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【「日本人は半島から来た」というウソ】神武東征はあった!
「日本書紀」には真実が書かれていた
2019/05/29 【WiLL増刊号 #044】@YouTube
この記事に【付録】のようなコメントをしました。日本を愛する方たち、いわゆる保守層の多くが神武東征があったと信じているようです。また、『「日本人は半島から来た」というのはウソだ』と信じているようですが、日本人のルーツは日本列島固有の縄文人と江南の呉人が混血した倭人であり、天皇家は周王朝の先王の系譜であって、日本人になるのは三世紀の日本建国の時代からというのが、科学的に分かっていることです。こんなことを発言すると反日じゃないかと言われそうですが、ウソを正さないと後々まで問題が残りますので、敢えてタブーに挑戦します。今回はまず、神武東征について検証しましょう。
「日本書紀」では甲寅年(紀元前667年)、日向国の磐余彦尊(イワレヒコ)が、塩土老翁(シオツチノオジ)から東に良い土地があると聞きヤマトに軍勢を連れて出かけ、苦難の末に橿原宮で初代神武天皇として即位する話はよく知られている。奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘から、三世紀のヤマト王権発祥の地であることが事実だと分かっているので、「古事記」やシナの歴史書「新唐書」・「宋史」にも神武天皇が書かれているから、この時期に日向から来て日本を建国した話なのだろうと多くの方が考えているようだ。

月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。(Wiki「神武東征」より)
しかし、【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)と【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆で見たように、纏向遺跡は三世紀初頭に突然登場した政治都市なのだ。水田を伴わない遺跡で、祭祀施設の大型建物の跡が発見され、外来の首長クラスの人たちが多数集まったとみられる。纏向遺跡の外来系土器に東海や山陰・北陸、近江、吉備、河内などのものが見られる。だが九州のものはほとんどない。あったとしても1%に満たないのでこの図には載らない。また当時、畿内に九州から軍勢が押し寄せて大規模な戦場となった場所も全く見つかっていない。

さらに、【検証2】前方後円墳のルーツ?で見たように、ヤマト王権のシンボルの前方後円墳も最古級は纏向石塚古墳で、210年頃の築造と推定されている。独特な形状のこの前方後円墳の属性がどの地域をルーツとするのかも分かっている。

北部九州と吉備に由来するものが最も多く、次に出雲の順だ。ここでも日向をルーツとするものは見つからない。この事実は初代天皇が日向からやって来て征服したことを完全に否定している。(2020.5.3 黒字追加)
これらの事実から、先入観を持つことなく客観的に見て、元々北部九州に居た人々が吉備や山陰地方を経由してやって来て、東国の人々と一緒にヤマト王権を作ったということが分かる。そして首長霊祭祀は吉備出身の大王が主導権を握っていたことも分かる。しかも、日本建国の重要な時期であるのに北部九州の土器がほとんどないので、その時期の北部九州とは対立関係にあったことを示している。
北部九州は「魏志倭人伝」にある伊都国・奴国という当時の大陸や半島との対外交渉の拠点が在った地域だ。邪馬台国の時代に魏に朝貢し、親魏倭王の金印などを賜ったという史実もあり、日本列島の文化的に最も進んだ地域なのだ。
【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?などで見たように、北部九州には畿内系の土器が数多く見つかっているから、畿内の人々が一方的にやってきたことを示している。北部九州と対立関係にあったヤマトの勢力が侵入して支配し、三世紀末以降には日本列島の主要部を支配したと考えられるのだ。だから、纏向のヤマトは北部九州の邪馬台国を滅ぼした狗奴国だと考えるのが自然だろう。
もしも邪馬台国が纏向に在ったとするならば、
対外交渉の拠点だった北部九州との交流の痕跡がないことを説明できない。
邪馬台国は纏向遺跡でない決定的な証拠なのだ。
さらに、【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)と【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ(*^^)vでみたように、
熊本に狗奴国が在ったという説は纏向のヤマト王権との関係を説明できないことはすでに示したから、
纏向遺跡が狗奴国で間違いない。
ということで、すでに考古学によって日本建国を解明する重要なヒントが明らかになっている。
詳しくはこちらへどうぞ(*^▽^*)
なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
【付録】
神話について相当誤解がありますよ(;一_一)
実は、日本の神話は主に712年完成と言われる古事記と
720年に完成した日本書記に基づくものですが、
古事記の方はその存在を証明する記録がなく、
序文は後世のものです。神話部分も基本的に日本書紀に倣っていますが、
真相を暴露する目的で作られた可能性があります。
(関祐二「古代史不都合な真実」実業之日本社2018年)
日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、完成前に崩御されて、
完成当時の権力者藤原不比等が自分の都合のよい歴史に改ざんし
ねつ造したことが最近の研究で明らかになってきています。
当時の編纂者らはシナの歴史書を読み、
建国当時に活躍した有力氏族の伝承を強権で集めて、
真相を隠すために神話に閉じ込めてしまいました。
そして記紀神話に合致するような神社伝承も作られ、
粉飾して訳が分からなくなっています。
それでも、たまに記紀神話に反する伝承が見られますが、
記紀神話が事実と違うことに反発する人々が残した可能性もあります。
万葉集も作られた真の目的は真相の暴露だと研究家の渡辺康則さんが
突き止めています。
平安時代くらいまでの人々は日本建国の真相を理解していたようで、
天変地異は建国当時の悲惨な死に方をした貴人の祟りだと信じて
各地で丁重に祀っていましたから分かります。
江戸時代の文化人荻生徂徠らも
皇祖神天照大御神が男性だと突き止めて
いました。
しかし、明治になって西洋列強に対抗するために記紀神話に基づく
国家神道が創設され、国民教育によって多くの国民は神話と歴史が
区別できなくなってしまいました。
神話は史実が基になっている部分があるので、
編纂者の真の目的を推理すれば
古代史の謎を解くためのヒントを与える貴重な古典文学ですよ(^◇^)
ちなみにシナの史書は通常、後代に前王朝の歴史が書かれるので割と真相が
伝えられていますが、2・3世紀の日本のことを書いた「三国志」魏志倭人伝は
同時代の人がある目的で書いた政治文書ですから、未だに邪馬台国の場所が
分からないのはその為です。編纂者の意図を正しく理解し、邪馬台国に政治的思惑の
ない范曄の後漢書を参考にすればすべての謎が解けますよ。
【参考記事】
日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)
最後までお付き合いありがとうございます(*^▽^*)
いままでの定説・通説と違うので、疑問点などあれば、遠慮なくコメントくださいね。
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【「日本人は半島から来た」というウソ】神武東征はあった!
「日本書紀」には真実が書かれていた
2019/05/29 【WiLL増刊号 #044】@YouTube
この記事に【付録】のようなコメントをしました。日本を愛する方たち、いわゆる保守層の多くが神武東征があったと信じているようです。また、『「日本人は半島から来た」というのはウソだ』と信じているようですが、日本人のルーツは日本列島固有の縄文人と江南の呉人が混血した倭人であり、天皇家は周王朝の先王の系譜であって、日本人になるのは三世紀の日本建国の時代からというのが、科学的に分かっていることです。こんなことを発言すると反日じゃないかと言われそうですが、ウソを正さないと後々まで問題が残りますので、敢えてタブーに挑戦します。今回はまず、神武東征について検証しましょう。
「日本書紀」では甲寅年(紀元前667年)、日向国の磐余彦尊(イワレヒコ)が、塩土老翁(シオツチノオジ)から東に良い土地があると聞きヤマトに軍勢を連れて出かけ、苦難の末に橿原宮で初代神武天皇として即位する話はよく知られている。奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘から、三世紀のヤマト王権発祥の地であることが事実だと分かっているので、「古事記」やシナの歴史書「新唐書」・「宋史」にも神武天皇が書かれているから、この時期に日向から来て日本を建国した話なのだろうと多くの方が考えているようだ。

月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。(Wiki「神武東征」より)
しかし、【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)と【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆で見たように、纏向遺跡は三世紀初頭に突然登場した政治都市なのだ。水田を伴わない遺跡で、祭祀施設の大型建物の跡が発見され、外来の首長クラスの人たちが多数集まったとみられる。纏向遺跡の外来系土器に東海や山陰・北陸、近江、吉備、河内などのものが見られる。だが九州のものはほとんどない。あったとしても1%に満たないのでこの図には載らない。また当時、畿内に九州から軍勢が押し寄せて大規模な戦場となった場所も全く見つかっていない。

さらに、【検証2】前方後円墳のルーツ?で見たように、ヤマト王権のシンボルの前方後円墳も最古級は纏向石塚古墳で、210年頃の築造と推定されている。独特な形状のこの前方後円墳の属性がどの地域をルーツとするのかも分かっている。

北部九州と吉備に由来するものが最も多く、次に出雲の順だ。ここでも日向をルーツとするものは見つからない。この事実は初代天皇が日向からやって来て征服したことを完全に否定している。(2020.5.3 黒字追加)
これらの事実から、先入観を持つことなく客観的に見て、元々北部九州に居た人々が吉備や山陰地方を経由してやって来て、東国の人々と一緒にヤマト王権を作ったということが分かる。そして首長霊祭祀は吉備出身の大王が主導権を握っていたことも分かる。しかも、日本建国の重要な時期であるのに北部九州の土器がほとんどないので、その時期の北部九州とは対立関係にあったことを示している。
北部九州は「魏志倭人伝」にある伊都国・奴国という当時の大陸や半島との対外交渉の拠点が在った地域だ。邪馬台国の時代に魏に朝貢し、親魏倭王の金印などを賜ったという史実もあり、日本列島の文化的に最も進んだ地域なのだ。
【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?などで見たように、北部九州には畿内系の土器が数多く見つかっているから、畿内の人々が一方的にやってきたことを示している。北部九州と対立関係にあったヤマトの勢力が侵入して支配し、三世紀末以降には日本列島の主要部を支配したと考えられるのだ。だから、纏向のヤマトは北部九州の邪馬台国を滅ぼした狗奴国だと考えるのが自然だろう。
もしも邪馬台国が纏向に在ったとするならば、
対外交渉の拠点だった北部九州との交流の痕跡がないことを説明できない。
邪馬台国は纏向遺跡でない決定的な証拠なのだ。
さらに、【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)と【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ(*^^)vでみたように、
熊本に狗奴国が在ったという説は纏向のヤマト王権との関係を説明できないことはすでに示したから、
纏向遺跡が狗奴国で間違いない。
ということで、すでに考古学によって日本建国を解明する重要なヒントが明らかになっている。
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なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
【付録】
神話について相当誤解がありますよ(;一_一)
実は、日本の神話は主に712年完成と言われる古事記と
720年に完成した日本書記に基づくものですが、
古事記の方はその存在を証明する記録がなく、
序文は後世のものです。神話部分も基本的に日本書紀に倣っていますが、
真相を暴露する目的で作られた可能性があります。
(関祐二「古代史不都合な真実」実業之日本社2018年)
日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、完成前に崩御されて、
完成当時の権力者藤原不比等が自分の都合のよい歴史に改ざんし
ねつ造したことが最近の研究で明らかになってきています。
当時の編纂者らはシナの歴史書を読み、
建国当時に活躍した有力氏族の伝承を強権で集めて、
真相を隠すために神話に閉じ込めてしまいました。
そして記紀神話に合致するような神社伝承も作られ、
粉飾して訳が分からなくなっています。
それでも、たまに記紀神話に反する伝承が見られますが、
記紀神話が事実と違うことに反発する人々が残した可能性もあります。
万葉集も作られた真の目的は真相の暴露だと研究家の渡辺康則さんが
突き止めています。
平安時代くらいまでの人々は日本建国の真相を理解していたようで、
天変地異は建国当時の悲惨な死に方をした貴人の祟りだと信じて
各地で丁重に祀っていましたから分かります。
江戸時代の文化人荻生徂徠らも
皇祖神天照大御神が男性だと突き止めて
いました。
しかし、明治になって西洋列強に対抗するために記紀神話に基づく
国家神道が創設され、国民教育によって多くの国民は神話と歴史が
区別できなくなってしまいました。
神話は史実が基になっている部分があるので、
編纂者の真の目的を推理すれば
古代史の謎を解くためのヒントを与える貴重な古典文学ですよ(^◇^)
ちなみにシナの史書は通常、後代に前王朝の歴史が書かれるので割と真相が
伝えられていますが、2・3世紀の日本のことを書いた「三国志」魏志倭人伝は
同時代の人がある目的で書いた政治文書ですから、未だに邪馬台国の場所が
分からないのはその為です。編纂者の意図を正しく理解し、邪馬台国に政治的思惑の
ない范曄の後漢書を参考にすればすべての謎が解けますよ。
【参考記事】
日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)
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