15期生の川田です。
先日、育成塾の補講で「執筆」について鴨志田先生からレクチャーをいただきました。
「書く」ということについては、仕事を通じて身につけて来た程度ですが、これまでは特段不自由はありませんでしたが、今回のレクチャーは包括的で気づきが満載の学びでした。これが「稼ぐプロコン育成塾」の伝統なのだなー、これからも学び続けることは多いなー、と改めて実感しました。
さて、
最近、海外の方々とお仕事でやりとりする機会が増えていますが、そのやりとりの中で感じるのが、海外の方々は大人になっても勉強の意欲が衰えないなあ、ということです。
私はというと、「コンサルタントとして仕事をしよう」、と意識してから必要に迫られて勉強をするようになりましたが、それまでは大学卒業以降は職場の仕事をするので日常が精いっぱい、仕事に関係のない勉強はさっぱりでした。…おはずかしながら。
欧米では地域のコミュニティセンターやカレッジを中心に学ぶ環境が充実していて、学位をとらずとも人生の中で学び続けるということが定着化しています。10年ほど前に日本政府が欧米を模倣して普及を目指した「生涯学習」という概念かもしれません。健康寿命が長くなり、その人生をより充実したものにするために、という施策でしたが、地域の自治体担当者に聞くとなかなか目指すとおりには行っていないようです。日本では、勉強というのは学校で学ぶもの、つまり「勉強は高校や大学まで」という意識が強いためらしいのです。
海外の格言に、
It is never too late to learn (学ぶのに遅すぎることはない)
というのがあり、よくこの言葉を耳にします。
いくつになっても学び続ける人が多いです。たとえ仕事に直接役立つことがなくても、高齢になっても。
高齢になってから始めた勉強が興じて博士号を取得した(あるいは目指している)という方も多いです。感心します(^^)
先日、こんな話に触れました・・・ある「盲目」の家臣と王様の話です。
とある国の王が、盲目の家臣にたずねた。
「余はもう七十歳じゃ。学びたいと思うが、もうとっくに日は暮てしまったのでは、という気がする」。
盲目の家臣は「日が暮れたのなら、どうして灯火(ともしび)をおつけにならぬのですか。おつけください」と言った。
王は、「これ、家臣のくせに主君をからかうという法があるか「日が暮れた」というのは、老いたことを喩(たと)えて言ったまでじゃ」とたしなめた。
すると盲目の家臣は言った「家臣が、殿をからかうわけがございません。私はこう聞いております。「若いときに勉強を好むと、いろいろなものごとが、日の出のように明るく見えてくる。中年で勉強を好むと、昼間のように見えてくる。老年で勉強を好むと、夕闇のなかの灯火のように見えてくる」と。
さて、暗い夕暮れの道を歩くとき、灯火の明るさがあるのと、ないのとでは、どちらがよいでしょうか」
王は「うむ、なるほど、夕暮れにも灯火の明るさは必要じゃのう」と言った。
そして王はふとこう言った「ところでお前には灯火はいらぬようじゃ。もう十分に賢く、そもそも灯火があっても、お前は目が見えぬものな」
すると盲目の家臣は「とんでもございません、 わたしには見えなくても灯火があれば、みなが私の姿を認めることができます。すると人とぶつかることもなくなり、道を譲ってくれたり、一緒に歩いてくれたり、道を行くのがより楽にそして楽しくなります」
いつになっても学習は役立つもの。
そんな気づきをくれる話しでした。
コンサルタントとして独立して、育成塾で勉強して、勉強がますます楽しくなっているこの頃です。
クライアントのため、そして自身の人生を充実させるために。
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