を正確に知っていたかは定かではないですが、

ヤマトに国譲りした大国主と台与の悲劇と大和朝廷への崇りについては共通の認識があったと考えられます。

ですから、朝廷の人々は二柱を日本全国の神社で祀り、庶民は道祖神として祀っているのだと考えられます。

神社にしても、あからさまにしないように地の神ということにして様々な名前を与えて誤魔化していますが、ペア・夫婦の神は大国主と台与のことだと考えられます(例えばウサツヒコ・ウサツヒメ、オクツヒコ・オクツヒメ、サムカワヒコ・サムカワヒメなどなど)。そしてもう一柱、卑弥呼も朝廷から高い神階が与えられ、厳島神社の御祭神イチキシマヒメや弁財天などとして広く祀られていますから建国の真相が分かりますよ(^◇^)

最後に、農業神の性格ですが、豊葦原の瑞穂の国を開発したのが大国主ですから分かりますね。大国主が実際に葦の大湿原を水田にしたその場所は宇佐市安心院町佐田地区だと推理しています。そうそう、そこに立派なコシキ石(いわ)がありました。(2021.1.15 赤字訂正)


大国主のイメージは三世紀後半のこの時代からすでに男性のシンボルに間違いないですよ(*ノωノ)


(注1)大国主の先代久々遅彦が旧奴国勢力の中心人物として倭国との抗争(第一次倭国大乱)で大活躍していたのですが、204年公孫氏により帯方郡が設置され、半島情勢が落ち着き、倭国は勢いを盛り返したようです。菊池の軍事拠点が倭国軍に襲撃されて先代久々遅彦が殺されたと推理しています。王を失って途方に暮れたムナカタ海人族が倭国王に懐柔され、卑弥呼を女王に共立したと考えています。ですから、大国主はその時点で十歳代の若者だったと思います。247年3月24日の日食を見た伊都国の倭国王は卑弥呼が霊力が衰えたとして殺します。ニギハヤヒ大王の直系の狗奴国王卑弥弓呼が各地の旧奴国王族を纏向に呼び寄せ、倭国追討軍を差し向けたタイミングと重なったことも卑弥呼が殺された原因だと思われます。

倭国追討軍の主将は纏向遺跡の外来土器のほぼ半数を占めるのが東海のものですので、ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王が主将、次に多いのが山陰・北陸の土器ですから、日本海沿岸を活動域にしていた縄文海人ムナカタ族の王である久々遅彦(奴国最後の王スサノヲの直系の子孫が代々襲名したと考えています)が副将として参戦したと推理しました。そして、倭国王は半島辺りに逃亡したので、倭国軍を蹴散らし、尾張王が卑弥弓呼大王を裏切って倭王に立とうとしたので、久々遅彦と争いになりました。千人ほどなくなり、結局久々遅彦が勝利してムナカタ族の姫巫女台与を女王に立てて、新たに日本海沿岸を加えた倭国を支配し、後世に大国主と呼ばれたと推理しています。

ですからその時の大国主の年齢は六十歳代でしょう。日本書紀では白髪の老人の武内宿禰として神功皇后台与を助けた設定にしています。殺された尾張王が、住吉大神の神託を疑って死んだ仲哀天皇ということです。武内宿祢が三百歳を超える老人という設定は、スサノヲの子が代々襲名したことを意味していると思われます。

【関連記事】
本当は怖い七福神の謎(;一_一)

狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆

大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v

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日本の未来のためにご皇室を護ろう!(^_-)-☆

2021-01-03 18:26:23 | 古代史
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【日本の歴史をどれだけ深く学ぶか】
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 最終回 櫻井よしこ『週刊ダイヤモンド』 2019年6月29日号

安岡正篤氏は首相まで務めた宮沢喜一氏を「ヨコの学問はできてもタテの学問がなっていない」と評した。安岡氏は、真の教養ある日本人は欧米の事情のみならず日本の文化文明、歴史を修めなければならないと言っているのである。

その意味で近年読んだ本の中でとりわけ重要だと感ずるのが白鳥庫吉博士の書いた日本史である。当欄でも以前に少し触れたことがあるが、大正3(1914)年に開設された「東宮御学問所」で時の皇太子、裕仁親王に日本史を教えるために白鳥博士が書いた5巻に上る書である。いま『昭和天皇の教科書 国史』(以下『国史』、勉誠出版)として手にすることができる。

同書に特別の関心を抱くのは、米国の変容に始まり、国際社会が大激変する中ですべての国々が如何に国益を守り通すかに心を砕かざるを得ない時代に突入しているからだ。米中対立の日本への影響はとりわけ強い。だからこそ、日本自身が足場を固める必要がある。経済と安全保障は無論だが、その前に安岡氏のいう「タテの学問」が欠かせない。日本人は自らをどのような民族としてとらえるか、日本の歴史をどれだけ深く学ぶかによって日本の近未来を切り開く道が自ずと明らかになる。歴史の学びこそ重要だ。

『国史』は歴代の天皇を軸にして描いた歴史だ。歴代の天皇には各々特徴があるが、共通項は国柄継承の主軸を担ったことだ。遠い過去の天皇たちは国家や社会、国民の暮らしと具体的にどう関わっていたのか、周囲の国々や異民族とどう接していたのかなどが『国史』には実例に則して記されている。それは巧まずして日本の国柄をわかり易く現代に伝える結果となっている。

前述したように、世界は激しく変化し、前例が通じにくくなってはいるが、その中にあっても日本国の長い歴史や文化、即ち、国柄を構成する価値観に基づいて対処すれば大きく間違うことはないだろう。

日本の国柄の基本は、世界一長い歴史をもつ皇室をいただく伝統の国だという点にある。そこから生まれる価値観こそ大事にしたい。令和の時代のいま、社会も国も水平思考で、皇室の特別扱いには異論さえある。だが、皇室が日本人にとって特別かつ大切な存在であることに変わりはない。福澤諭吉は『帝室論』で「一国の帝王は一家の父母の如し」と書いた。皇室の力は安らぎをもたらす緩和力である。その皇室を、国民は敬愛の情でお守りしなければならないと、福澤は説いた。

『国史』には福澤の視点と対をなす、皇室の国民に対する視点が次のように書かれている。日本国の特徴は、天皇が日本国を「大きな家族」と見做し、「君と民とがおだやかに和して国の基礎を強く固め」ていることだ、と。

天皇の慈しみは日本に移り住んだ異民族にも同様に注がれる。天皇は、「(異民族を)従来の国民と同様に慈しみ、両者が溶け合って円満な国づくり」を実践したと『国史』は述べる。右の精神は第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議で日本が人種差別撤廃を主張したこととも、対米開戦の理由ともなった米国での日本人排斥運動への憤りとも、通底するのではないか。

日本の政情が概して安定しているのは天皇と皇室が高い次元からすべての人々を公平に見て下さることにあるのではないか。ただ、歴史上、天皇や皇室発の争いも確かにあった。それを『国史』は蘇我一族の横暴な振舞いを例にして、どんな時も天皇は一氏族のみを寵愛してはならないと戒めている。

皇室と国民の絆、人種の平等、究極の公正さなどの教えが各天皇の行動に沿って綴られた本書が、いま一押しの書である。

さて、25年間にわたった連載は今回で終了する。読者の皆様には深く心からのお礼を申し上げたい。編集部の方々にも深く感謝申し上げる。


問題の深い理解のために、全文引用させていただいた。戦前では国民の結束のために明治政府が創設した国家神道に頼り、皇国史観の国史が教育された。

古来から天皇が日本の統治者とする考え方は正しいのだが、世界の征服王朝とはまるで別物なのだ。日本の本質を理解していない明治政府の神仏分離令と、庶民の廃仏毀釈運動は伝統破壊の悪しき文化大革命という側面があった。

それによって戦前までは荒唐無稽な記紀神話にさえ異論をはさむと不敬罪という重大な罪に問われた。

このことがあり、厳しい言論統制を受けてきた歴史学者たちは戦前の「国史」への反発から、とにかく記紀神話を無視して、信用できそうなところから実証主義で考えようとする、学問として当然の流れになった。

ところが、戦前の教育を受けた方々などからすると、戦後の教育が愛国心のない唯物論者・共産主義者の主導によって行われたために、それへの不満と反発から、上の記事のように戦前の「国史」復活の流れを作ろうと頑張っておられるのも当然の流れのように見える。日本という国柄を考えると現在までのところ、正史に書かれた神話抜きには語ることが出来ないわけだから仕方ないのだが、最近の世論調査における女系天皇容認論の国民の支持の大きさが危惧される。

愛子内親王殿下を天皇にする動きこそ万世一系の天皇家を破壊する行為です。

つまり伝統国家日本そのものの崩壊につながるものです。

大きな過ちを犯す可能性が高まっています。

日本の始まりは女神なのだから、

愛子内親王殿下がアマテラス女神になってもらえばいいじゃないか?

この考えは虚偽の産物なのです!

日本建国の歴史と天皇の本来の役割を、

政治的な意図で創作された正史に基づき理解していることが間違いなのです!


アマテラス女神の神託に基づく神武天皇の東征神話は政治的な創作なのですから!

ハッキリ言うとウソ・デタラメなのです!


天武天皇の後に、本当の皇太子だったと思われる大津皇子を謀略で自殺させ、優秀な皇子たちを抑えて皇位を簒奪した皇后鵜野讃良(うののさらら)持統天皇の正統性を主張するために当時の権力者藤原不比等がアマテラス女神を創作したのです!「日本書紀」は藤原氏の権力を子々孫々維持する目的ですから、天皇家さえ貶める内容になっているのです。

ですから、先例を偽造するために作った歴史上最初の女帝推古天皇も次の皇極(斉明)天皇も実際には存在しない天皇です(注1)。

持統天皇のあとに即位したとされる元明・元正・孝謙(称徳)天皇も虚偽に基づく女性天皇です。孝謙天皇の時代に宇佐八幡神託事件が起こり、天照大神尊ニギハヤヒの子孫である物部支族の弓削道鏡に皇位を譲ることは失敗しましたが、重祚した称徳天皇の後に中大兄(天照大神尊の子孫)の孫の光仁天皇に皇位を譲ります(次の桓武天皇から今上天皇まで天照大神尊の子孫)。江戸時代の明正・後桜町天皇も天皇の役割を完全には果たせませんでしたので、Wiki「女性天皇」「皇室の菩提寺・泉涌寺は、江戸期の天皇14人のうち12人の肖像を所蔵しており、仏事の際に掲げていたが、女帝の肖像だけが存在しない[9]。」とあり、天皇とは認知されていなかったということです。

つまり、天皇の本当の意味(ヤマトの祭祀王)で女性天皇は存在しないのです!

未婚の内親王または女王(皇族)には、斎王制度がありました。
斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)です。


この説明の通り、伊勢神宮と賀茂神社は同格です。賀茂神社の御祭神賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神ですから大物主神(大国主命)です。謡曲「三輪」では 「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」と暴露していますから、伊勢神宮内宮の真のご祭神は三輪の大物主大神なのです。ですから外宮に女神である豊受大神を呼び寄せて祀っているのです。伊勢神宮へは持統天皇から明治天皇までの間にどなたも行幸・参詣されていないとのことです。近場の賀茂神社で祀っているからでした。でも、伊勢神宮には特別な霊力があるから現在でも尊崇されているのです。

大物主大神は大国主狗古智卑狗で、豊受大神は神功皇后台与です。

二人の間の子がヤマトの初代祭祀王である応神天皇ですよ(注2)。

宇佐神宮をはじめとして八幡大菩薩として全国で最も数多くの神社で祀られています。しかし、八幡神社の真のご祭神は大国主なのです。応神天皇を祭祀王にするようにニギハヤヒ大王の子孫の纏向狗(旧)奴国王の卑弥弓呼崇神天皇に神託を与えたのが大物主大神なのです。ヤマトによって滅ぼされた大国主と台与の祟りを朝廷は最も畏れたのです。ですから日本中の神社で名前を色々と変えて祀っているのです。

日本建国の真相を隠す目的です。

今上天皇は天照大神尊ニギハヤヒの直系の子孫ですが、ニギハヤヒは第17代奴国王伊弉諾尊の子でスサノヲの弟です。二世紀初頭の弥生時代後期後半に始まる首長霊信仰(首長がその先祖と霊的に一体となる信仰、天皇即位の大嘗祭に見られる真床追衾)が現代まで続いているのです。

皇祖神の男系の男子だけが霊力を引き継げるという信仰なのです。

もしも、虚偽の女系天皇によって新たな王朝ができると日本はシナ大陸と同じ易姓革命の国となり、

日本国民は戦乱で疲弊して絶えるまで永遠に混乱が続きます。

天皇には皇祖神の直系の子孫以外に誰でもがなれないのが重要なのです。

天皇は人類が発明した最高の叡智なのですよ!

全ての日本国民は建国の真相を正しく理解する必要がありますよ(^_-)-☆。


(注1)渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」大空出版 2014 参照。蘇我馬子が用明天皇でその子の蝦夷が聖徳太子で豊浦天皇として即位し、中大兄・鎌足らに殺されたと推理しています。その子の入鹿はダミーという推論です(*^▽^*)。最近の研究でも大化の改新は「日本書紀」の記述とは異なり、むしろ蘇我氏が天皇に権力を集める政策をしており、中大兄らが反動勢力だと分かってきています。恐らく半島政策での対立のようです。中大兄・鎌足は親百済、蘇我本宗家が大王家であり、武内宿祢つまり新羅明神=大国主狗古智卑狗の後裔ですから親新羅か全方位の政策だったようです。

(注2)「日本書紀」では応神天皇の父は仲哀天皇となっていますが、仲哀天皇はその父ヤマトタケルが薨去して三七年後に生まれた計算になりますから実在しないダミーの天皇です。刮目天は卑弥呼の死後に倭国に侵入した狗奴国軍の主将で尾張王と推理しました。ニギハヤヒ大王の直系卑弥弓呼王が倭国に対抗するために旧奴国に繋がる勢力を各地から纏向に呼び寄せたと推理しました。纏向の外来土器を見ると東海のものが半数近く占め、次に山陰・北陸のものです。ですから倭国追討軍の副将を出雲・丹波王狗古智卑狗とし、卑弥呼の死後、狗奴国軍が倭国を蹴散らし、尾張王が倭王に立とうとして狗古智卑狗と対立し千人が殺し合う内戦になり、結局尾張王が殺されたと推理しました。その史実を「日本書紀」では仲哀天皇が住吉大神の神託を疑って神によって殺された話になっていますが、住吉大神こそ神功皇后を常に助ける神であり、常に皇后の傍らに居て皇后を助ける武内宿祢と重なります。住吉大社の伝承でも応神天皇の本当の父は仲哀天皇ではなく、住吉大神だとほのめかしています。神功皇后はムナカタ海人族の姫巫女台与、武内宿祢が狗古智卑狗と推理しています。

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再び、女性天皇はなぜダメなのか(^_-)-☆
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日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )


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邪馬台国は別府だったのか?!(*^▽^*)

2021-01-01 00:00:34 | 古代史
謹賀新年!
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さて、新年最初の話題は、うま酒を呑みながら邪馬台国に思いをはせて頂きたいと思い、このテーマにしました。卑弥呼は別府に居たのか?昨年の7月30日に出版された「邪馬台国は別府温泉だった!: 火山灰に封印された卑弥呼の王宮 (小学館新書) (日本語) 新書 」の紹介記事をネットで見つけました。刮目天の推理では 卑弥呼はチョット北の宇佐市安心院町の居城ですから、別府には冬宮があったのかも知れないと思っています。と言いますのも、卑弥呼の後の女王台与に因む地名「豊後豊岡」を別府の直ぐ北側の速見郡日出町で見つけてましたので、とても興味を持ちました(*^▽^*)

驚愕!邪馬台国は「別府温泉」にあった…地下には卑弥呼の王宮が眠る?
奈良でも佐賀でもなく「別府温泉」2020.8.22 酒井 正士 現代ビジネス


全国邪馬台国連絡協議会の酒井さんは自然科学を研究されていた方で、魏志倭人伝に書かれた行程記事を生データと考えて邪馬台国の位置を割り出せるはずとの発想から、従来の説を以下のように批判されています。

「江戸時代の新井白石からはじまる邪馬台国研究においては、そもそも「三国志」を編纂した陳寿は、辺境の日本のことなど正確に記述していないという思い込みや、中国の科学技術=軍事技術の過小評価から、「南は東の誤りだ」とか「当時の知識では、日本列島は方角が90度回転してとらえられていた」などと、記述を都合よく解釈したり、改変したものなど、牽強付会としか言いようのない言説が数多くあります。

とくに、邪馬台国に至るまでに使節が立ち寄る国々の「末盧国(まつろこく)」「伊都国(いとこく)」「奴国(なこく)」「不彌国(ふみこく)」について。九州上陸地である末盧国を松浦(まつうら)地方(呼子、唐津あたり)、伊都国は糸島、奴国は那の津とするなど、「地名の類似」で位置を同定し、倭人伝に記述されている「距離や方向」をないがしろにするきらいがありました。」


ですから、考古学の成果や地名の符合は無視し、あくまでも生データで考えようという主張です。著名な邪馬台国研究者で福岡県田川市の赤村の巨大前方後円墳を卑弥呼の墓とする福永晋三氏の考えと似ている感じです。そして、三国志の時代の測量技術の水準は高く、方角や距離は正確だとのご意見です 。方角測定は「周礼(しゅうらい)」という書物に書かれた「日晷(にっき)法」を用いれば、季節を問わずほぼ正確な方向を知ることができ、距離測定も「一寸千里の法」というものが知られており「1里=約77メートル」であるので、以下の図のように卑弥呼の宮室が1966年に発掘された別府市の南明荘(なんめいそう)遺跡であると推定されています。



「遺跡の上部には噴出岩と噴出礫、そして火山灰や火山礫が厚く堆積していました。楕円で囲んだ部分の面積は吉野ヶ里遺跡を優に超えるもので、この空白地帯の地下に卑弥呼の王宮が埋もれている可能性があります。」だそうです。別府市の考古学資料によれば、「別府湾の北岸の杵築・国東地方と南岸の大分・海部地方には、 古墳時代前・中期の大型の墳丘墓が多く造られてきたが、 湾奥の別府地域にはその時期の大型古墳は見られない。 この時期では別府の地に際立った首長は存在しなかったと思われる。」「べっぷの文化財」ー別府市の古墳文化 No.42 H.24.3 )とあります。邪馬台国の時代よりも50年以上後のものですが、「石垣原扇状地は、 このように弥生時代から稲作農業を主体とする集落が各地に形成され、 それが徐々に成長、 拡大していったのではないかと考えられる。」とあるので、ひょっとして卑弥呼の宮室や楼観などが火山灰の下に埋もれているのかも知れませんね(#^.^#)

そして邪馬台国が別府である根拠として、ここでは以下の二点をあげられています。

まず、古代史研究家の古田武彦氏は、万葉集の和歌「大和には郡山(むらやま)あれどとりよろふ 天の香具山登り立ち国見をすれば 国原は煙立つ立つ海原は鴎立つ立つ うまし国そ蜻蛉島(あきつしま)大和の国は」で詠まれた天の香具山は、別府の鶴見岳ではないかと述べておられます。

たしかに、実際の天の香具山は、山というより丘程度なものですし、そもそも奈良には海がありません。この歌の海原と鴎を詠んだ勇壮な景色には、家々の竈の煙より、別府温泉の全景、温泉の湯けむりをあわせたほうが似合います。
とあります。

万葉集のこの歌は舒明天皇の国見を歌ったもので、大和の天の香具山から海のカモメが見えるのはおかしいと多くの方が指摘しています。ネットでも以下のような解説を見つけました。『「海と陸によって成る"日本国"全体の映像を」大和にになわせたもの、と見ています。奈良盆地の小風景に日本国全体を幻視している、というわけです。 なるほど、そういう読み方も出来そうです。』

しかし万葉集研究家の渡辺康則さんが、「日本書紀」の歴史改ざんを大伴家持や山上憶良が暴露する目的で万葉集を編纂したと突き止めています(「聖徳太子は天皇だった」大空出版 2014)。渡辺さんによれば、用明天皇の後の日本最初の女帝推古天皇から斉明(皇極)天皇あたりまで実際に存在しないダミーの天皇なのです(前著「万葉集があばく 捏造された天皇・天智」大空出版も衝撃的でした)。つまり、舒明天皇も実在人物ではないのです。当時の人々は「日本書紀」がデタラメな歴史書だと分かっていましたから、この国見歌で「日本書紀」を風刺するためにわざとあり得ない内容の歌を家持らが創作したのだと分かります( ^)o(^ )。

次に、また、魏志倭人伝の後段には「女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種」とあり、女王国の東側には海を隔てて女王国とは別の「倭の種族が住む国」が存在したことがわかります。四国西岸の八幡浜(やわたはま)市や宇和島市は別府市から海を隔てて東に1000余里の場所にあり(図5)、別府市が邪馬台国であることの傍証となります。とあります。九州説の方の多くは筑紫平野に邪馬台国があるとしていますので、魏志倭人伝のこの記述を無視していますから、酒井さんの方が生データに忠実だと言えますね。

しかし、上の図に赤字で示した通り、「1里=約77メートル」という話にはなっていません。一里当たりが倍の距離の区間もありますし、何といっても水行1月・陸行1月は一日当たり1キロも進まない行程ですので、不合理極まりないということです。

中国ではどの時代も1歩は約1.5mで(2歩分、時代によって若干異なる)、3百歩で1里、つまり1里は約450mと定められているのです。このような短里説は魏志倭人伝の行程記述を正しいとするために、当時使われていた道里制と異なる古い考え方を持ち出したもので、こじつけだと分かります。もしも短里制度があったならどの区間も1里当たりはほぼ同じ距離にならないとおかしいでしょう!また、同じ国家の中で地域によって1里当たりの距離が異なる制度など常識で考えてもあり得ない話です。

ですから、魏志倭人伝の行程記事は政治的な理由で書かれたものだと断言できます。

帯方郡から倭国に送った二人の魏使(240年梯儁、247年張政)の報告書に基づいて西晋の史官陳寿が編纂したもので、倭国が魏のライバルの呉を海上から圧迫する位置に在る大国としたかったと分かります。帯方郡太守劉夏は当時の魏の実力者の司馬懿仲達から倭国を懐柔する命を受けて赴任してきた司馬懿の部下です。239年に倭国の大夫難升米と帯方郡で談合して、難升米の伝えた邪馬台国への行程を、後日梯儁の報告書の中で魏志倭人伝のように書き変えたと推理しています。(2020.1.5 赤字改訂)

半島や倭国を支配していた公孫氏を破った司馬懿の功績を実際以上に大きく見せるためです。司馬懿のライバルで魏の武帝曹操の一族の曹爽よりも上の立場になるためでした。曹爽の父曹真はこの時すでに病死していたのですが、曹真が明帝の時代に首都洛陽から万六千三百七十里も離れた西域の大月氏の都カーピシー(アフガニスタン・バグラーム)からバースデーバ王を朝貢させ、蜀を挟み撃ちにしました。その功績が魏の第一等の勲功でしたので、司馬懿はそれを上回るものとしたかったのです。

大月氏は10万戸の大国でしたので、邪馬台国7万戸・投馬国5万戸・奴国1万戸などと記述して倭国を大月氏以上の大国に見せ、倭国までの距離も帯方郡から万二千里、洛陽から楽浪郡まで五千里ですから、洛陽から倭国まで万七千里と書きたかったためでした。ですから、魏志倭人伝の途中の行程の記述は倭のことをほとんど知らない魏朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで書かれたものと推理できます。また、陳寿は卑弥呼に親魏倭王の金印を与える詔勅のほぼ全文を載せていますから、西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を書きたいために魏志倭人伝を書いたのだと分かります。その詔勅も明帝の後の少帝芳の補佐役になっていた司馬懿が作成したものだと推理できます。



前回の古代史の謎を推理するで述べたとおり、こういう新しい認識で邪馬台国問題を見直すと多くの謎が解けるようになります。邪馬台国への行程記事もどうやって改ざんしたのかも分かりますよ(^_-)-☆。



ついでに云うと、卑弥呼についても倭国の統治権を持った調整能力のある女王として解釈するのが通説になっているようですが、倭国に対して魏の人々の興味をそそるように女王様の支配するエキゾチックな東夷の大国としたかったということです。つまり実態は、縄文海人ムナカタ族の姫巫女が告げる太陽神の神託によって倭国王が政治を行う形態にしたということです。その名残りが同じ縄文系の琉球神道に残っているようです。

【参考記事】
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^) 上で述べた事情で行程記事から邪馬台国の位置を推定しても無数の解が得られますから決着がつきませんが、刮目天の手法で邪馬台国の位置を見つければ、行程記事の真相が分かりますよ(^_-)-☆
誤解と幻想の邪馬台国通説では纏向遺跡や吉野ヶ里遺跡のような大規模集落に卑弥呼が居たと考えられてますが、誤解ですよ(;一_一)
誤解と幻想の卑弥呼琉球神道について調べました。
誤解と幻想の神武東征(^◇^)右とか左とかイデオロギーに関係なく、神武東征を示す事実はないのですよ(*^▽^*)
誤解と幻想の古代史「魏志倭人伝」と同様に「日本書紀」を聖典のように考えている歴史家は考古学の現実を無視しています。九州勢がヤマトに侵入してヤマト王権が成立した神武東征神話は日本建国の真相を隠すためのものなのですよ。


こんな感じで、通説と違う大胆な推論ですので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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