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荘子:斉物論第二(22) 辯也者、有不見也(弁ずるとは、見さざること有るなり)

2008年12月12日 01時14分23秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(22)

 六 合 之 外 。 聖 人 存 而 不 論 。 六 合 之 ? 。聖 人 論 而 不 議 。 春 秋 經 世 。 先 王 之 志 。 聖 人 議 而 不 辯 。 故 分 也 者 。 有 不 分 也 。 辯 也 者 。 有 不 辯 也 。 曰 何 也 。 聖 人 懷 之 。 ? 人 辯 之 以 相 示 也 。 故 曰 。 辯 也 者 。 有 不 見 也 。


 六合(リクゴウ・せかい)の外は聖人は存(あ)りとするも論ぜず、六合の内は聖人は論ずるも議せず。春秋は世を経(おさ)めし先王の(シ)なるが、聖人は議するも弁ぜず。故に分かつとは分かたざること有るなり。弁ずるとは、弁ぜざること有るなり。曰わく、何ぞや。聖人は之を懐(いだ)き、衆人は之を弁じて以て相い示すなり。故に曰わく、「弁ずるとは、見(しめ)さざること有るなり」と。

 ところで、聖人すなわち絶対者は、心知の分別を放下して絶対の一に逍遙する存在であるから、この宇宙を超絶する神秘な世界に関しては、たといその神秘が存在するとしても、その存在するに任せ、それについて論を立てることはしない。この宇宙の中の出来事に関しては、普遍的な問題は論議するが、細かい問題は詮索しない。また、『春秋』という書物は、世を治めた昔の王者の歴史的記録であるが、聖人はそのなかに記された具体的な事実は細かく論議するが、その事実に対する独断的な価値づけは行わないのである。

 (しかるに、世俗の人間は、自己の分別を絶対のものであるかのごとく錯覚して、何かといえば直ぐに安易な価値批判を喚(わめ)きたてるが、それは、彼らの分別と称するものが、真の分別でないことに気づかないからである)

 真の分別とは、分別することのない分別である。分別することのない分別とは何か。それは一切の差別と対立を、差別と対立のまま自己のふところに抱きとる智恵にほかならない。すなわち、「聖人は懐(いだ)く」のである。

 これに反して、衆人は自己の分別をこれ見よがしに振りまわす。

 だから、「いかに細かく分析して論じようとも、他人に真理をあますところなく示すことは不可能である」というのである。 

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六合(リクゴウ)
 「成云。六合。天地四方」(荘子集解)
 天地四方(東・西・南・北・上・下)。すなわち宇宙。


春秋(シュンジュウ)
 必ずしも、孔子の編纂した『春秋』とみなくともよい。荘子の当時に伝えられていた古い歴史書の名であろう。(福永光司)
 当時は各国にそれぞれ『春秋』の書があった。

志(字形)

(シ)
 書き留めた記録。
 止(とまる)に当てた用法。
 <同義語> ⇒ 誌。「芸文志(ゲイモンシ・書籍の目録)」