刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

やっぱり狗奴国は旧奴国で間違いない(*^▽^*)

2020-05-30 23:54:00 | 古代史
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前回のブログで、
奴国王はヘビをナーガと呼んで神と仰いでいた江南出身の倭(呉)人の王です。倭国の最初の王が紀元前4世紀に半島南部から福岡市早良平野の吉武高木遺跡に遷った天御中主(アメノミナカヌシ)です。「天」は海の意味ですからウミヘビ=奴(=ナーガ)を神とする国の御主人様=王という名前でした。呉王夫差の流れを汲む皇室の始祖王です。つまり倭人は周の先王古公亶父(ここうたんぽ)の長男太伯の後という「魏略」の伝承は正しかったということです。
と書きましたが、それでは何故、陳寿が「魏志倭人伝」にそのことを書かなかったのかを考えてみます( ^)o(^ )



帯方郡から邪馬台国に至る行程記事は前にも述べたとおり、置きたい位置に置くためのつじつま合わせのデタラメです。なぜそんないい加減なことをするのかについても、その記事が誕生する様子もすでに述べましたが、もう一度かいつまんで述べます。

卑弥呼が最初に使者として魏に送った倭国大夫難升米(なしめ)が司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏のもとに出かけたのが景初三年六月です(注1)。劉夏が難升米から聞き出した倭国の状況から、太陽神の神託を告げる姫巫女の卑弥呼を女王ということにし、倭国を魏のライバルの呉の東方海上に在る女王様が支配する遠い大国ということにしました。実際に卑弥呼の居城のある野麻(ヤマ)国(注2)への行程を書き替えて、倭について全く知らない魏の朝廷の人々が理解できる程度のつじつま合わせで作った行程記事を最初の魏使梯儁(ていしゅん)の報告書に載せたので、陳寿はその報告書をもとに「魏志倭人伝」に書き残したものだと推理しました(詳細は「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)をご覧ください)。卑弥呼を女王としたので、女王が住むヤマ国ということで安心院町の居城及び周辺領域を邪馬台国と劉夏が命名したのでしょう。

司馬懿が遼東太守公孫氏を滅ぼした功績があったので、魏の明帝は司馬懿を頼りにして後継者の曹芳の守り役(大傳)を任せました。さらに倭国を手なずけて呉を挟み撃ちにしたことを魏の最大の功績だとしたので、司馬懿一族が実権を握り、その孫の司馬炎が帝位を上手に奪うことができたわけです。ですから西晋の史官陳寿は「魏志倭人伝」で司馬懿の功績を最大限持ち上げるために「三国志」を編纂したということなのです。

そうなると「魏略」に書かれた「倭人は呉の太伯の後」という伝承を載せると、後漢から金印を賜った倭国がもとは春秋時代の呉王族だったということになり、司馬懿の功績とは関係のない奴国王族の話もしなければならなくなり、卑弥呼が女王としての正統性も疑われることにもなるので、その伝承を意図的に伏せたと推理できます。(注3)

その為に女王国とはもとより和せずとした旧奴国の勢力を狗奴国と呼んだようです。恐らく後ろ盾を魏とすることに成功した難升米が、旧奴国の勢力を女王国に逆らう狗コロの奴国の奴らだと貶める名称にしたのでしょう。その時代の伊都国から硯(すずり)の破片も見つかっていますし、福岡県で木簡や竹簡を入れる漆塗りの筒や組み合わせ机なども出土しています。さらに当時から漢字が使われていた決定的な証拠があります。すでに【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆で説明したとおり延光四年(西暦125年)と彫られた銅板が発見されていましたので、その内容から考えても当時の倭国の王・大夫などが漢字を使っていたのは明らかです。


そこにも書きましたが、「魏志倭人伝」では伊都国と言う国名だけ「孟子」に記された殷(商)の有名な宰相の伊尹に因む素晴らしい意味があります。その他の国名や人物名の多くはいわゆる「卑字」が使われていますが、難升米が魏使梯儁に意図的に書いて教えたと考えていいでしょう。難升米も当時の中原で使われた言葉を話せたので「旧」を「狗」と書き替えたものではないでしょうか。



狗奴国の「狗」と旧奴国の「旧」の発音をWeblio翻訳で調べてみました。

現代の台湾で使われる客家(かっか、はっか)語(注4)では以下のように発音し、両者はかなり近い音のようです。「旧(きゅう)」の発音はほとんど日本語の音です。

「狗」 : kiéu (福建: 廈門, 漳州, 臺灣話: kó͘)

「旧」 : khiu (福建: kū / kiū)

「客家」はWikiに原則漢民族であり、そのルーツを辿ると古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多い。歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。移住先では先住者から見て“よそ者”であるため、客家と呼ばれ、先住者との軋轢も多かった。この争いを土客械闘という。
中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類され、最初が秦の時代辺りから江西地帯への入植、第2段階が西晋の八王の乱から永嘉の乱にかけて黄河流域の中原や華北の北方住人が長江以南に避難。
とあります。

孫栄健さんが指摘したとおり、魏から正規軍の旗「黄幢」を与えられた倭国の軍事を預かる難升米は、倭国王師升の子孫と考えています。つまり伊都国の男王で女王を補佐する男弟とした倭国王ということです。


実際は、沖ノ島経由で旧奴国王族に半島南部の鉄素材を供給していたムナカタ海人族を懐柔し、卑弥呼が告げる神託によって政治を行う形態にしたということです。倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)で述べたように師升はその名前から奴国の宮廷楽師だったと思われます。方士徐福が日本に連れてきたシナ人たちの子孫でしょう。

師升と難升米の「升」の一字が一致します。「倭」を金印では「委」と書いたように「難」は「儺」のニンベンを省略したものです。「儺」は「な」と読みますが、「追儺」という用語はWikiによれば以下のようです。
大晦日(旧暦12月30日)に行われる宮中における年中行事。鬼(疫鬼や疫神)を払う儀式[1]、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。儺(だ、な)[2]あるいは大儺(たいだ、たいな)、駆儺。鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、儺祭(なのまつり)、儺遣(なやらい)とも呼ばれる。

記紀神話で高天原から暴れん坊の神スサノヲを追放した事件を「神逐(かんやらい)」といいますが、師升が奴国王スサノヲを殺し、王族を追放した故事に因んで「儺」または「儺升」を伊都国に宮殿を置く倭国王の姓としたのではないかと推理できます。

そこで、歴史的に、シナ人は個人に特有の名として姓(氏)と諱(名、いみな)と字(あざな)の三つの要素を持つようですので、姓が「儺」であるならば、「升」は諱(いみな)で「米(め)」が字(あざな)でしょうか。例えば、諸葛孔明(諱は亮)、司馬仲達(諱は懿)のように諸葛亮孔明、司馬懿仲達と言われます。

「儺升」が姓であれば、「米」が字か諱でしょう。どちらが本当なのかは今のところ分かりませんが(*^▽^*)

ということで、そのうちに室見川銘板のような文字が書かれた木簡などの記録が発見されるかもしれませんね。生きているうちに証拠を見つけてほしいものです。卑弥呼の金印は、それを管理していた倭国王難升米が持って半島に逃げた可能性が高いですから、帯方郡址(平壌の南50km付近)で見つかれば推理どおりということでしょう(*^^)v

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



(注1)「魏志倭人伝」は原本がすでに現存せず、十二世紀ごろの版本には景初二年(238年)と書かれています。通説どおり景初三年でないとその六月ではまだ公孫氏と司馬懿が戦闘中です。「魏志 韓伝」にあるように明帝が密かに楽浪・帯方二郡の太守として派遣した人物が半島を平定したとしても、難升米が面会した帯方郡太守は劉夏ですから、明帝が派遣した人物とは異なります。明かに景初二年ではなく景初三年の誤写です。明帝が景初三年一月に崩御し、司馬懿が次の少帝芳の守り役となり実権を握った後に帯方郡太守として派遣したのが劉夏です。魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔勅は、倭国を懐柔したことを魏の第一等の功績としたい司馬懿自身でないと、たかが東夷の女王にあれ程まで絶賛した詔勅は書かれないでしょう。当時の状況を考えると通説どおり景初三年(239年)で間違いないと思います。

(注2)和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)にある宇佐郡野麻郷が卑弥呼の居城があった宇佐市安心院町に比定されているので、卑弥呼の当時はヤマコクと呼ばれていたようです。卑弥呼は戦乱期に、ムナカタ海人族の根拠地不弥(ウミ)国から安全なヤマ国に疎開していました。後の時代には駅館川や山国川の上流の景勝地を耶馬渓と呼んでいます。卑弥呼の居城の南側の盆地を挟んで龍王山がありますが、その南側に全耶馬渓随一の大岩柱「仙の岩 」があります。

(注3)代わりに倭国の位置が会稽郡東冶県の東方海上にあるとするので、習俗を越人に近いものと考え、越王の祖である夏王朝の少康の庶子が会稽の王に封じられた伝承を載せ、倭国の物産も海南島のものと同じと書いたのでしょう。大国主狗古智卑狗は二人目の魏使張政の進言で13歳の台与を卑弥呼の次の女王にしましたが、大国主の部下たちの中に出雲の越人の習俗を持った人たちが居たので、張政が倭国の風俗として描いたのかも知れませんね(^_-)-☆(2020.5.31 青字追加)

(注4)台湾の苗栗県(びょうりつ けん)・台湾南部の客家の里. 高雄市美濃区などでの発音です。
卑弥呼の時代の中原では現代の客家語が話されていたのではないかも知れませんので、上古音(古い時代の発音)を調べる必要があるのかも知れませんね(*^▽^*)(2020.5.31 青字追加)



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