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台与は青ヒスイの国の姫巫女だよ(^_-)-☆

2021-01-25 08:31:45 | 古代史
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卑弥呼・台与と真珠
2021-01-24 13:05:08 | 歴史 古代四方山話


いつもいい話題を提供していただき、感謝します。コメントが長くなったので記事にしました。

真珠が遺跡から余り出土していないのは謎ですね。
やはり、日本の特産品で輸出用の高価な交易品だったのでしょうね。アコヤガイは、太平洋側では千葉県、日本海側では能登半島から沖縄にかけて、おもに波の静かな内湾に広く分布しているとあります。王族は愛用していなかったのでしょうかね。王族の装飾品はヒスイの勾玉やガラス玉でしょう。真珠にあまり魅力を感じなかったのかも知れませんね。だとすると古墳に眠っているということもないような気がしますね。

卑弥呼が魏から貰ったと魏志倭人伝に書かれた真珠は、魏では採れない日本の特産品ですからヘンですよね。「真珠鉛丹各五十斤」と書かれており、鉛丹(四酸化三鉛)が後に来ますから、どうも真朱(赤色硫化水銀)の誤記というのがいいようですね。

台与が266年西晋に贈った白珠五千個が真珠のことでしょう。

白珠よりも先に書かれた二個の「青大句珠」はやはりヒスイと考えています。(2021.1.25 20:57 訂正)

青いヒスイは列島内では糸魚川産だけのようで珍しいものです。


糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


台与の朝貢は魏から西晋に帝位が禅譲されたお祝いですから、親晋倭王として引き続きよろしくお願いしますという意味で、豪華な貢物を持参したのでしょう。ガラス製の青い大きな珠ならば魏でも、火山は朝鮮半島の北に長白山(白頭山)がありますし、蜀の領土(四川省)には峨眉山がありましたから、勾玉に加工はされていないですが、ガラス玉は比較的楽に入手できたのではないでしょうか。(注1)

だから倭国からの貢物としては、珍しい青ヒスイの大きな勾玉二個が目玉だったのでしょう。

それによってその後の中国では日本を珍しい宝石が採れる国と考えられたとあります(王勇「中国史のなかの日本像」農山漁村文化協会 2000)。そうすると、やはり台与は糸魚川を支配圏とする縄文海人族の姫巫女という推理がいいと思っています。そして、応神天皇を即位させた神功皇后も越・近江を支配する氏族ですから、神功皇后は台与がモデルの姫巫女でしょう。記紀では神功皇后は斧・鉞(まさかり)を武器にして敵を蹴散らした女傑となっています。



247年頃、内戦に勝利して倭国を支配した大国主狗古智卑狗(久々遅彦・豊岡市久々比神社の祭神)によって、台与は表向き卑弥呼と同様に女王に立てられましたが、これは丁度倭国に来ていた帯方郡の使者張政の進言によるものでしょう。これによって大国主の倭国は魏を後ろ盾にすることが出来ました。265年に魏の帝位を奪った司馬懿の孫司馬炎(武帝)が建てた西晋に、その翌年に台与が朝貢しました。しかし、その数年後に纏向ヤマトの狗(旧)奴国によって倭国が滅ぼされたと推理しました。倭国王の大国主は高良山で戦死し、祇園山古墳に葬られたと推理しました。台与は伊都国まで逃げて脱出を図ったようですが、ヤマト勢に囲まれて、自ら武器を持って奮戦して殺されたと考えています。その時の台与の男勝りの女傑の姿を神功皇后に映したのでしょう。台与が葬られたと考える平原王墓の木棺の上に置かれた素環頭大刀がそれを物語っていますよ。魔よけの意味もあるのかも知れません。

大国主と台与はヤマト勢に殺されたので、大和朝廷や民衆は二人の祟りを最も怖れたようです。

280年に西晋によって呉が滅ぼされて三国志の時代が終わります。呉を後ろ楯としていたヤマト政権は西晋に朝貢していた親晋倭王台与を殺したので、次はヤマトが滅ぼされると怖れました。そこで、狗奴国ヤマトの大王卑弥弓呼(記紀では崇神天皇)は大国主と台与の間の子供(ホムダワケ=オオタタネコ)をヤマトの大王(祭祀王)に迎え、動揺していた人心を抑えることにしました。ヤマトは卑弥呼の時代からお世話になっている国だということを示すために、倭国の都「邪馬台国」の名前を貰って纏向の都をヤマトと呼ぶことにしたというのが日本建国の真相だと突き止めました(注2)。

また、卑弥呼も、ヤマト勢が押し寄せる情報が倭国王(注3)にもたらされた時期に北部九州で日食が起こったので、卑弥呼の霊力が衰えたとして倭国王に殺されたと推理しました。ヤマト勢が直接手にかけたわけではないのですが後の人々は卑弥呼がヤマトに恨みを思っているはずと考えているので、親魏倭王だったムナカタ海人族の卑弥呼を宇佐八幡比売大神(宗像三女神)として各地で丁重に祀ったのでしょう。

しかし大和朝廷はこの三人の活躍した日本建国の史実をあからさまにしたくないために、列島各地で様々な名前の神として祀っていることも分かりました。平安時代まで人々は建国の真相をある程度知っていて、地震などの天災や疫病が発生するたびに、朝廷はゆかりの神社に勅使を派遣し、神階を上げて、田などを寄進して三柱を丁重に祀っていました。これらのことから日本建国の真相が分かりますね。



(注1)隋書に「魚眼精」という鶏の卵大の青い勾玉の記述がありますが、その文の前に阿蘇山の話があるので、これはガラス製でしょう。後に大和朝廷が贈った魚の目のような形の勾玉が珍しいということなのでしょう。でも、阿蘇で採れるならば卑弥呼が贈ってもよさそうですが、そうしてません。(2021.1.25 21:17 赤字追加訂正)

その理由は魏から朝貢を要請されたのでお土産もしょぼいもので良かったのだと思います。それで、魏の皇帝からあのような異例の卑弥呼を誉めちぎった詔勅を頂き、魏からお土産もたくさんもらっていますから分かります。

57年に後漢の光武帝から金印を賜った奴国も貢物はしょぼいのですが、光武帝の依頼で列島の珍しい品物を入手するためにやって来た華僑の交易を保護させるためだと分かります。

107年に後漢安帝に朝貢した倭王師升は160人もの生口(奴隷)を献上するために大船団を組んで朝貢したので、師升はクーデターを起こして奴国から権力を引き継いで倭国王と認めてもらうのが目的だったと分かります。つまり、倭国が朝貢に持参する貢物によって中国側が希望したのか、どうなのかが分かるということです。

(注2)ついでに言うと、記紀神話では、神武東征を阻もうとしたトミのナガスネヒコを、先にヤマトに降臨していた天孫族のニギハヤヒが殺したとなっていますが、トミはトビ(蛇)のことですからナガスネヒコは大国主のことで、ニギハヤヒ大王の直系の子孫卑弥弓呼王が大国主に国譲りさせたということを意味しています。

(注3)魏の正規軍の旗黄幢を直接授けられた大夫難升米が倭国の軍事を掌握する王であり、伊都国の男王、卑弥呼を補佐する男弟と推理しています。

【関連記事】

悲劇の女王台与のはなし(その1)(その2)(その3)(その4)


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