交野市立第3中学校 卒業生のブログ

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まぼろしの邪馬台国

2012-01-02 22:57:12 | 歴史

 詩人・北原白秋に夢中になった彼は、「何としても文学をやる!」と、

父親に早稲田大学文学部進学を願いでる。

この早稲田で、康平を運命の出会いが待っていた。

横光利一の小説「日輪」。邪馬台国と卑弥呼の世界を描いた小説に

康平は心奪われたのである。

 太平洋戦争開戦前年の昭和15年、早稲田大学を卒業した康平は、

脚本家見習として、東宝に入社。夢に向かい、走り始めた矢先…、

一通の電報が康平の元に届いた。

 跡継ぎの兄、急死の知らせ…。

父の後を継ぐべく、久しぶりに故郷に帰った康平を待っていたのは!

長崎原爆投下!!

康平自身は難を逃れたものの、原爆が引き起こした地獄絵図をその目に刻み、

呆然と立ちつくす康平がいた…。

 終戦後、父もこの世を去り、受け継いだ土木会社は倒産。

その中で、悲劇はジリジリと康平に取り憑こうとしていた。

 昭和25年3月。唯一手元に残った島原鉄道の取締役として、

駅の見回りをしていた康平。その時、異変は起こった。

目の前が薄ぼんやりとして、ものの形がわからない…。

徐々に失われていた視界がついに暗闇に閉ざされたのである。

病院に駆け込んだ康平の目に光が戻ることはなかった。

 33にして光を失った康平はつぶやいている。

 「なぜ自分だけが失明の宿命を負わされなければならないのか、

暗闇の招待状を受け取った私は、世を恨み、

身の不遇をかこちながら明け暮れていた。」

 その時、康平にある想いが沸き上がった。

目が見えるときと同じように生きようとするからつらいのではないか?

自分は目の見える世界に執着し、

目の見えないと言う事実に立ち向ってはいなかった…。彼は言う。

 「失明した今になって、様々な物事が心の眼で見えてきた。」

 すべてを受け入れたとき、なぜか康平の心は澄み渡っていた。

 そして失明から7年がたった昭和32年、

康平に欠かすことが出来ない人との出会いが待っていた。妻となる和子…

 白い杖を手に、島原鉄道の役員として復員した康平。

運命は再び彼に大きな転機を用意していた。

結婚から2ヶ月、島原地方を襲ったのはかつてない集中豪雨だった。

島原鉄道は営業区間の半分40キロ区間をメチャクチャにされ、

線路の切れたところが180カ所、45の鉄橋は跡形もなく流されてしまったのである。

復興工事の責任者となり、白い杖を片手に現場を回り、

持ち前のバイタリティを発揮し始める康平。

そんなある日、現場で一休みしていた彼に、部下がふとこう声をかける。

 「こんな土器の破片が川の中にたくさんありますよ。」

崩れた土砂の中から出てきたのは、土器のかけら。

その土器を指先でまさぐった康平に、その瞬間、血の沸き立っような想いが走る!

 「邪馬台国」…。もしかしたら、この場所が邪馬台国かもしれない…。

まぼろしの邪馬台国をこの手で探してみたいものだ…。

 白い杖をつきながらの邪馬台国探し。そのハンデは康平に数々襲いかかった。

まず、「魏志倭人伝」を読もうにも当時、点字本があるわけはない…。

その時、彼の目となったのは、妻の和子だった。

 九州から朝鮮半島まで調査を続けた15年間。

生活は苦しかった。家財道具も売り払い、

ついには借金生活に落ち込んだという。

 そして…。邪馬台国を探した日々の中で、

ついには康平は、結論にたどり着く。長崎・島原こそが、邪馬台国だ…。

コツコツと調べ上げた調査結果を妻の口述筆記で、一行一行刻んでいく。

 昭和42年、ついには処女作「まぼろしの邪馬台国」は完成した。

そして…。発売と同時に、本は大ベストセラーとなり、

日本中に邪馬台国ブームを巻き起こすことになるのである。

 そしてこの夫婦で作り上げた結晶のような本は、第1回吉川英治文学賞に輝く。

授賞式で贈られたのは、夫婦連名で書かれた賞状だった。

それはまさに、二人に贈られたものに、他ならなかった。

 昭和55年3月、突然倒れた康平は、そのまま帰らぬ人となった。

享年62。最後の瞬間まで、古代のロマンに無限の夢を馳せながら…。

 生前、康平は色紙にこんな言葉をよく書いたという。

「矢が飛ぶのは、弓の力。男の業は女の力…。」

http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/010701.html



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