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荘子:斉物論第二(28) 齧缺曰:「子不知利害,則至人固不知利害乎?」 王倪曰:「至人神矣!大澤焚而不能熱,河漢冱而不能寒,疾雷破山、飄風振海而不能驚。若然者,乘雲氣,騎日月,而游乎四海之外,死生無變於己,而況利害之端乎!」 |
齧缺曰わく「子は利害を知らず。則ち至人は固(もと)より利害を知らざるか」と。
王倪曰わく「至人は神(シン)なり。大澤(ダイタク)焚(や)くるも熱する能(あた)わず、河漢(カカン)冱(こお)るも寒(こご)えしむる能わず。疾雷(シツライ)の山を破り、飄風(ヒョウフウ・つむじかぜ)の海を振(うごか)せども驚かしむる能わず。然(か)くの若(ごと)き者は雲気に乗じ、日月に騎(またが)りて、四海の外に遊び、死生も己れを変(か)うること無し。而(しか)るを況(いわ)んや利害の端(タン)をや」と。
齧缺(ゲッケツ)はさらにたずねた。
「先生は人間の価値判断など相対的なもので、何が本当の利であり、何が本当の害であるかなど、とても見きわめることはできないとおっしゃいましたが、だとすると、あの至人(シジン)すなわち絶対者もまた、利害得失など全く念頭にもないのでしょうか」
すると、王倪(オウゲイ)は答えた。
「絶対者とは、一切の人間的なるものを超克した霊妙な存在だ。大きな沢が焚(や)け焦(こが)れるほどの熱さ、黄河や漢江という大きな河が凍りつくほどの寒さにも平気であり、激しい雷が山をうちくだき、飄風(つむじかぜ)が海をゆすぶり返すほどの天変地異にもびくともしない。このような絶対者は、高く世俗を飛翔して大空の雲や霧に乗り、日月に跨(また)がって、宇宙の外に逍遙するのである。彼にとっては、死もまた生と斉(ひと)しく、すべての人間が最も恐れ悲しむ死生の変化でさえ、その心を乱すことはできない。まして区々たる利害得失の分かれ目など、初めから念頭にもないのである」
※飄
諸本には「飄」の字はないが、『闕語』に従って補ったもの。
上の「疾雷」との対照からも、それがよい。(奚?の説)