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女王台与は伊都国で亡くなった!(^_-)-☆

2021-05-16 23:40:49 | 古代史
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NHK番組「諸説あり!」で考古学者高島忠平さんは邪馬台国は北部九州にあったとし、平原王墓を卑弥呼の墓だと考えておられるようですので、以下のコメントしました。

魏志倭人伝には径百余歩(直径約150m)の塚に葬られたとあるので、

あの規模の方墳(平原王墓)が卑弥呼の墓でないことは明らかです。

また平原王墓は、副葬品などから3世紀後半の女王の墓だと分かっていますので、

卑弥呼の次の台与の墓としか考えられません。

被葬者の股に日向峠から朝日が射すように埋葬されているので、

日(太陽神)の御子を生んだことを示唆していますから、

台与は、15代応神天皇を産んだ記紀神話の神功皇后のモデルとなった人物と考えられます。

応神天皇が纏向で即位した後に、母を箸墓で改葬したと推理できます。

箸墓の被葬者は大国主の妻とありますので、

応神天皇の本当の父は仲哀天皇ではなく、

大国主(真天照大神)だと分かります(伊勢神宮の外宮には豊受大神台与が祀られています)。

詳しくは刮目天のブログ「古代史を推理する」に在りますので、

よろしければどうぞ!卑弥呼の墓についても解明していますよ。


ついでですが、諸説あり!邪馬台国SP 古代ミステリー 邪馬台国は“ここにあった!”2021/04/30 YouTube の内容がかなりお粗末でした。以下のメモのとおり、明らかなウソが見られますので、よく知らない視聴者に誤解を与えてしまうはずです。多くの専門家はおかしいと気付く内容です。NHKも折角いい番組を作っておきながら、こういうデタラメな印象操作をして古代史の解明を妨害しているとしか考えられません。このような番組にしてしまって、登場した専門家の方たちも恥ずかしい思いをしていると思いますよ。

1:35 番組では日本最古の前方後円墳は箸墓だとしていますが、纏向遺跡では石塚古墳が3世紀初頭に作られたものです。纏向考古学の大家石野博信さんは別の著書で210年頃築造とされています。箸墓は3世紀末から4世紀初頭に作られたとされ、台与の墓だろうとしています。上で述べたとおり、女王台与を初代ヤマトの祭祀王(応神天皇)が纏向で改葬したものと推理しています。

4:09 夢枕獏さんが「日本に国家の一番最初の形が出来たのが何時か?と言われたら邪馬台国からであるとしか言いようがない」とちょっとヘンな発言をされていましたが、前回述べた通り最初の国家は後漢光武帝から金印を賜った奴国が日本最初の王国です。

6:02 魏志倭人伝で、邪馬台国の存在を記した唯一の文献だ!というのもデタラメです。確かに最も古い文献ですが、5世紀には范曄が後漢書 東夷列伝倭条の中で記載しています。しかも、魏志倭人伝は邪馬壹国と書かれています。12世紀ごろの誤写がかなりある写本を元にして作った版本ですから、原本ではないので、それが正しいのか、一見不明です。しかし、范曄後漢書に邪馬台国と書かれていますので、通説でも邪馬台国が正しいとしています。動画の中で中国の研究者が九州一帯はヤマと呼ばれていたのだろうとしていますが、それが正解です。臺(=女王)がいるヤマコクが邪馬台国の意味なのです。(注1)

20:06 纏向遺跡には全国から土器が集まっていた。石野さんが「東は関東とか、あるいは西は九州とかで作られた土器があり、それぞれの地域の人たちが来ている。」との内容を発言し、説明図でも北部九州系の土器があるように見られます。確かにあるのですが、九州のものと思われる土器の欠片は外来土器全体の1%にも満たないのです。

纏向最初の大王墓石塚古墳にも北部九州からほとんど誰も参列していなかったというのが事実です。

つまり、纏向遺跡は北部九州にあった倭国と対立していた国ですから、

魏志倭人伝に紹介された狗奴国と推理できます。

旧奴国の王族が集まって、

敵対する倭国とヤマトを裏切った宗像族から女王に立てられた卑弥呼を追討することになります。

詳しくは「【検証6】倭国大乱の実相は?」を参照してください。



24:56 卑弥呼の時代に朱を産出していたのは畿内だけ!とありますが、徳島県の若杉山遺跡でも弥生時代から古墳時代にかけて朱砂の製造を行っています(蒲池明弘「邪馬台国は「種の王国」だった」文芸新書、2018,p19).。番組でも列島の水銀鉱床の分布が記載されていますし、豊後風土記にも大分市の朱砂(辰砂)の産地名「丹生」が書かれています(野田 雅之「豊後国丹生の郷に古代水銀朱を追う(略報)」熊本地学会誌144 2007,pp.2-4,)。

大分県から鹿児島県にかけては九州南部鉱床群と呼ばれています。また九州西部鉱床群(長崎県・佐賀県)でも卑弥呼の時代以前から採掘がされて、シナの皇帝への主要な朝貢品になっていたことが魏志倭人伝からも分かります。また、弥生時代の甕棺の内部は朱で真っ赤に塗られていますので、畿内にだけしか産出されなかったなどと言う話ではないのです。現代ではすでに鉱山が使われていないので痕跡が残っていない場所でも、丹生や赤迫などという地名から古くから採掘されていたことが分かります。また、金やマンガンの鉱山からも採れた模様です。卑弥呼が居た安心院町三柱山の西側院内町に宇佐金山が知られています。

そして、番組に登場された和歌山県伊都郡の丹生都比売神社の宮司さんの話から考えると、丹生氏は倭国で辰砂の採鉱技術を持った集団でしょう。伊都国は弥生時代中期からシナとの対外交易センターとして機能していました。伊都郡の丹生都比売こそ、卑弥呼の後の女王台与のことだと分かります。

上で述べた台与の墓と推理した伊都国の平原王墓の割竹形木棺の内部は朱で真っ赤に塗られて、手厚く葬られていました。女王台与は大国主と共に纏向のヤマト勢に攻められて戦死したと推理しています(注2)。

上で述べたとおり、女王台与は自ら大刀を持って伊都国で奮戦し、亡くなったようです。棺桶の蓋の上に素環頭大刀一振りが置かれていました。神功皇后は斧・鉞(まさかり)で奮戦した男勝りの女傑として記紀神話で描かれていますから、その史実に基づくものと考えられます。

大国主は高良山に立て籠もって討ち死にし、祇園山古墳に葬られたと推理しています。古墳名は大国主の先祖であるスサノヲを連想する名前です。後にその子の応神天皇が初代ヤマトの祭祀王に即位し、母台与を箸墓で葬った後に、桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で改葬したと推理しています。ここの地名のトビは蛇の別称です。大国主の末裔が冨(とみ)氏です。


(注1)後の文献で魏志倭人伝の原本に邪馬壹国とあったかも知れないということを示唆する記述がみられま。少しややこしいのですが、確かに原本において、皇帝を意味する「臺(台)」の字の使用を憚って、編纂者の陳寿が「壹」としていたのだろうと范曄が判断し、そのように修正したのかも知れませんが、范曄は当時はまだ戦乱で散逸していない多くの史料を見ることが出来たし、丁度倭の五王賛が朝貢してきた時期なので、邪馬台国と書いたのかも知れません。陳寿は「臺」と書いていたのを「壹」と誰かが誤写したものがあったので、それを後の一部の文献が参照した可能性も考えられます。しかし、当時の倭人語ではヤマイイ、ヤマイチなどと母音を重ねる言葉は避けられていました。また意味的にも邪馬台国で間違いありません。

ほとんどの研究者は、范曄後漢書に魏志倭人伝と異なる内容が書かれているとして後漢書を信用していなかったのですが、魏志倭人伝こそ邪馬台国の場所を置きたい位置に置くために書かれた政治文書だったのです。邪馬台国への行程は後世の日本人のために書かれたわけではないのです。このことが分かれば、女王国に対する政治的な思惑のないと思われる後漢書の「女王国の東に渡海千余里で狗奴国に至る」を信じれば邪馬台国の位置が確定します。つまり纏向は倭国と敵対する狗奴国ですから、そこから西に約450km海を渡った宇佐に邪馬台国があったと分かるのです。

(注2)この戦いは記紀では景行天皇の九州遠征の話になっていますが、仲哀天皇の祖父である景行天皇というのはデタラメです。仲哀天皇は纏向に集まった旧奴国王族の最有力者である尾張王であると、外来土器の量から推理しました。倭国を追討するために主将としてヤマトの大王(狗奴国王卑弥弓呼)より派遣された模様です。倭国追討軍が到着する直前247年3月24日日没前に北部九州で日食があり(北九州は皆既、伊都国辺りの沿岸部で珍しい日没帯食)、不吉な現象と考えた伊都国の男王(倭国王)が卑弥呼を暗殺したと推理しました。それに気づいた卑弥呼の配下の宗像氏は押し寄せて来たヤマト勢に直ぐに恭順したので、伊都国男王はヤマト勢に蹴散らされ、半島方面に逃亡したと考えています。

そこで、尾張王が倭国王に立とうとしたので、副将として参戦していた出雲・丹波・北陸王久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久々比神社祭神久々遅命)と内戦になり、結局千人ほどが死んで尾張王も殺されたと推理しています。記紀では住吉大神の神託を疑って突然亡くなった仲哀天皇のモデルです。住吉大神は武内宿禰であり、久々遅彦がモデルです。

久々遅彦は倭国に来ていた魏使張政の進言でムナカタ族の姫巫女台与を女王に立て、魏を後ろ盾にしてヤマトと対立しました。卑弥呼が支配していた九州・四国・中国西部に日本海沿岸などを加えて列島の大半を支配したので、後世大国主と呼ばれます。多くの方は卑弥呼のことを権力のあった調整能力を持つ女王様と誤解していますが、13歳だった台与が女王に立てられた話から考えれば、卑弥呼も同様に、倭国王(伊都国男王)と宗像氏に共立されたシャーマンだと分かります。

その後、大国主の裏切りに対してヤマト勢は体勢を立て直して、大国主と台与の倭国を追討し、二人を殺して列島各地の勢力を纏めます。これが、記紀の国譲り神話の元になった史実だと推理しました。そして、複雑な経緯で殺してしまった大国主と台与、そしてヤマトに恨みを抱いて殺された卑弥呼の崇りを畏れたヤマト政権は、その後三柱を丁重に祀っています。名前はそれぞれわからないように色々な別名を使っていますが、日本誕生の史実を推理すればすべて分かります。

今回もまた、丹生都比売の正体が女王台与と判明しました。

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