刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

道祖神もやっぱり(^_-)-☆

2021-01-14 22:05:37 | 古代史
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左義長とは?意味や由来、歴史を紹介|主な有名左義長も
2020.02.28 四季の美


左義長?さぎ師の長介のこと?

冗談です(;´Д`)

刮目天も知らなかったのですが、どんど焼きといえば分かると思います。このページに由来などが簡潔に説明されていますが、中部や関東地方では道祖神の祭日として子供が司祭となる火祭りです。いつもフォローしている木が大好きな材木屋様のブログにきれいな写真がたくさんありますよ(^◇^)

道祖神は都心を外れて、のどかな場所を散歩すると道端によく見かける丸石や男女の肩を抱き合った双立神の小さな石像やぎょっとする様な男性のシンボルなどなど色々あるようです。こちらをクリックすれば色々な道祖神の画像が見れますよ(*^▽^*)

なぜ、道祖神が火祭りと関係あるのかですが、「もともと左義長と道祖神の祭とは無関係のものであったと思われるが、・・・・十二支の申は、方向としては西南西にあたり、西は五行の火にあたるので、いつしか猿田彦と火が結びつけられ、火祭りである左義長が道祖神祭となったのではないかと思う。とすれば、双立神地帯のサエノカミマツリも猿田彦が関わっているのである。とあります(本位田重美「続道祖神考」関西学院大学リポジトリ1975.12.5 p.13)。本位田先生の説明によると、図に示した道祖神には様々な性格のものがあるようです。



この民間信仰が誰によって広められたのかは今いち、よく分かっていませんが、ほとんど日本全国ですから大したものです。

そうなんですよ。

猿田彦といえば、【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!で見たようにその正体は大国主なのです。

ですから、双立神はサルタヒコのお相手のアメノウズメであり、大国主久々遅彦と女王台与なのです。

日本建国の真相を庶民も知っていたと思います。


この二人が大和朝廷に国譲りをした、つまり殺された実在人物なのですから。

だから天変地異や疫病などによって祟るので、疎かにできないのです。

至る所で起こる地震などの災害は二柱の祟りと考えて、真剣に祀っているのです。

そこから、怖い怖いだけではなく、人々は二柱の霊魂を和ませて祟られないようにと、

様々な思いを神に伝えるためにいろいろな形式を編み出したのではないかと思います。

大国主が天狗のような風貌のサルタヒコとして描かれているのは、たった十三歳の台与を女王に立て、その数年後だとは思いますが、妃として子を儲けた六十歳過ぎの精力絶倫老人だったからだと推理しています(注1)。他にもたくさん妃を抱えていただろうことは、古事記などの神話からも想像されます。悲劇の女王台与のはなし(その1)(その4)に記事にしましたが、当時の民衆は台与を気の毒におもい、わらべ歌「かごめ」でその霊を慰めたのだと推理しています。

本位田先生は、今昔物語(巻二十六第七話)の猿と大蛇の神が未婚の女子を人身御供として要求するはなしを紹介して次のように説明されています。「蛇が淫欲が深いものであることは、風土記や日本霊異記を初め諸書に散見するところであるが、・・・・猿も同様に考えられていたことは明らかである。ただ蛇の場合ほどは古い文献に姿を現さないのは不安であるが、狒々の淫欲の深いという点に関しては、全国でも信じられているところであるから、その起源も相当古いものであると見てよいのではなかろうか。もしそうなら、猿田彦に性神的な要素があり、その長い鼻は当初から陽物の象徴と見られていたのではないかと思われる。」(p.6)。

そして性神であるサルはヘビと同体!

くどいようですが、サルタヒコは奴(ナーガ=龍蛇神)国大王スサノヲの子孫の大国主狗古智卑狗(久々遅彦)なのですから(*^▽^*)

平安時代の人々が日本建国の真相を正確に知っていたかは定かではないですが、

ヤマトに国譲りした大国主と台与の悲劇と大和朝廷への崇りについては共通の認識があったと考えられます。

ですから、朝廷の人々は二柱を日本全国の神社で祀り、庶民は道祖神として祀っているのだと考えられます。

神社にしても、あからさまにしないように地の神ということにして様々な名前を与えて誤魔化していますが、ペア・夫婦の神は大国主と台与のことだと考えられます(例えばウサツヒコ・ウサツヒメ、オクツヒコ・オクツヒメ、サムカワヒコ・サムカワヒメなどなど)。そしてもう一柱、卑弥呼も朝廷から高い神階が与えられ、厳島神社の御祭神イチキシマヒメや弁財天などとして広く祀られていますから建国の真相が分かりますよ(^◇^)

最後に、農業神の性格ですが、豊葦原の瑞穂の国を開発したのが大国主ですから分かりますね。大国主が実際に葦の大湿原を水田にしたその場所は宇佐市安心院町佐田地区だと推理しています。そうそう、そこに立派なコシキ石(いわ)がありました。(2021.1.15 赤字訂正)


大国主のイメージは三世紀後半のこの時代からすでに男性のシンボルに間違いないですよ(*ノωノ)


(注1)大国主の先代久々遅彦が旧奴国勢力の中心人物として倭国との抗争(第一次倭国大乱)で大活躍していたのですが、204年公孫氏により帯方郡が設置され、半島情勢が落ち着き、倭国は勢いを盛り返したようです。菊池の軍事拠点が倭国軍に襲撃されて先代久々遅彦が殺されたと推理しています。王を失って途方に暮れたムナカタ海人族が倭国王に懐柔され、卑弥呼を女王に共立したと考えています。ですから、大国主はその時点で十歳代の若者だったと思います。247年3月24日の日食を見た伊都国の倭国王は卑弥呼が霊力が衰えたとして殺します。ニギハヤヒ大王の直系の狗奴国王卑弥弓呼が各地の旧奴国王族を纏向に呼び寄せ、倭国追討軍を差し向けたタイミングと重なったことも卑弥呼が殺された原因だと思われます。

倭国追討軍の主将は纏向遺跡の外来土器のほぼ半数を占めるのが東海のものですので、ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王が主将、次に多いのが山陰・北陸の土器ですから、日本海沿岸を活動域にしていた縄文海人ムナカタ族の王である久々遅彦(奴国最後の王スサノヲの直系の子孫が代々襲名したと考えています)が副将として参戦したと推理しました。そして、倭国王は半島辺りに逃亡したので、倭国軍を蹴散らし、尾張王が卑弥弓呼大王を裏切って倭王に立とうとしたので、久々遅彦と争いになりました。千人ほどなくなり、結局久々遅彦が勝利してムナカタ族の姫巫女台与を女王に立てて、新たに日本海沿岸を加えた倭国を支配し、後世に大国主と呼ばれたと推理しています。

ですからその時の大国主の年齢は六十歳代でしょう。日本書紀では白髪の老人の武内宿禰として神功皇后台与を助けた設定にしています。殺された尾張王が、住吉大神の神託を疑って死んだ仲哀天皇ということです。武内宿祢が三百歳を超える老人という設定は、スサノヲの子が代々襲名したことを意味していると思われます。

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