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追想 「米を作る若者」と 皆川嘉左ヱ門

2018年09月30日 | 足跡

2018年4月4日の朝、秋田魁新報電子版で皆川嘉左ヱ門の逝去を知った。秋田魁新報は4月7日付「北斗星」で次のように追悼した。

「横手市十文字町の国道342号を東成瀬村方向に進むと、右側の休耕田に彫刻作品が並ぶ一角がある。今月3日、76歳で亡くなった皆川嘉左ヱ門さんが23年前に開設した「減反画廊」だ▼皆川さん自身も農家だった。立ち尽くす老農夫、吹雪の朝市に店を出すおばあさん、田植えの女性といったテーマの作品で知られる。減反に翻弄(ほんろう)される農民像を繰り返し彫った▼平成の初め、40代後半の皆川さんは東京・銀座のど真ん中で不動明王を彫るパフォーマンスを繰り広げた。羽後町の農家・高橋良蔵さん(故人)と共に、コメ市場開放反対を大都市の消費者に訴えたのだ▼4年前、皆川さんが横手市で個展を開いた折に再会し、そんな昔の話をした。皆川さんは地元寺院の仁王像、湯沢市岩崎の鹿島様の面、羽後町の猿倉人形芝居の頭(かしら)を作る仕事などもしていると穏やかに話していた。気さくで飾らない人柄はそのまま。彫刻にかける情熱は衰えていなかった▼夏目漱石の小説「夢十夜」に、仏師・運慶が仁王像を無造作に彫るのを「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出す」行為だと説明するくだりがある。これに倣えば、皆川さんは木の中から農民の怒りや悲しみ、誇りや気概を彫り出した彫刻家だったといえそうだ▼個展会場で皆川さんをカメラに収めるとき、彫刻より本人が絵になるなぁと思った。バンダナを巻いて作務衣(さむえ)をまとい、どっしり立っていた姿がありありと思い出される。

 2017.7.1秋田県美術展覧会 孫の県展 奨励賞を喜ぶ アトリエ前

皆川君は級友たちから通称「デガ」で通った。名前で呼ばれることは少なかった。「デガ」は小学校三年の担任が紙芝居の主人公、気がやさしくて力持ちの「デガ象君」からつけられたと彼の著、「嘉左ヱ門 その生きざま 写真記録集」2002年イズミヤ出版で語られている。彼とは出身校が違い、当時彼の級友から「デカ」の名を聞き不思議な感覚を持ったことが思い出される。昭和40年5月増田町の真人公園を会場にして「皆川デガ野外彫刻個展」を開いている。その中に昭和39年県展奨励賞「女神」も展示された。彼はその名を誇りにしていたことが偲ばれる。

2017年7月1日私は「黒部」から秋田新幹線「こまち」で帰途、大曲で乗り換えの秋田から新庄行きの列車で皆川夫婦と一緒になった。孫(大学生)が平成29年第59回県展で奨励賞になった。見学の帰りだという。本人は昭和39年第6回で「女神」、息子は昭和63年第30回で記念賞、そして今回の受賞。本人は県展で三代の県展奨励賞に事の他喜んでいた。列車の中で十文字駅まで語り、さらに皆川宅のアトリエにて談笑した。この日が私と皆川君との最後になってしまった。

皆川嘉左ヱ門氏と昭和37年1月、秋田県青年の家主催「農業経営コース」に15日間一緒に参加し交流したのが始まりであった。秋田県青年の家は昭和34年秋田市寺内将軍野の「まゆ検定所」を改修して設置された。秋田県は当時基幹産業の農業の後継者の養成、確保を主なねらいで発足していた。15日間合宿形式の研修はその他のコースも豊富だった。農業青年ばかりではなく当時、秋田県の青年活動の拠点だった。現在この場所は解体され秋田県立中央高校のグランドの一部になったいる。

昭和37年1月の「農業経営コース」には全県から25人程集まった。研修は朝から夜までビッシリと続いた。コース参加者で最も個性的なのが皆川君だった。当時彼は茶道、謡曲の道に入っておりさらに見事な能面を造り持参していた。彫刻家としての歩みが始まっていた。彼の家では田んぼと乳牛を飼っており、私も昭和42年から乳牛を飼い「雄平酪農業協同組合」の組合員となった。当時皆川君とは研修後も青年会活動等で交流が続いたが酪農協の会合に来るのは本人ではなく皆川君の親父さんだった。皆川嘉左ヱ門の親父さんは良く家畜商と一緒に私宅にも来た。玄関先から親しく息子と交流を知っていて、「木を彫る(彫刻)より牛の爪をけずれ」と息子の木彫り(彫刻)を批判し、「止めるように話して欲しい」が口癖だった。

当時の彼は、「親父にはこまったものだ」と愚痴をいいながら作風には「頑固じじい」(昭和49年11月)をはじめ「休耕田に佇う」等、百姓老人が主体になっていた。皆川君は「百姓を彫る 皆川嘉左ヱ門の信念と木彫集」(昭和51年7月)の中で次のように語っている。

「頑固じじい」                                                                                                                                                                                                                                

田植えの時「田の畦は、                                         かがとをつけねで、歩くもんだ」といった。                               頑固じじい。                                                                                                           かたくなに、時世にさからい、                                                         自分の殻にとじこっている。                                       頑固じじい。                                                俺は、その反骨精神に、                                         共鳴する。                                                  なにかと、人の顔色をうかがって、                                   生きている。                                                今の世の中に、                                              真っ向から対立し、                                            自分の信念を通す、                                            その反骨心に、俺は、共鳴する。                                              昭和49年12月

                     頑固じじい  「百姓を彫る 皆川嘉左ヱ門の信念と木彫集」(昭和51年7月)

「頑固じじい」のモデルは別人、この作品にかすかに親父さんの面影が彷彿される。彼の写真記録集「嘉左ヱ門 その生きざま」等にも親父さんの写真は一枚も出てこない。

「米を作る若者」

平成19年山形県の 庄内町では「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」を始めた。つや姫・はえぬき・コシヒカリ等おいしい米のルーツである「亀ノ尾」「森多早生」発祥の地として、消費者の求める安全安心でおいしい米づくりを全国に情報発信している。日本一おいしい米コンテスト機械による判定ではない、実際に食べた人による審査結果をもとに最優秀賞が決定する。「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」には私も第一回から参加していた。平成19年、私の「あきたこまち」は決勝大会の準決勝まで進んだが決勝に進むことはできなかった。

平成22年第4回から高校部門が加わった。高校部門は、友人朝日新聞「清水弟」氏の提案で実現した。当時朝日新聞鶴岡支局に努めていた清水記者は、ことのほか庄内町の「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」を評価していた。全国にある農業高校に呼びかけ「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」の高校部門、「米の甲子園」が始まった。清水氏は高校部門最優秀高の副賞を「皆川嘉左ヱ門」氏に依頼したいとの提案があった。「皆川嘉左ヱ門」氏もかつて米と乳牛を飼い酪農組合に牛乳を毎日出荷し農業高校に登校していた。平成22年夏のある日、清水氏と私と皆川氏のアトリエで会談の結果「米を作る若者」が実現した。第4回大会の高校部門の最優秀賞は長崎県大村城南高校の「にこまる」に輝いた。

                           米を作る若者 2018.4.11

清水氏の「若者に希望を与えるもの」という依頼に彼は相当苦慮したらしい。後日談だと彼は出身校の増田高校の校長と打ち合わせ、陸上部の生徒を紹介され制作された。この像は10年続くことになっていたが清水氏の提案により昨年2017年から嘉左ヱ門氏の子息、皆川義博(秋田公立美術大学准教授)氏にバトンが移されていた。

今回皆川嘉左ヱ門氏の逝去で「米を作る若者」の一つを清水弟氏と庄内町の好意で提供を受けることになった。葬儀後の初七日に庄内町から送られてきた。写真は自宅の居間で撮った「米を作る若者」と杉材で作られたケース。私にとって唯一の皆川の作品、貴重な遺作品となった。

「鹿島様」衣替え

 

湯沢市 岩崎緑町 鹿島様 衣替え 2018.4.29  

4月29日湯沢から十文字に向かうと岩崎の国道13号線沿いで、「鹿島様」の衣替え作業をしていた。鹿島様は道祖神の一種で、秋田県中南部の一帯を中心見られる。集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けた。湯沢市岩崎地区に3体の鹿島様があり、13号線沿いの鹿島様は岩崎地区緑町が担当している。

大きさが3~4mの大きな像でイナワラで胴体部分を10数人で作業していた。この鹿島様の面は、皆川嘉左ヱ門作を想い出し尋ねたら作業中の一人が「親父の時代造られたこと、制作者が今月始め亡くなった」と話し出した。立っている鹿島様の面はイナワラで覆われていて見えにくい。衣替え時は全体像が見られた。許しを得て面を撮らせてもらった。

この場所を通過のたびに鹿島様を意識する。どこかに皆川デカの風貌と重なる。


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