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悲劇の女王台与のはなし(その2)

2020-03-15 20:02:17 | 古代史
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ところで「魏志倭人伝」は原本が現存せず、その百衲本(南宋期の版本の影印)では臺與(台与)ではなく壹與(壱与)と書かれている。同様に、邪馬台国も邪馬壹国と書かれている。それ故、九州王朝説の古田武彦氏が「『邪馬台国』はなかった」で主張しているように、「魏志倭人伝」に書かれているとおり壹與と読むべきだという説を支持する方がいる。

しかし邪馬壹国説だが、邪馬臺(台)国が正しいことは范曄の「後漢書 東夷列伝倭伝」にはっきりと書かれているし、倭人語の研究で「ヤマイチ」「ヤマイイ」というように母音が続くことは避けられていることが分かっているので、「邪馬臺(台)国」で間違いないのだ(安本美典「「倭人語」の解読」勉誠出版平成15年、p.15)

それでも後の文献に耶麻惟(やまいい)というのも見られるようなので、やはり原本からそうなっていたようだ。だとすると何故「魏志倭人伝」で陳寿が邪馬壹国と書いたのかが問題になる。

すでに邪馬台国はヤマタイコクと読まない?(*^。^*)で臺(台)の字の意味を示したように、魏臺に魏の皇帝の意味がある。陳寿の当時、東夷の女王に「臺」の字を書くのを憚り、似た文字「壹」を当てたという説が正解なのだ。だから、壹與も正しくは臺與(台与)だということになる。陳寿が「魏志倭人伝」を撰した司馬政権時代では「師」姓の人が司馬懿の長男司馬師の諱を憚って「帥」姓に変更したくらいだから、文字の使い方にはピリピリしていたことが分かる(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`))。

そして、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて遺跡が数多く在る福岡県東部の苅田町・行橋市・豊津町や大分県宇佐平野・大分平野などにかけて「豊前」・「豊後」からなる「豊(トヨ)の国」は女王台与に因むものなのだと分かる。特に豊前辺りは渡来人と呼ばれる人々が半島から移り住んだり、交流して賑わったようだ。現在でも苅田町や豊津町は京都(みやこ)郡の一部になっている。

7世紀初頭の隋煬帝の使者が大和を訪れる途中で豊前辺りに秦王国があったと報告している。秦帝国が興った陝西地方の方言が話されていたようだ(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,p.45)。岡田さんは「魏志倭人伝」の行程記事から考えて京都郡辺りに邪馬台国が在ったとしているが、刮目天は遠賀川流域も含んだ豊津町以北一帯は投馬国だと推理している。(2020.3.16 青字追加訂正)

渡来人というのは、秦の圧政から逃れてきた半島南東部の辰(秦)韓の人々と混ざって鉄を取ってシナ語(注1)を話して生活していた一から三世紀ころの倭人がメインで、一部秦韓人も伴って豊前の地に移住し、半島ともしきりに交流していたと考えている(渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ ))。

英彦山や銅などの鉱物が採れた香春岳周辺は朝鮮文化が色濃く残っていると言われるが、今の韓国人が踏襲している文化は半島南部の倭人たちの文化のことであって、主として倭人が列島に持ち込んだものなのだ。今の朝鮮語も元は倭人語の派生した言葉なのかも知れない(注2)。このころの倭人は江南出身の水田稲作・漁労の人々だけでなく列島から半島に渡り住み着いていた縄文人や列島を行き来していた縄文海人であって、一部は韓人も含む混血もあり、その後の日本(ヤマト)民族になっていく過程だと考えている。「魏志 韓伝」にも半島の南部は倭の領域だと明確に書かれている。(2020.3.17 赤字訂正)



15世紀後半に書かれた「鎮西彦山縁起」には藤原桓雄という名前の人物が登場するが、13世紀末に高麗の僧一念によって書かれた「三国遺事」の檀君神話の桓雄(かんゆう)のことだ。しかし檀君神話は恐らくアイヌと同様の熊をトーテムとするツングース系の人々のものなのだ。現代韓民族の男性でそのY染色体DNAを持つのは1割未満でしかなく、8割以上は中国大陸由来なのだ。政治色の色濃いファンタジー歴史を教えられた人たちには余りにも衝撃的で気絶するかもしれないが、最近の分子人類学から分かる事実なのだ(日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!)。

刮目天はすでに、卑弥呼の居城が野麻国(ヤマコク、宇佐市史(上巻P.324)によれば和妙類聚抄の宇佐郡野麻郷は宇佐市安心院町に比定される)にあったことも突き止めている。女王が宮室を置いたので野麻(ヤマ)国のことを邪馬臺(台)国と魏使が報告書に記載したものを陳寿が先の理由で邪馬壹国と変更したか、報告書からそうなっていたのかは分からないが、帯方郡太守劉夏と伊都国男王難升米が談合して決めた可能性もある(「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^))。

范曄が参考にした他の「後漢書」に邪馬台国と書かれていたか、あるいは范曄の頃は倭の五王の讃が朝貢していた時期だから、直接倭人から聞いた情報によって正しく邪馬台国と記載したものと考えられる。

何しろ、范曄が参照した当時の資料や「後漢書」すらその原本はその後の戦乱で散逸し、現在は誤写が結構ある写本やそれを基にしたような版本などしか残っていないようだ。だから、現代の史学者が范曄が何を根拠に記述したのか理解できないのは当然かも知れない。だが、范曄を理解できないのでウソ吐きと決めつけて排除するのは間違っている。何故ならば、范曄は狗奴国と女王國(邪馬台国)の位置関係を正しく示しているのだから(*^▽^*)。



そういうことなので、卑弥呼の後を継いだ直後の宗女台与は、247年3月24日の日食のために伊都国男王の命令で暗殺された卑弥呼の宮室三女神社を避けて、当時は葦で覆われていた安心院盆地の南側にある丘陵に宮(妻垣神社つまがけじんじゃ)を築き一時、滞在したと考えられる。

神武天皇が東征の折に立ち寄り、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメは皇軍一行を快く迎え入れ、歓待申し上げたと記紀(「古事記」「日本書紀」)に記されています妻垣神社由緒書)。

(妻垣神社ホームページより)


「日本書紀」が真の初代応神天皇の日本建国の真相を隠すために、神武天皇のヤマトへの東征神話を創作したということは、すでに述べたとおりで、ヤマト王権が起こった三世紀後半の奈良県桜井市纏向遺跡に九州からの外来土器がほとんどないことからわかる。神武天皇が創作だというのは考古学が証明している事実なのだ。住吉大社の伝承のとおり応神天皇の本当の父親である住吉大神は大国主狗古智卑狗(久々遅彦、「日本書紀」では武内宿禰とした)であり、母の台与(神功皇后のモデルと宇佐市安心院町の妻垣神社に宮を構えた史実から神武天皇を接待したウサツヒコ・ウサツヒメとして登場させたのだろう。

(注1)最初に話されていたのは陝西方言のシナ語と倭人語からなるピジン言語だと思う。
クレオール言語(クレオールげんご、英: creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の間で交易を行う際、商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供たちの世代で母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として使用されている国・地域もある。

ピジン言語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく、複雑な意思疎通が不可能なのに対し、クレオール言語の段階ではそれらの要素が発達・統一され、複雑な意思疎通が可能になる。また、クレオールはピジンと違い、完成された言語である。

また、日本語も北方系言語(アルタイ語族)と南方系言語(オーストロネシア語族)が混合したクレオール言語から変化したという説もある(日本語の起源を参照)。

(注2)1929年、金沢庄三郎は言語学に基づき『日鮮同祖論』を刊行した。
言語学における日鮮同祖論
言語学においても、日本語と朝鮮語の同一性から日鮮同祖論を説くものが出るようになり日本の朝鮮統治に利用された。例えば金沢庄三郎は『日韓両言語同系論』において「韓国の言語は、わが大日本帝国の言語と同一系統に属せるものにして、わが国語の一分派たるに過ぎざること、恰も琉球方言のわが国語におけると同様の関係にある」と述べた。

(2020.3.16 追加)人類学的に同祖ではないが、コリアンは当時の倭人文化の影響を受けて文化を作ったのは確実だ。(202.3.17 追加)

まだ続きで何を書くかあまり決めてませんがこの後もよろしくお願いします(*^▽^*)

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