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パソコンの解体

2019年02月18日 | 地域

1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJM-10を発表した。これはワープロ専用機で630万円の価格報道に驚いたことを覚えている。当時和製タイプライターが出ていた時代で超価格のワープロ専用機のニュースは報道で知った。1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業等への導入が始りだした。

そのような背景の中で1989年(平成元年)私はやっとのことでワープロを手に入れた。富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンはまだまだ高価でパソコンのパの字も話題に上ることはなかった。電子計算機の名が一般的だった。

ワープロのLotus 1-2-3は、MS-DOS用表計算ソフトで、当時減反政策が年々強化され補助金等複雑な会計処理、「転作組合」の経理はずいぶん助かった。さらに「ハガキ通信」を始めた。時々の感じたニュース等ハガキに8ポイントの文字で最大見出しの他1000~1200文字が書けた。ワープロから汎用性が拡大されるパソコンの動静は調べていた。当時は100万円前後していた。ワープロ同様、20万以下になったら導入を考えていた。

ワープロ導入前に某社がIBMのパソコンを750万で輸入等のニュースは知っていた。近い将来「パソコンの価格は20万以下」になる等と話しても、当時秋葉原の電気店に勤めオーディオ担当の弟に「ありえない」と反論された。しかし、数年経過して弟はパソコン等の取り扱いを進言、重い腰の上司は取り扱いにGOサインが出たと電話してきた。1995年頃にパソコン教室が生まれ官公庁に導入が進んできた。スキャナーにも手を広げ、カラーではなく白黒だったが「ハガキ通信」も充実してきたように思えた。                    

そして今年はワープロからパソコン歴30年になる。ワープロもパソコンもすべてマニアル任せ、それでも操作が分からないと本屋に走り関連本の購入に明け暮れた。数年前パソコン関連本が100冊近いことを知って驚いた。現在のようにネット検索ができなかった。導入初期ワープロ、パソコンに詳しいのは業者等の一部、当地方では官公庁を始め一般の企業等にも導入された90年代の中頃からだった。

30年間でワープロ1台、デスクトップ計4台、ノートが6台になった。現在までデスクトップ3台は機能の低下、ノートパソコン2台は健在だが2台は液晶画面が壊れ2台は機能低下でほとんど使い物にならない。当時1984年登場のMac OSの評判が高かったが1992年Windows3.1になって急速に普及したようだ。その後Windows95 2001年にWindowsXP、2009年になってWindows7、2015年にWindows10になった。Windows95以下はもはや使い物にならない。

このほど2011年導入のデスクトップ液晶一体型パソコンの液晶が真っ黒になりパニックとなってしまた。ノートパソコンはHDMIで他の液晶画面で観られたが液晶一体画面はできなかった。ノートとデスクトップ併用で過ごしてきた日常から脱しきれず、デスクトップパソコンを買い求めた。かつてはデスクトップは10万以下で求められていたが知らぬ間に価格が高騰していた。

使いなれたデスクトップから最新の機器、慣れていたはずの機器の初期設定、セットアップに苦労した。業者に委託すると2万円以上かかるらしい。パソコン価格プラスセットアップ等の料金となれば相応の高価格。パソコン離れが急速に進んでいる一因かもしれない。

セットアップ、プリンター接続、ネット等が終わると旧機器のデータが必要だった。複数のパソコンと共有していたが全てではなかった。そこで使い物ならない壊れた液晶一体型パソコンからハードデスク取り出しをすることにした。

ノートと違って液晶一体型の解体は面倒だった。ノウハウがあるわけでもなく小さなプラスドライバー等で作業、大胆にバラし作業をこなし慎重にハードデスクを取り出した。データを移行のため近くの電気店にケーブルを求めにいったが、需要がほとんどないので取り扱っていないという。結局通販で1300円ほどで求めた。

宅急便で届くのを待ち配達されてきたコードを取り出した、ハードデスクと新しいデスクトップパソコンにつないだら即反応した。

今回壊れたデスクトップからハードデスクを取り出し、新しいパソコンへ移行などとは考えたこともなかったが実行してみたら比較的簡単にできた。旧機器からすべてのデータが必要なわけではない。必要最低限のデータは新機器に移行できた。そして取り出したハードデスクは外付けの機器として利用できることがわかった。 

2011年から愛用していたデスクトップ。1月新年早々からパニック。ノートパソコンは健在だったが、日常併用していたデスクトップパソコンが使えないことになると生活リズムに少なからず悪影響があった。「パソコンと解体」などと少し大げさな題名で振り返ってみた。30年にもなると悪戦苦闘してきた機種に思い出が重なる。

 


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