交野市立第3中学校 卒業生のブログ

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明治憲法の生みの親

2013-01-12 23:28:32 | 建て直し

◆日本の国柄を明文化した自主憲法の生みの親
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  19世紀、アジアでただひとつの近代国家を作りあげ、
 日本の指導者の1人として、
 19年の歳月をかけて、
 日本の国体を明文化した自主憲法を作った
 初代総理大臣・伊藤博文の話をご紹介します。

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「近代国家日本建設の父」 
 伊藤博文(1841~1909年)


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◎明治憲法の生みの親
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 伊藤博文は、アヘン戦争の翌年の天保12(1841)年、
 周防国束荷村(現・山口県光市)で農民の子として生まれ、
 幼名を林利助(りすけ)といいました。
 父が足軽であった伊藤家の養子となったので、
 13歳の頃、伊藤利助となりました。

 吉田松陰(しょういん)の松下村塾に学び、
 多くの優れた先輩や友と巡り会いました。
 利助はのちに「俊輔(しゅんすけ)」「博文」と
 名前を改めていきますが、
 これらの名は彼が兄のように慕っていた
 高杉晋作が付けてくれたものです。

 博文は、27歳で兵庫県知事に就任して以来、
 政治家としての力量を存分に発揮し、
 やがて内閣総理大臣(4度)、
 枢密院(すうみついん)議長などの高い地位に就き、
 明治政府のリーダーとして近代国家建設に全身全霊を捧げました。

 博文が成し遂げた数々の偉大な業績の中でも
 特筆すべきものが、憲法の制定です。
 できたばかりの明治政府にとって、
 近代憲法の制定と国会の開設は重要な課題でした。
 当時、憲法など諸法典が整っていない国は、
 欧米から一人前の近代国家として扱われなかったのです。

 明治4(1871)年、アメリカに派遣された岩倉使節団が
 不平等条約の改正交渉を断念せざるを得なかったのも、
 このような理由のためでした。
 一方、国内でも国会開設を求める国民の声は
 しだいに高まってきていました。

 明治15年、博文は憲法調査のためヨーロッパに派遣されます。
 ドイツのグナイスト、オーストリアのシュタインらの
 高名な学者に直接教えを受けるなどして、
 1年半にわたり各国の憲法事情を調査しましたが
 憲法は、外国の憲法をそのまままねして
 作成できるほど安易なものではありません。

 諸国の憲法や政治体制は、
 それぞれの国の歴史の中から生まれて来たもので、
 外国の憲法をそのまま日本に当てはめてもうまくいかず、
 議会の開設に備えて、
 国内制度の整備や国民に対する啓蒙も必要になるなど、
 憲法制定までに乗り越えなくてはならない困難な問題が
 山積していることを再認識したのでした。


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◎大激論の草案づくり
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 憲法草案は、総理大臣伊藤博文を中心に、
 若手の井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、
 金子堅太郎(けんたろう)の3人が加わって作成されました。
 時には神奈川県横須賀沖の夏島にカンヅメとなって没頭しました。
 4人がそろうと議論を始め、昼食も食べずに晩まで続けることもあり、
 夜もおおむね12時頃まで議論を戦わせました。
 
 博文の案が激しい攻撃を受けることもあり、
 そんなとき博文は、
「伊東の三百代言(だいげん)<いい加減なことをいうやつ>め!」、
「井上、おまえは腐儒(ふじゅ)<くさった学者>だ!」と
 大きな声で叱ることもたびたびありました。
 ところが翌朝になると、
昨日の問題は、まあ、君たちの言い分を認めよう」と、
 あっさり折れたそうです。

 飾り気のない無邪気な博文の人柄がうかがえるとともに、
 4人が身分の違いを超えて、より良い憲法を目指して
 激しく議論に打ち込んでいた様子が伝わってきます

 草案作成で最も苦心したのは、
 憲法に日本の歴史や文化伝統を
 どのように取り入れるかということでした。
 欧米の憲法に基づく議会政治は、
 それぞれの国の伝統や歴史が背景にあり、
 キリスト教がそれを支える土台となっていることを
 博文はヨーロッパでの憲法調査を通じて学んでいました。
 そこで博文は、天皇が国民の精神的支柱と仰がれてきた
 わが国の伝統を踏まえて、
 皇室を憲法の土台にすえて草案を作成することにしたのです。

 練りに練って作成された憲法草案は、
 明治天皇ご臨席のもとで開かれた枢密院で議論され、
 ついに明治22年2月11日、大日本帝国憲法として公布されます。
 翌23年には衆議院議員選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれました。
 こうして欧米以外の国では無理だと思われていた
 立憲政治(憲法に基づく議会政治)がアジアで初めてスタートしたのです。

 第2次世界大戦後、
 アジアやアフリカ諸国が次々に独立して民主的憲法を持ちましたが、
 多くの国がうまく運用できず、
 独裁国家に逆戻りしたことを考えれば、
 明治憲法と議会が1度も停止されることなく、
 立憲政治が続いたことは高く評価できるのではないでしょうか。

 その土台を築いたのが伊藤博文だったのです。


【偉人をしのぶ言葉】
(亡くなる7年ほど前、伊藤博文が大磯でつくった漢詩)

 酔中天地濶 酔中(すいちゅう)天地闊(ひろ)し
 世事且相忘 世事しばらく相(あい)忘る
 不問滄浪水 滄浪(そうろう)水(すい)を問わず
 功名夢一場 功名は夢一場 

(現代語訳――酒に酔えば、天地は広々と感じられて、
 世の中の煩(わずら)わしいことをしばらく忘れる。
 行手が青くきれいな水かどうかは問うまい。
 現世の功名は夢の一場面に過ぎないのだから)



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