刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

憧れの邪馬台国にたどり着くには(^_-)-☆

2021-01-23 12:11:19 | 古代史
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刮目天一 1 秒前
興味のある話題を提供していただき、ありがとうございます。大変参考になりました。
そこで、素朴な疑問ですが、邪馬台国問題が何で300年近く解決できなかったのかの理由を考えたことがありますでしょうか?

答えを先に云うと魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程記事を正しく読めば邪馬台国にたどり着くはずということが思い込みに過ぎなかったからですよ。

こちらで主張されたうp主さんの熊本説にも当てはまりますよ。素直に読むといっても先入観がありますから、不都合な記述は理由も説明せずに無視しています。例えば女王国の東に海を千里ほど渡ると別の倭人が住んでいるという記述は東側が山しかない熊本説では説明できません。
また、帯方郡から末盧国まで1万里だから残りは2千里だといっても、記事を素直に読めば不弥国から南へ水行20日で投馬国、さらに南に水行10日のあと陸行1月というのが邪馬台国までの行程ですから、これが2千里でないことは誰でもわかりますが、それに対する誰でも納得できる説明がありません。
そして、郡から水行10日陸行1月が邪馬台国までの行程だなどと素直ではない珍解釈します。
だったら何で途中の国を書く必要があるの?って素直な疑問は湧きませんか?

このように行程記事を素直に読んでも誰でもが納得できる場所には到達できないというのが邪馬台国問題が解決していない理由なのですよ。

皆さんはまず置きたい場所があって、そこに行くように恣意的に解釈し、不都合な記述は無視していたから、結局万人が納得できないのですよ。

じゃあ、なぜそういう行程記事になっているのでしょうか?

これは編纂者が政治的な意図でウソの行程記事を書いたからだというのが合理的な結論なのですよ。文献に書かれたことは考古学などで検証して初めて真偽が分かります。伊都国の場所を糸島市の三雲遺跡にしないのは考古学の成果を無視していますよ。だから、行程記事のウソについては編纂者である西晋の史官陳寿の事情と、陳寿が参照したはずの二人の魏使の報告書がこのように書かれた理由を検討すれば分かりますよ。

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