神功皇后は架空の人物であると主張する学者・研究家は数多い。例えば、故井上光貞氏は「四世紀における朝鮮問題の焦点は、南朝鮮の弁韓地帯の確保であり、記紀に語られている新羅はまだ脇役だった。したがって、神功皇后の新羅征伐は史実ではない」と述べた。(日本の歴史I 中央公論社)高名な故津田左右吉氏も同じような意見だった。
「三王朝交替説」を唱えた故水野祐氏は、大略「仲哀天皇の王朝を応神天皇が滅ぼしたのだが、『記紀』の編纂者は天皇の系譜を万世一系のように組み立てる必要性から、仲哀と応神の間をつなぐための架空の女性が必要だった。それが神功皇后である」と主張した。
池澤注:「紀」には仲哀天皇の正妃の子(つまり正統な後継者)を神功皇后と応神天皇が殺したという記述があり、水野氏の主張と整合性がある。
安本美典氏は実在論を唱える。
もし神功皇后の新羅進出が史実に基づくものでないとすれば、神功皇后の事跡は、ほとんど架空につくられたものとなってしまう。とすれば、『古事記』『日本書紀』『風土記』の編纂者はなんの目的と必要性があって、神功皇后の物語をつくりだしたのだろうか。神功皇后の事跡を架空のものとする論者は、またしばしば『古事記』『日本書紀』は天皇の権威を高めるために述作された部分が多いと主張する。とすれば、神功皇后のような物語を作らなくても、仲哀天皇や応神天皇などが、直接朝鮮へ進出したとするほうが、はるかに天皇の権威を高めうるではないか。…やはり女性であり、皇后という特殊な立場にありながら、みずから朝鮮半島に出かけていったという史実があり、その特殊性のゆえに記憶に残りやすく、古文献の編者たちも、皇后の半島進出の事跡を書き残したと見るべきである。(「倭の五王の謎」1992年 廣済堂文庫)
上記の諸説を知った上で、井沢元彦氏は神功皇后架空説を唱える(「逆説の日本史 1 古代黎明編」小学館 1997年)。
大和朝廷の系譜において、「神」の名を与えられた人物は、神武・崇神・応神の三天皇と神功皇后のみで、それぞれ王朝の始祖と考えられる。「記紀」では応神は仲哀と神功の間に生まれた子であるがごとく装っているが、それは嘘。応神の本当の父親は「記紀」から抹殺された。神功には応神の母であったこと以外に、さしたる功績がなかったので、三韓征伐の主役だったという物語が創作された。
最後に実在説を唱える後藤幸彦氏の主張を調べてみよう。
後藤氏はその著書「神功皇后は実在した その根拠と証明」(明窓出版 2007年)において、神功皇后が実在した根拠を三つの面から説明している。
その一つは、「記紀」にある神功説話があまりにもお伽噺的で非現実的であるために、神功が架空の人物であるかのような印象を与えているが、その説話は実際にありうることだという点。
「記紀」の記述において、もっとも非現実的とされている部分は次の二か所である。
(1)「大魚の群れが船を押し上げて、進行を助けた」
当時は海中に住む動物はすべて「さかな」と呼ばれた。大魚とはイルカのことである。イルカは好奇心が強く、船を見つけるとそのまわりに寄ってきて、並んで泳いだりする。また群れる習性があり、時には何千頭という群れをつくることもある。皇后の軍船はまさにこのイルカの大群に遭遇したのである。無数のイルカが周囲を囲み、飛び跳ねる様を見て、船が進むのを魚が助けたかのように思い込んだのである。
(2)「船を乗せた波が新羅の国の半ばまで及んだ。これは天神地衹がお助けになったのである」
「国の半ば」とは、市街地の中心までという意味であろう。たまたま津波が発生し、倭の軍船はその津波に乗って、新羅の国の中心まで進むことができた。人々は、天の神・地の神が神功の軍勢を援護したと考えたのである。
第二点は各地に残っている伝承である。
神功皇后にまつわる伝承伝説はおびただしい数であり、各地に存在する。それが架空のものだったとすると、それを各地に創作させ、代々伝承させたことになるが、そんなことはありえない。
(池澤注:井沢説は後藤説よりはるか以前に発表されたとはいえ、後藤説と同じような意見は井沢説以前に存在した。井沢氏はこの指摘に対して反論していない)
第三点は天皇の即位年と崩御年の推定である。
後藤氏は、「記紀」、「三国史記」、および「宋書」における「倭の五王」に関する記述を仔細に照合して、第10代の崇神天皇から第21代の雄略天皇までの各天皇の即位と崩年を割り出したが、神功に関係する仲哀と応神の即位年と崩御年は次のようである。
14代 仲哀天皇:即位352年、崩御355年 享年26才
15代 応神天皇:即位356年(神功摂政元年)、崩御410年 享年55才
一方、倭が半島に攻め込んだのは確実で、物証が存在するのは下記の通り。
●373年(神功摂政52年)に百済は七枝刀を献上した。
●高句麗の広開土王(好太王ともいう)の碑文によれば、391年から407年まで、何度も倭が攻め込んできて交戦したとある。
池澤コメント:後藤氏の研究は、四世紀後半に(すなわち応神天皇の在位中に)大和朝廷が朝鮮半島に出兵したことを立証しているが、「記紀」にある神功による三韓征伐を史実だと立証したとは言えない。「記紀」の記述によれば、神功は仲哀天皇の死後ただちに半島に攻め入ったことになる。後藤氏の研究によれば、それは355-356年のはずであるが、半島側にはその記録がない。したがって、神功皇后の三韓征伐が史実かどうかは依然として不明である。
現存する日本最古の正史が完成した時の権力者は藤原不比等です。彼は非常に有能な人物で将来藤原氏が政権を維持できるように歴史を改ざんしました。1300年後にようやく、人気作家の関裕二さんが見破りましたが、刮目天は考古学的に検証し、不比等の意図を読み取り日本建国の真相を解明しました。
神功皇后は初代天皇(祭祀王)応神天皇の母、本当の父は仲哀天皇ではなく大国主狗古智卑狗で、奴国最後の国王スサノヲの直系の子孫です。仲哀天皇の熊襲征伐では神功皇后の傍らに居た武内宿禰のモデルです。
詳しくは「古代史の謎を推理する」をご参照ください。突然失礼しました。
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/e5f3c79c776262d1ae311988f7e58e3e
旧い投稿にご意見頂き、恐縮しています。よく勉強しておられることに敬服です。
私は、神功皇后は記紀の双方に出てきますし、中国・九州地方に神功皇后ゆかりの伝承が多数残っているので、実在したのではないかと思います。
仲哀天皇の崩御後、身重で朝鮮半島に渡りますが、実際の戦闘はほとんどなかったので、交易に近かったのではないかと思います。神功皇后は、母方の先祖が新羅人と伝わっていますので、それも関係しているかもしれません。朝鮮で無傷で財宝を得たことが、後の忍坂王との戦いで活かされたと考えられます。
後、神功紀を見てわかるのは、日本書紀の編者が中国の史書に邪馬台国の記述があることを知っていたことです。問題は、編者は、邪馬台国の実態を理解していたかですが、おそらくある程度知っていて、卑弥呼と神功皇后が別人であることもわかっていたように感じられます。
日本書紀の編者が邪馬台国関連の記事を引用しながら、邪馬台国や卑弥呼の名前の部分を伏せた理由を考える必要があると思います。
貴方は近現代史にご興味ある方と認識していました。
古代史にも興味を持ちと知り、嬉しく思います。
先に書きましたように「日本書紀」は藤原氏にとって面白くない日本建国の真相を隠し、国譲り神話や神武東征神話を創作して、藤原氏の遠祖を登場させていますが、これらは虚構です。しかしその中に史実を反映したものが隠されています。
それでは、何故ウソを書かねばならなかったかは、編纂者(当時の権力者)の意図を推理しなければならないでしょう。
神功皇后の新羅征伐は、ウソですが、後の時代の倭の五王の史実を神功皇后の事績にしたようです。倭の五王は半島での失地回復の正統性を宋にお願いした事実から、独立国家の日本建国にシナにお世話になったと明記できないからでしょう。だから、「日本書紀」の中から倭の五王の史実をごっそり削除したものと推理しました。
正史は正しい歴史だというのは思い込みですよ。
書かれてあることが事実かどうかは考古学などで科学的に検証されねばなりません。
そういう視点で、当時の権力者の意図を読み取り、仮説(的)推論(アブダクション)の手法で科学的に真相解明して日本建国の過程を明らかにしました。ご興味が湧けば刮目天のブログにどうぞ(^_-)-☆
頑固爺さん、いい話題をありがとうございました。(*^▽^*)
まさにそのことです。これは倭の五王の話と同じで、建国時代にシナにお世話になったことを書けなかったからだと理解しています。
しかし、神功皇后紀に倭人伝からの記事が4カ所も書かれています。3カ所は卑弥呼、最後は台与の時代のものですから、神功皇后はどちらかがモデルだとなぞかけして、読者を混乱させる意味ではないかと推察しています。
しかし、神功皇后の母が応神天皇であることから考えて、台与が皇后のモデルだと推理しています。応神天皇の本当の父は住吉大社の伝承から大国主狗古智卑狗(=武内宿禰)のことだと推理しました。
ご卓見に脱帽です。歴史の奥が深いことを痛感します。