刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国は別府だったのか?!(*^▽^*)

2021-01-01 00:00:34 | 古代史
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さて、新年最初の話題は、うま酒を呑みながら邪馬台国に思いをはせて頂きたいと思い、このテーマにしました。卑弥呼は別府に居たのか?昨年の7月30日に出版された「邪馬台国は別府温泉だった!: 火山灰に封印された卑弥呼の王宮 (小学館新書) (日本語) 新書 」の紹介記事をネットで見つけました。刮目天の推理では 卑弥呼はチョット北の宇佐市安心院町の居城ですから、別府には冬宮があったのかも知れないと思っています。と言いますのも、卑弥呼の後の女王台与に因む地名「豊後豊岡」を別府の直ぐ北側の速見郡日出町で見つけてましたので、とても興味を持ちました(*^▽^*)

驚愕!邪馬台国は「別府温泉」にあった…地下には卑弥呼の王宮が眠る?
奈良でも佐賀でもなく「別府温泉」2020.8.22 酒井 正士 現代ビジネス


全国邪馬台国連絡協議会の酒井さんは自然科学を研究されていた方で、魏志倭人伝に書かれた行程記事を生データと考えて邪馬台国の位置を割り出せるはずとの発想から、従来の説を以下のように批判されています。

「江戸時代の新井白石からはじまる邪馬台国研究においては、そもそも「三国志」を編纂した陳寿は、辺境の日本のことなど正確に記述していないという思い込みや、中国の科学技術=軍事技術の過小評価から、「南は東の誤りだ」とか「当時の知識では、日本列島は方角が90度回転してとらえられていた」などと、記述を都合よく解釈したり、改変したものなど、牽強付会としか言いようのない言説が数多くあります。

とくに、邪馬台国に至るまでに使節が立ち寄る国々の「末盧国(まつろこく)」「伊都国(いとこく)」「奴国(なこく)」「不彌国(ふみこく)」について。九州上陸地である末盧国を松浦(まつうら)地方(呼子、唐津あたり)、伊都国は糸島、奴国は那の津とするなど、「地名の類似」で位置を同定し、倭人伝に記述されている「距離や方向」をないがしろにするきらいがありました。」


ですから、考古学の成果や地名の符合は無視し、あくまでも生データで考えようという主張です。著名な邪馬台国研究者で福岡県田川市の赤村の巨大前方後円墳を卑弥呼の墓とする福永晋三氏の考えと似ている感じです。そして、三国志の時代の測量技術の水準は高く、方角や距離は正確だとのご意見です 。方角測定は「周礼(しゅうらい)」という書物に書かれた「日晷(にっき)法」を用いれば、季節を問わずほぼ正確な方向を知ることができ、距離測定も「一寸千里の法」というものが知られており「1里=約77メートル」であるので、以下の図のように卑弥呼の宮室が1966年に発掘された別府市の南明荘(なんめいそう)遺跡であると推定されています。



「遺跡の上部には噴出岩と噴出礫、そして火山灰や火山礫が厚く堆積していました。楕円で囲んだ部分の面積は吉野ヶ里遺跡を優に超えるもので、この空白地帯の地下に卑弥呼の王宮が埋もれている可能性があります。」だそうです。別府市の考古学資料によれば、「別府湾の北岸の杵築・国東地方と南岸の大分・海部地方には、 古墳時代前・中期の大型の墳丘墓が多く造られてきたが、 湾奥の別府地域にはその時期の大型古墳は見られない。 この時期では別府の地に際立った首長は存在しなかったと思われる。」「べっぷの文化財」ー別府市の古墳文化 No.42 H.24.3 )とあります。邪馬台国の時代よりも50年以上後のものですが、「石垣原扇状地は、 このように弥生時代から稲作農業を主体とする集落が各地に形成され、 それが徐々に成長、 拡大していったのではないかと考えられる。」とあるので、ひょっとして卑弥呼の宮室や楼観などが火山灰の下に埋もれているのかも知れませんね(#^.^#)

そして邪馬台国が別府である根拠として、ここでは以下の二点をあげられています。

まず、古代史研究家の古田武彦氏は、万葉集の和歌「大和には郡山(むらやま)あれどとりよろふ 天の香具山登り立ち国見をすれば 国原は煙立つ立つ海原は鴎立つ立つ うまし国そ蜻蛉島(あきつしま)大和の国は」で詠まれた天の香具山は、別府の鶴見岳ではないかと述べておられます。

たしかに、実際の天の香具山は、山というより丘程度なものですし、そもそも奈良には海がありません。この歌の海原と鴎を詠んだ勇壮な景色には、家々の竈の煙より、別府温泉の全景、温泉の湯けむりをあわせたほうが似合います。
とあります。

万葉集のこの歌は舒明天皇の国見を歌ったもので、大和の天の香具山から海のカモメが見えるのはおかしいと多くの方が指摘しています。ネットでも以下のような解説を見つけました。『「海と陸によって成る"日本国"全体の映像を」大和にになわせたもの、と見ています。奈良盆地の小風景に日本国全体を幻視している、というわけです。 なるほど、そういう読み方も出来そうです。』

しかし万葉集研究家の渡辺康則さんが、「日本書紀」の歴史改ざんを大伴家持や山上憶良が暴露する目的で万葉集を編纂したと突き止めています(「聖徳太子は天皇だった」大空出版 2014)。渡辺さんによれば、用明天皇の後の日本最初の女帝推古天皇から斉明(皇極)天皇あたりまで実際に存在しないダミーの天皇なのです(前著「万葉集があばく 捏造された天皇・天智」大空出版も衝撃的でした)。つまり、舒明天皇も実在人物ではないのです。当時の人々は「日本書紀」がデタラメな歴史書だと分かっていましたから、この国見歌で「日本書紀」を風刺するためにわざとあり得ない内容の歌を家持らが創作したのだと分かります( ^)o(^ )。

次に、また、魏志倭人伝の後段には「女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種」とあり、女王国の東側には海を隔てて女王国とは別の「倭の種族が住む国」が存在したことがわかります。四国西岸の八幡浜(やわたはま)市や宇和島市は別府市から海を隔てて東に1000余里の場所にあり(図5)、別府市が邪馬台国であることの傍証となります。とあります。九州説の方の多くは筑紫平野に邪馬台国があるとしていますので、魏志倭人伝のこの記述を無視していますから、酒井さんの方が生データに忠実だと言えますね。

しかし、上の図に赤字で示した通り、「1里=約77メートル」という話にはなっていません。一里当たりが倍の距離の区間もありますし、何といっても水行1月・陸行1月は一日当たり1キロも進まない行程ですので、不合理極まりないということです。

中国ではどの時代も1歩は約1.5mで(2歩分、時代によって若干異なる)、3百歩で1里、つまり1里は約450mと定められているのです。このような短里説は魏志倭人伝の行程記述を正しいとするために、当時使われていた道里制と異なる古い考え方を持ち出したもので、こじつけだと分かります。もしも短里制度があったならどの区間も1里当たりはほぼ同じ距離にならないとおかしいでしょう!また、同じ国家の中で地域によって1里当たりの距離が異なる制度など常識で考えてもあり得ない話です。

ですから、魏志倭人伝の行程記事は政治的な理由で書かれたものだと断言できます。

帯方郡から倭国に送った二人の魏使(240年梯儁、247年張政)の報告書に基づいて西晋の史官陳寿が編纂したもので、倭国が魏のライバルの呉を海上から圧迫する位置に在る大国としたかったと分かります。帯方郡太守劉夏は当時の魏の実力者の司馬懿仲達から倭国を懐柔する命を受けて赴任してきた司馬懿の部下です。239年に倭国の大夫難升米と帯方郡で談合して、難升米の伝えた邪馬台国への行程を、後日梯儁の報告書の中で魏志倭人伝のように書き変えたと推理しています。(2020.1.5 赤字改訂)

半島や倭国を支配していた公孫氏を破った司馬懿の功績を実際以上に大きく見せるためです。司馬懿のライバルで魏の武帝曹操の一族の曹爽よりも上の立場になるためでした。曹爽の父曹真はこの時すでに病死していたのですが、曹真が明帝の時代に首都洛陽から万六千三百七十里も離れた西域の大月氏の都カーピシー(アフガニスタン・バグラーム)からバースデーバ王を朝貢させ、蜀を挟み撃ちにしました。その功績が魏の第一等の勲功でしたので、司馬懿はそれを上回るものとしたかったのです。

大月氏は10万戸の大国でしたので、邪馬台国7万戸・投馬国5万戸・奴国1万戸などと記述して倭国を大月氏以上の大国に見せ、倭国までの距離も帯方郡から万二千里、洛陽から楽浪郡まで五千里ですから、洛陽から倭国まで万七千里と書きたかったためでした。ですから、魏志倭人伝の途中の行程の記述は倭のことをほとんど知らない魏朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで書かれたものと推理できます。また、陳寿は卑弥呼に親魏倭王の金印を与える詔勅のほぼ全文を載せていますから、西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を書きたいために魏志倭人伝を書いたのだと分かります。その詔勅も明帝の後の少帝芳の補佐役になっていた司馬懿が作成したものだと推理できます。



前回の古代史の謎を推理するで述べたとおり、こういう新しい認識で邪馬台国問題を見直すと多くの謎が解けるようになります。邪馬台国への行程記事もどうやって改ざんしたのかも分かりますよ(^_-)-☆。



ついでに云うと、卑弥呼についても倭国の統治権を持った調整能力のある女王として解釈するのが通説になっているようですが、倭国に対して魏の人々の興味をそそるように女王様の支配するエキゾチックな東夷の大国としたかったということです。つまり実態は、縄文海人ムナカタ族の姫巫女が告げる太陽神の神託によって倭国王が政治を行う形態にしたということです。その名残りが同じ縄文系の琉球神道に残っているようです。

【参考記事】
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^) 上で述べた事情で行程記事から邪馬台国の位置を推定しても無数の解が得られますから決着がつきませんが、刮目天の手法で邪馬台国の位置を見つければ、行程記事の真相が分かりますよ(^_-)-☆
誤解と幻想の邪馬台国通説では纏向遺跡や吉野ヶ里遺跡のような大規模集落に卑弥呼が居たと考えられてますが、誤解ですよ(;一_一)
誤解と幻想の卑弥呼琉球神道について調べました。
誤解と幻想の神武東征(^◇^)右とか左とかイデオロギーに関係なく、神武東征を示す事実はないのですよ(*^▽^*)
誤解と幻想の古代史「魏志倭人伝」と同様に「日本書紀」を聖典のように考えている歴史家は考古学の現実を無視しています。九州勢がヤマトに侵入してヤマト王権が成立した神武東征神話は日本建国の真相を隠すためのものなのですよ。


こんな感じで、通説と違う大胆な推論ですので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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