ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第50回目(神辺~高屋)

2016-05-22 | 日記

山陽道(西国)第50回目(神辺~高屋)

2016.3.21(月曜日)晴れ

今回は2日間かけて神辺~早雲の里まで歩くつもり。とりあえず今日は神辺から井原鉄道「子守唄の里高屋」駅までの予定。電車を乗り継いで10時40分に神辺駅に到着。駅から真正面に見える山が神辺城跡のある黄葉山と思われる。駅前の 信号機の下にある案内板「神辺本陣・廉塾」を見て左折すると山陽道だ。道幅が狭い割に車が多く、少し身の危険を感じる。

          

                    神辺駅      正面が黄葉山     駅前を左折して神辺宿へ                                            

車を気にしながら歩いて行く。左右に古風な家並みがあり、7分ばかりで右手に光蓮寺がある。境内に菅茶山(かんちゃざん)の漢詩を刻む歌碑がある。光蓮寺の先、左手踏切のある方向には十日市胡神社があるらしい。左手にある菅波歯科医院は、漆喰模様の蔵造りの古い建物だ。二階の窓に特徴がある。ここは現在使われていない。通りの先広島銀行の向側に「菅波歯科医院」の看板が見える。

           

古風な家並み     蓮寺の境内     菅波歯科医院

広島銀行の手前を右折すると「三日市通り」になる。道幅も広くなり、車の数がぐんと減り歩きやすい。「これが神辺の宿場町」という感じがする。ひげの梶さんの本によると「神辺宿は、戦国時代に発展した神辺城の城下町をそのまま受け継いで繁栄しました。その様子は七日市から三日市、そして十日市へとお城の築かれていた黄葉山の一部を囲むように屈曲しています。七日市には東本陣、三日市には西本陣や問屋場がありました。観光ガイドブックに載っている神辺本陣は西本陣のことです。」と書かれてある。 右折してすぐ、街道の右手に「鈴鹿秀満旧宅」と書かれた標柱がある。この標柱は字がかすれてよく読めないが、宮司で歌人だったらしい。左側に立派な洋風建築がある。今は使われていないようだが「最初はなにに使われた建物かな?もしかすると銀行?」と言いながら歩く。

           

三日市通り    鈴鹿秀満旧宅の標柱    七日市通り 

その先、左手に神辺本陣(西本陣)がある。梶さんによると「本陣の瓦には藤巴(ふじともえ)紋が見える。藤巴紋は、筑前福岡藩黒田家の家紋であり、西本陣は黒田家の専用本陣だったようです。」と書かれている。本陣前を通り過ぎ、次の十字路を左折、続いてコマ美容院の所を右折して「七日市通り」に入る。その先、左手に「旧山陽道神辺駅 太閤屋敷あと」と刻まれた石柱がある。石柱の右側面に、豊臣秀吉が朝鮮の役の帰路ここに立ち寄った館の跡との説明、反対側に菅茶山の漢詩が刻まれている。

        

                   神辺本陣跡             「太閤屋敷あと」の石柱

すぐ先、左手酒屋の前に「小早川文吾旧宅跡」と書かれた標柱があるが、ここも字がかすれてほとんど読めない。小早川は神辺で医を業としていたらしい。その近くの左側に薬師堂があり、側に「岩ノ戸七五三吉墓」がある。備後赤坂から相撲取りの墓が多いのにビックリする。 反対側の家の角に柵があり(溝の上)、そこに「神辺東本陣跡」の札が掛けられている。

           

小早川文吾旧宅跡の標柱  岩ノ戸七五三吉墓   東本陣跡の札が

すぐ先の左手に「七日市荒神社」があり、境内には胡子社と地神がある。 一歩さんの資料に「街道に和菓子の店谷口屋があるので、名物茶山饅頭を土産に買った。」と書かれてあったので、私たちも谷口屋に寄って名物茶山饅頭を食べることにした。 表示はないが、谷口屋の向かい側が廉塾塾頭をした「北条霞亭旧宅跡」のようだ。

           

  七日市荒神社    名物茶山饅頭の谷口屋    北条霞亭旧宅跡          

和菓子屋の隣が、神辺駅前の案内板にあった廉塾(れんじゅく)と菅茶山旧宅跡だ。 ひげの梶さんの本によると「茶山は神辺東本陣、造り酒屋を営む菅波家の長男として生まれ、京都で医学と朱子学を学び、天明元年(1781)、私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。この塾は、のちに福山藩の郷校となり、廉塾と呼ばれるようになった。頼山陽や北条霞亭も塾頭勤めている。全国から塾生が集まったと言われています。」とある。 古風な門が残り、門の中は野菜畑があり、奥には養魚池がある。寛政酉年(1789)につくられたと刻む石標もある。 1時間程度歩いたので、廉塾から少し東にあるお宮の鳥居の前で小休止。

           

廉塾と菅茶山旧宅跡  魚池の中にある石柱 鳥居の前で小休止 

廉塾から街道を200mばかり行くと、左側の土手の上に「一級河川高屋川」の白い標柱がある。街道の両側に石垣があり、標柱の真下「堰の跡」がある。高屋川の水から集落を守るためで、板を渡すようになっていたようだ。 さらに東に歩いて行くと、左側に古市公民館と「御野村第五部」消防団の古めかしい建物があり、隣に「荒神社」がある。 荒神社の境内には「一里塚跡」と書かれた木製の標柱があり、五角柱の「社日様」がある。社日(しゃにち)とは何かと思い広辞苑で調べると「暦注の一。土の神を祭って春には成育を祈り、秋には収穫のお礼まいりをする。」と書かれてあった。 神辺宿はここで終わる。また、広島県に入って随分お世話になった「ひげの梶さんと西国街道を歩こう!」梶本晃司(南々社)の本もここで終わってしまう。 広島県に入ってからは梶さんの本を主に歩いてきたが、今後はネットや「一歩さん」「西国街道を行く」の資料で歩くことになる。ルートは微妙に違うが、まあ問題はなさそうだ。

           

河川の白い標柱と堰の跡 荒神社と公民館・消防団 一里塚跡の標柱と社日様 

道なりに行くと二股に分かれる。右に行くと国道313号の「平野分かれ」の信号機の所に出るが、左側の道を行く。高屋川を渡り三差路を右折すると左手に「坂本デニム」の工場がある。ジーンズなどに利用される染色機を開発した所らしい。坂本デニム前の道はやがて高屋川から離れ、左に曲がり堂々川沿いになる。右高手に並行する313号の「高渕中橋東詰」信号機が見えた。そのまま歩いて行くと313号の向う側に、壁から自動車が飛び出した家がある。資料を見て知っていたが、初めて見る人はビックリするだろう。

           

坂本デニムの工場  高屋川土井のお地蔵さん 民家から自動車が!

井原鉄道と国道486号の高架下をくぐり、「湯野口」信号機を超えたのが12時30分。昼食を摂るため313号に出る。国道のすぐ左手に祠があった。お目当ての店は「本日休業」なので、地元の人に教えてもらい次の信号機の焼肉屋に行く。お店を出たのが13時30分。ずいぶん山陽道と離れたと思ったが、2~3分歩くと「消防屯所」と徳永商店の間の山陽道に出た。

          

  国道沿いの祠     昼食をしたお店   山陽道側の消防屯所

「消防屯所」と徳永商店の前、道を挟んで左側に「国分寺南大門跡」の標識がある。その右手は見事な「クロマツの松並木」が続く。福山市指定保護樹林となっている。 「備後国分寺跡」の案内板によると、「南大門の前の道が、古代山陽道」と書かれてあり、広島県の府中に向かうようだ。国分寺は静かなたたずまいだ。ここにも円形に梵字が刻まれた「曼荼羅碑」がある。

      

南大門跡の碑と松並木   備後国分寺と境内にある曼荼羅碑    

国分寺の右側に下御領八幡神社の参道がある。八幡神社に隣接してコース番号の書かれたプールがあった。このプールは、山から流れてくる自然の水を取り入れる仕組みになっているそうだが、少子化のためか、ここ何年も使用されていないと言う。 街道に戻ると、左側に見事な「長屋門」の家がある。

          

下御領神社の参道  この道路の左手がプール  長屋門の家

「長屋門」の家から少し行くと、左手に地蔵堂と常夜燈がある。 街道は一本道なので迷うことはないが、目立った建物がないので、地蔵堂や神社などの位置の説明が難しい。先の地蔵堂と常夜燈から10分位行くと左手に日吉神社がある。ここの鳥居に竜の注連縄がある。参道は、驚くほど高い階段になっている。 その先、 右手に「下御領上組公民館」がある。

      

地蔵堂と常夜燈             日吉八幡宮の高い階段        

公民館の少し先、左側に大きな安政五年(1858)の常夜燈があり、側に「御領大石登山道入口」の標識がある。この道を入って行くと、「天王宮」があり、ここの鳥居も竜の注連縄が渡され、境内には地神があるらしい。 また、「御領八丈岩 登山口」と刻まれた石柱がある。御領駅前の案内板には「八丈岩の鬼伝説」が書かれているそうだ。 その先、「上御領下組北札場」という案内板の地図がある。

 

常夜燈と標識(この奥に天王宮)        

次の十字路を左に入ると、明正寺、阿弥陀堂、薬師堂があるそうだが、山越えになり山陽道を迂回しそうなので、そのまま直進する。 交差点の左側に石塔群がある。その中でひときわ大きいのが「外ヶ島弥五郎」と書かれた石碑だ。これも相撲取りの墓だ。街道は国道313号線と合流する。国道の南側に旧道が見えるが、交通量が激しく、信号がないので渡れない。そのまま国道を東に歩いて行き左折して山陽道に戻ろうとしたが、道路工事のため通行止め。道の右手に地神がある。仕方がないので、再び国道に出て次の「一里塚」の信号機の所を左折し山陽道に戻る。

         

外ヶ島弥五郎の墓     地神     一里塚跡の道標

街道に戻ると、右手に「一里塚跡」の石碑と「菅茶山の詩碑」がある。左手に目を転じると、「一里塚跡」の石柱と奥にお堂が見える。「上御領一里塚と四ツ堂」の説明板によると「一里塚が制度として完成したのは江戸時代で、江戸日本橋を起点として一里ごとに全国に設置された。ここの一里塚は、寛永十年(1633)頃築設された。北の塚はなくなり、南の塚は榎の大木があったが、昭和7年の台風で倒れた。いまは石碑と菅茶山の漢詩の石碑がある。また、四ツ堂は一里塚の敷地内にあり、旅人の休憩所や宿泊所として利用された。」と書かれてある。その先、左高手に上御領八幡宮が見える。

           

南側の一里塚跡と詩碑 北側の一里塚跡と四ツ堂 上御領八幡宮

道なりに歩いて、「神影橋」を渡る。その先に県境がある。ようやく広島県(備後)が終わり、岡山県(備中)に入る。山口県の横断が165Km、広島県が今日の距離を合わせて168 Km合計で333 Kmを歩いたことになる。(広島県に入り1回ほど距離を加えるのを忘れていたので訂正しました。) 地元の人が居られたので県境の話を聞くと、「広島県と岡山県とは道路の舗装が違います。ほら、道の色が違うでしょう。」と言われ、改めて道路を見て納得。 その先、少し歩いて「子守唄の里高屋駅」に向かうため右折して313号に出るが、実はインターネットの地図の縮尺がこの高屋のだけが2倍になっていたのを忘れていて、駅はまだ1km程先だった。仕方なく国道をそのまま東進して駅へ。

          

      神影橋     県境 道路の色が   子守唄の里高屋駅

「子守唄の里高屋駅」発16時2分に乗り、福山に16時32分に到着。

今日のコースは7.0Km (岡山県1Km 広島県の計168Km 総計334Km)

                     *歩いた距離を訂正しました。

参加者        S夫婦とM夫婦の4人