元朝日新聞記者の清水 弟氏から2017年の新年早々電話があった。NHKが4月から始めるテレビ小説「ひよっこ」の背景は、1970年前後の農村から都会への「出稼ぎ」農民の姿が主題になっている。昨秋制作にあたって「出稼ぎ」について、当時の様子が知りたいとスタッフから連絡があり面会したという。
出稼ぎの盛んだった秋田県で、当時朝日新聞秋田支局にいた清水 弟氏は背景や問題点を克明にルポした。、朝日新聞秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。その後新聞連載に加筆して1978年秋田書房から「出稼ぎ白書」が発刊された。
NHKテレビ小説「ひよっこ」の制作スタッフがドラマの背景にある「出稼ぎ」について、清水 弟氏に白羽の矢がたったということは極めて適切な対応だったと思える。NHKスタッフから取材要請があったこと、「農村通信」誌から原稿依頼でこのことを含めて執筆中、当時の出来事の確認のために湯沢市のホテルで対談をした。
「農村通信」は山形県酒田市で発刊されている地域情報誌。約45年前秋田、山形、宮城の三県で出稼ぎ、減反、圃場整備の問題等三県交流の農業問題研究会が開かれた頃から、「農村通信」誌が山形県庄内地域を中心に定着していることはは知っていた。
以下は清水 弟氏が「農村通信」に投稿した「机の上の計算はカラウソだった」の記事全文。一部は私へのメールの部分、関係する書籍等の写真を加えた。清水 弟氏の了解があったのでブログで紹介することにした。
地域農業情報誌 「農村通信」2017 2
「机の上の計算はカラウソだった」
「出稼ぎのことを教えていただきたい」。NHK制作局の若い方から電話をもらったのは昨年十月のことだ。朝日新聞秋田支局にいたころ、出稼ぎ問題を取材して連載し、『出稼ぎ白書』(1978年、秋田書房刊)をまとめたが、もう40年も昔の話である。取材されるようになったら新聞記者もお終いだと思いつつ、約束の場所に出かけて行った。古い切り抜き張と掻き集めた資料を持って…。 (ジャーナリスト 清水弟)
「出稼ぎ白書」秋田書房 1978.10
2017年4月からNHKの連続テレビ小説「ひよっこ」は、ヒロイン「谷田部みね子」の父「谷田部実」が奥茨城(茨城県の奥?)の農家という設定で、彼は不作の年に作った借金を返すため、一年のほとんどを東京の工事現場で働いていた。それが稲刈りで帰郷したのを最後に消息を絶ってしまう。東京オリンピックの1964年から始まるドラマで、高度成長期の名もなき人々を描く波乱万丈青春記だとか。
制作局ドラマ番組部の若いスタッフは、原作シナリオの細部をチェックするため、当時の出稼ぎの実態を知りたかったのだ。「奥茨城」に出稼ぎがあったのかどうか、「集団就職した金の卵」というヒロインも、秋田や山形など東北地方ならまだしも、奥とはいえ首都圏の一角でも「集団就職」したのだろうか。そんな疑問はともかく、秋田の出稼ぎ事情や上野公園にたむろする手配師の様子、飯場での生活ぶり、賃金は現金払いだったかなど、矢継ぎ早の質問に答えた。最後は、どなたか出稼ぎ経験者を紹介してもらえませんか。
秋田は記者(キシャ=汽車)になって3年目、まだトロッコ並みの私が出稼ぎを取材したきっかけは、秋田版の記事(1973年4月8日付け)だ。「出稼ぎ死者。この冬だけで79人。40、50台に多い病死。前年の13%増。高血圧押して重労働も」当時、秋田県の出稼ぎ者は推定7万人で、出稼ぎ互助会に入っている4万3千人のうち、病死や事故で死んだ方が七十九人いた。内訳は病死が59人(前年46人)で40代、50代の脳卒中が目立ち、労災事故での死者は11人(同17人)だった。
埼玉県の工場で同僚にも気付かれないまま死んだ25歳の青年は、ポックリ病だった。過酷な作業現場が事故に結びつくケースもあり、北海道の青函トンネルの工事現場では、湿度が高いため、上半身裸で電気溶接していた、26歳の青年が感電死した。そのころの秋田県は、交通事故の死者が年間130人前後だった。その秋田でそれほどの人が出稼ぎ先で亡くなっているのは問題ではないか。前任地の茨城県・水戸支局で、私は東海村の日本原子力研究所や原発を取材していた。「原子力エネルギーは将来重大な問題になる。おびただしい犠牲者も出かねない」と感じたが、いま、目の前で起きている現実、出稼ぎの犠牲者数と深刻さに圧倒されたのだ。
ただちに取材計画をまとめた。
新聞社の旗がついたジープで、県南の湯沢市や羽後町などの農家に通い始めた。出稼ぎ組合を作った羽後町の高橋良蔵さん(1925年〜2013年)のお宅に日参し、出稼ぎで父や息子を失った遺族にアンケートした。出稼ぎを拒む若い人たちのひとり、雄勝郡稲川町川連の長里昭一さん(74歳)はこんな詩を書いていた。
「のぼるよ泣け」
のぼる のぼる
いいがら大きな声で泣げ
もっともっと大きな声で……
「な バッパのいうごど良ぐ聞げ な」
と 家を出た のぼるの父と母
(以下略)「むらの詩」原田鮎彦 秋田文化出版社 1973
連載当時の長里さんは(31)水田1・2ヘクタールに6頭の乳牛を飼う水田酪農。連載で仲間の井上直一さん(26歳)を紹介した。井上さんの親友があの青函トンネルの工事現場で亡くなった羽後町の佐藤清四郎さん(26歳)だったと気づいた。
雑誌「北の農民」7号 北の農民社(1973)に今は亡き井上さんの書いた「出稼ぎに逝った友へ」が掲載されている。「農業だけで生活することを許さない。子どもから父ちゃん、母ちゃんを奪い、じいさん、ばあさんに重労働を強いる。それでも飽き足らず田んぼも命を奪っていく。一体誰が考えて、誰が請け負って、誰が末端で進めているのだ」「もうこれ以上流されてはいけない。仲間を失ってはならない。疑問を、悲しみ、怒りを、すべてを結集してぶっつけていかなければ、我々農民の生活は守り得ない」。
「北の農民」1~5号 北の農民社 1971.3~1972.7
秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。
東京の自動車工場や工事現場では体験取材もした。新聞社の出張手当と出稼ぎ先の日当を二重にもらう幸運に恵まれたことも。忘れられないのは、神奈川県相模原市の土建現場の飯場で過ごした雨の日だ。1973年10月28日、日付を覚えているのは、父の命日の前日だったからである。
大粒の雨が降っていた。プレハブの屋根をたたく雨の音で目が覚めた。朝6時。大雨洪水注意報が出ている。仕事は休み。食堂で朝食を済ますと布団に潜り込んだり、テレビを見続けたり。日当3800円は諦めても、食費500円はいつも通り。出稼ぎ者のひとりが「雨の日はタコだよ、タコ」と教えてくれた。空腹が高じると自分の脚を食べるというタコになぞらえた。裸電球がふたつ、横に渡した紐にぶら下げた洗濯物の影が天井に映る。飯場のみんなが息を殺してひたすら時間がたつのを待っている。塹壕で休む兵士のようだ。夕方、私は飯場を抜け出して駅前の喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。翌朝早く起こされた。「清水君、電話」。兄嫁からだった。危篤だった父が死んだ。家族を残して出稼ぎに来た人たちも、きっと同じような事情を抱えているのだと思った。
出稼ぎ対策は、労働条件向上や未払い賃金の補償など労働省ペースで進められ、出稼ぎ奨励策でしかなかった。出稼ぎしなければ暮らせないのが異常でないか。食糧自給を掲げながら、農民が体ごと吸い込まれるように出稼ぎに駆り出され、農村が崩壊していく現実こそ問われるべきだと思った。
『出稼ぎ白書』の末尾につけた年表を読み返すと、1960年1月の「政府、農産物などの自由化の基本方針決定」に始まり、61年の農業基本法公布、第一回農業白書。62年には農政改革以来の大事業といわれた農業構造改善事業スタートなど、日本の農業が刻々と姿を変えて行った。電気洗濯機やテレビなどの普及が進み、米価は65年で玄米60キロ6538円。
「猫の目農政」とか「ノー政」と言う言葉がよく聞かれた。農政の矛盾のシンボル、八郎潟干拓地に生まれたモデル農村・大潟村には、1973年春以来、何回も足を運んだ。農家住宅の赤、青、黄色の三角屋根が並び、村役場や公民館、巨大なカントリーエレベーターなど大潟村の街並みはプラモデルのようだった。1970年に始まるコメの減反政策は大潟村を例外扱いせず、むしろ率先して国の方針に従うよう指導された。普通の農村より過酷な形で、モデル農村は農政の矛盾にさらされた。
あの日は抜けるような青空だった。
1975年9月5日、青刈り。入植者の顔は苦痛に歪んでいた。カタカタカタと軽快な音を立てトラクターが走り周り、牧草刈り取り機が稲をなぎ倒していく。稲の葉が強い日差しを浴びてたちまち丸くなる。ピチピチと音が聞こえるようだ。収穫二週間前のモミは、かぐわしい香りを発散させている。声にならないうめきが漏れ、入植者の目が真っ赤だった。青刈りの光景に息を飲んだ。もちろん青刈りを見るのは初めて。非道で無情、残酷、極悪、理不尽、様々な罵詈雑言を束にしても追いつけないほどの事態に思えた。あの日だけで約100ヘクタールの、9千俵(1俵60キロ)近い「米」が青刈りされた。
入植者580戸のうち、約400戸が農林省の指示を上回るもち米を作付けした。度重なる是正指導をくぐり抜け、打開策を探り続けたものの結局、260ヘクタールを処分した。「私が育てた稲だから最後まで見守りたい。子供を育てるのと同じに育ててきた。いい加減な農林省の指導のせいで青刈りを強制されるなんてひどすぎます」と訴えた女性も、「今日はカカアを連れて来なかった。こんなのを見たら卒倒するか泣き崩れるか」と語った男性もほとんど泣き顔だった。悩みに悩んでノイローゼで、入院した人や、青刈りしながら「これで4ヶ月分の生活費が消えた」と嘆く人も。取材を終え、青刈りされたひと束を拾った。「いただいていいですか?」と聞くと、「いくらでも持って行きな」。 そのときの稲束が、いまも私の手元にある(写真)。カラカラに乾燥しているが、籾殻を剥くと、思いのほか大きな玄米が顔をのぞかせる。
秋田支局から東京社会部(立川支局駐在)に異動したのが77年春。都農業試験場では当時まだ「日本晴」「東山38号」「ヤマビコ」「コシヒカリ」など10種類の種もみを確保していた。 作付面積は77年で1200ヘクタール(水稲930、陸稲270)と、東京オリンピック前の計7000ヘクタールからは激減したのだが……。
警察署担当(サツ回り)で事件や事故に追われながら、多摩ニュータウンなど都市化の進むなか、どっこい頑張っている農家を訪ね歩いていた。東京版の連載「東京百姓列伝」(79年8月2日から10回)では、小松菜、春菊、ホウレンソウなど「東京っこ野菜」の生産者や野菜泥棒の話、会員制農業、一個5千円もしたギフト用の立方体のスイカなどを紹介した。
圧巻だったのは、父親が遺した蓮田や畑など1・4ヘクタール分の相続税3億8千万円を現金にしてジュラルミンの箱に詰め、江戸川税務署に払った元レンコン農家(48歳)の話。現金払いは遺言で、税務署から銀行支店に運んだ札束を数えるのに機械2台をフル回転させて1時間20分かかった。地価は10アール(300坪)当たり1億円を上回り、高額所得番付にも出た。彼が吐き捨てるように言った。
「国が農業やれねように、やれねようにしてんだ。農林水産省の机の上の計算はカラウソさ。米が余るのも貿易の都合上、アメリカから麦を買うからで、オレンジもレモンも同じ。東京の農家が潰れるのは時間の問題だよ」その東京で、在来野菜を懸命に守っている人物に出会ったり、棚田保全に熱心なグループに紹介されたり。気がついたら、「東京に一番近い棚田」という千葉県鴨川市の大山千枚田保全会のトラスト会員(会費、年間3万円)になって13年目に入る。
農林水産省担当の専門記者にこそなれなかったが、新聞記者として農業にこだわり続けたのは、お米が大好きだからだ。コメ離れが進んで心配はなさそうだが、冷害など深刻な不作に備えるには農家の友人に頼るしかない。
TPP(環太平洋経済協定)、農畜産物輸出拡大、強い農業づくり、農協改革等々政府が掲げる政策をみると、まだそんなことを言っているのかと呆れてしまう。アベノミクスならぬ「アホノミクス」である。尊敬する佐賀の農民作家、山下惣一さんが喝破した「強い農家が生き残るのではない。残った農家が強いのだ」という言葉を噛みしめる。残っている強い農家が、しなやかに、したたかに、美味しい米を作り続けることを願うばかりだ。
清水 弟(しみず・てい)1947年、新潟県長岡市生まれ。朝日新聞社記者として水戸、秋田支局、東京社会部、パリ特派員、日曜版編集長を経て山形県鶴岡支局、千葉県館山支局。編著に「地球食材の旅」(小学館)など
出稼ぎの盛んだった秋田県で、当時朝日新聞秋田支局にいた清水 弟氏は背景や問題点を克明にルポした。、朝日新聞秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。その後新聞連載に加筆して1978年秋田書房から「出稼ぎ白書」が発刊された。
NHKテレビ小説「ひよっこ」の制作スタッフがドラマの背景にある「出稼ぎ」について、清水 弟氏に白羽の矢がたったということは極めて適切な対応だったと思える。NHKスタッフから取材要請があったこと、「農村通信」誌から原稿依頼でこのことを含めて執筆中、当時の出来事の確認のために湯沢市のホテルで対談をした。
「農村通信」は山形県酒田市で発刊されている地域情報誌。約45年前秋田、山形、宮城の三県で出稼ぎ、減反、圃場整備の問題等三県交流の農業問題研究会が開かれた頃から、「農村通信」誌が山形県庄内地域を中心に定着していることはは知っていた。
以下は清水 弟氏が「農村通信」に投稿した「机の上の計算はカラウソだった」の記事全文。一部は私へのメールの部分、関係する書籍等の写真を加えた。清水 弟氏の了解があったのでブログで紹介することにした。
地域農業情報誌 「農村通信」2017 2
「机の上の計算はカラウソだった」
「出稼ぎのことを教えていただきたい」。NHK制作局の若い方から電話をもらったのは昨年十月のことだ。朝日新聞秋田支局にいたころ、出稼ぎ問題を取材して連載し、『出稼ぎ白書』(1978年、秋田書房刊)をまとめたが、もう40年も昔の話である。取材されるようになったら新聞記者もお終いだと思いつつ、約束の場所に出かけて行った。古い切り抜き張と掻き集めた資料を持って…。 (ジャーナリスト 清水弟)
「出稼ぎ白書」秋田書房 1978.10
2017年4月からNHKの連続テレビ小説「ひよっこ」は、ヒロイン「谷田部みね子」の父「谷田部実」が奥茨城(茨城県の奥?)の農家という設定で、彼は不作の年に作った借金を返すため、一年のほとんどを東京の工事現場で働いていた。それが稲刈りで帰郷したのを最後に消息を絶ってしまう。東京オリンピックの1964年から始まるドラマで、高度成長期の名もなき人々を描く波乱万丈青春記だとか。
制作局ドラマ番組部の若いスタッフは、原作シナリオの細部をチェックするため、当時の出稼ぎの実態を知りたかったのだ。「奥茨城」に出稼ぎがあったのかどうか、「集団就職した金の卵」というヒロインも、秋田や山形など東北地方ならまだしも、奥とはいえ首都圏の一角でも「集団就職」したのだろうか。そんな疑問はともかく、秋田の出稼ぎ事情や上野公園にたむろする手配師の様子、飯場での生活ぶり、賃金は現金払いだったかなど、矢継ぎ早の質問に答えた。最後は、どなたか出稼ぎ経験者を紹介してもらえませんか。
秋田は記者(キシャ=汽車)になって3年目、まだトロッコ並みの私が出稼ぎを取材したきっかけは、秋田版の記事(1973年4月8日付け)だ。「出稼ぎ死者。この冬だけで79人。40、50台に多い病死。前年の13%増。高血圧押して重労働も」当時、秋田県の出稼ぎ者は推定7万人で、出稼ぎ互助会に入っている4万3千人のうち、病死や事故で死んだ方が七十九人いた。内訳は病死が59人(前年46人)で40代、50代の脳卒中が目立ち、労災事故での死者は11人(同17人)だった。
埼玉県の工場で同僚にも気付かれないまま死んだ25歳の青年は、ポックリ病だった。過酷な作業現場が事故に結びつくケースもあり、北海道の青函トンネルの工事現場では、湿度が高いため、上半身裸で電気溶接していた、26歳の青年が感電死した。そのころの秋田県は、交通事故の死者が年間130人前後だった。その秋田でそれほどの人が出稼ぎ先で亡くなっているのは問題ではないか。前任地の茨城県・水戸支局で、私は東海村の日本原子力研究所や原発を取材していた。「原子力エネルギーは将来重大な問題になる。おびただしい犠牲者も出かねない」と感じたが、いま、目の前で起きている現実、出稼ぎの犠牲者数と深刻さに圧倒されたのだ。
ただちに取材計画をまとめた。
新聞社の旗がついたジープで、県南の湯沢市や羽後町などの農家に通い始めた。出稼ぎ組合を作った羽後町の高橋良蔵さん(1925年〜2013年)のお宅に日参し、出稼ぎで父や息子を失った遺族にアンケートした。出稼ぎを拒む若い人たちのひとり、雄勝郡稲川町川連の長里昭一さん(74歳)はこんな詩を書いていた。
「のぼるよ泣け」
のぼる のぼる
いいがら大きな声で泣げ
もっともっと大きな声で……
「な バッパのいうごど良ぐ聞げ な」
と 家を出た のぼるの父と母
(以下略)「むらの詩」原田鮎彦 秋田文化出版社 1973
連載当時の長里さんは(31)水田1・2ヘクタールに6頭の乳牛を飼う水田酪農。連載で仲間の井上直一さん(26歳)を紹介した。井上さんの親友があの青函トンネルの工事現場で亡くなった羽後町の佐藤清四郎さん(26歳)だったと気づいた。
雑誌「北の農民」7号 北の農民社(1973)に今は亡き井上さんの書いた「出稼ぎに逝った友へ」が掲載されている。「農業だけで生活することを許さない。子どもから父ちゃん、母ちゃんを奪い、じいさん、ばあさんに重労働を強いる。それでも飽き足らず田んぼも命を奪っていく。一体誰が考えて、誰が請け負って、誰が末端で進めているのだ」「もうこれ以上流されてはいけない。仲間を失ってはならない。疑問を、悲しみ、怒りを、すべてを結集してぶっつけていかなければ、我々農民の生活は守り得ない」。
「北の農民」1~5号 北の農民社 1971.3~1972.7
秋田版の連載「出稼ぎ」は、1973年10月から翌年2月までの五部で63回、さらに続けて75年12月に「出稼ぎ遺族」が10回。
東京の自動車工場や工事現場では体験取材もした。新聞社の出張手当と出稼ぎ先の日当を二重にもらう幸運に恵まれたことも。忘れられないのは、神奈川県相模原市の土建現場の飯場で過ごした雨の日だ。1973年10月28日、日付を覚えているのは、父の命日の前日だったからである。
大粒の雨が降っていた。プレハブの屋根をたたく雨の音で目が覚めた。朝6時。大雨洪水注意報が出ている。仕事は休み。食堂で朝食を済ますと布団に潜り込んだり、テレビを見続けたり。日当3800円は諦めても、食費500円はいつも通り。出稼ぎ者のひとりが「雨の日はタコだよ、タコ」と教えてくれた。空腹が高じると自分の脚を食べるというタコになぞらえた。裸電球がふたつ、横に渡した紐にぶら下げた洗濯物の影が天井に映る。飯場のみんなが息を殺してひたすら時間がたつのを待っている。塹壕で休む兵士のようだ。夕方、私は飯場を抜け出して駅前の喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。翌朝早く起こされた。「清水君、電話」。兄嫁からだった。危篤だった父が死んだ。家族を残して出稼ぎに来た人たちも、きっと同じような事情を抱えているのだと思った。
出稼ぎ対策は、労働条件向上や未払い賃金の補償など労働省ペースで進められ、出稼ぎ奨励策でしかなかった。出稼ぎしなければ暮らせないのが異常でないか。食糧自給を掲げながら、農民が体ごと吸い込まれるように出稼ぎに駆り出され、農村が崩壊していく現実こそ問われるべきだと思った。
『出稼ぎ白書』の末尾につけた年表を読み返すと、1960年1月の「政府、農産物などの自由化の基本方針決定」に始まり、61年の農業基本法公布、第一回農業白書。62年には農政改革以来の大事業といわれた農業構造改善事業スタートなど、日本の農業が刻々と姿を変えて行った。電気洗濯機やテレビなどの普及が進み、米価は65年で玄米60キロ6538円。
「猫の目農政」とか「ノー政」と言う言葉がよく聞かれた。農政の矛盾のシンボル、八郎潟干拓地に生まれたモデル農村・大潟村には、1973年春以来、何回も足を運んだ。農家住宅の赤、青、黄色の三角屋根が並び、村役場や公民館、巨大なカントリーエレベーターなど大潟村の街並みはプラモデルのようだった。1970年に始まるコメの減反政策は大潟村を例外扱いせず、むしろ率先して国の方針に従うよう指導された。普通の農村より過酷な形で、モデル農村は農政の矛盾にさらされた。
あの日は抜けるような青空だった。
1975年9月5日、青刈り。入植者の顔は苦痛に歪んでいた。カタカタカタと軽快な音を立てトラクターが走り周り、牧草刈り取り機が稲をなぎ倒していく。稲の葉が強い日差しを浴びてたちまち丸くなる。ピチピチと音が聞こえるようだ。収穫二週間前のモミは、かぐわしい香りを発散させている。声にならないうめきが漏れ、入植者の目が真っ赤だった。青刈りの光景に息を飲んだ。もちろん青刈りを見るのは初めて。非道で無情、残酷、極悪、理不尽、様々な罵詈雑言を束にしても追いつけないほどの事態に思えた。あの日だけで約100ヘクタールの、9千俵(1俵60キロ)近い「米」が青刈りされた。
入植者580戸のうち、約400戸が農林省の指示を上回るもち米を作付けした。度重なる是正指導をくぐり抜け、打開策を探り続けたものの結局、260ヘクタールを処分した。「私が育てた稲だから最後まで見守りたい。子供を育てるのと同じに育ててきた。いい加減な農林省の指導のせいで青刈りを強制されるなんてひどすぎます」と訴えた女性も、「今日はカカアを連れて来なかった。こんなのを見たら卒倒するか泣き崩れるか」と語った男性もほとんど泣き顔だった。悩みに悩んでノイローゼで、入院した人や、青刈りしながら「これで4ヶ月分の生活費が消えた」と嘆く人も。取材を終え、青刈りされたひと束を拾った。「いただいていいですか?」と聞くと、「いくらでも持って行きな」。 そのときの稲束が、いまも私の手元にある(写真)。カラカラに乾燥しているが、籾殻を剥くと、思いのほか大きな玄米が顔をのぞかせる。
秋田支局から東京社会部(立川支局駐在)に異動したのが77年春。都農業試験場では当時まだ「日本晴」「東山38号」「ヤマビコ」「コシヒカリ」など10種類の種もみを確保していた。 作付面積は77年で1200ヘクタール(水稲930、陸稲270)と、東京オリンピック前の計7000ヘクタールからは激減したのだが……。
警察署担当(サツ回り)で事件や事故に追われながら、多摩ニュータウンなど都市化の進むなか、どっこい頑張っている農家を訪ね歩いていた。東京版の連載「東京百姓列伝」(79年8月2日から10回)では、小松菜、春菊、ホウレンソウなど「東京っこ野菜」の生産者や野菜泥棒の話、会員制農業、一個5千円もしたギフト用の立方体のスイカなどを紹介した。
圧巻だったのは、父親が遺した蓮田や畑など1・4ヘクタール分の相続税3億8千万円を現金にしてジュラルミンの箱に詰め、江戸川税務署に払った元レンコン農家(48歳)の話。現金払いは遺言で、税務署から銀行支店に運んだ札束を数えるのに機械2台をフル回転させて1時間20分かかった。地価は10アール(300坪)当たり1億円を上回り、高額所得番付にも出た。彼が吐き捨てるように言った。
「国が農業やれねように、やれねようにしてんだ。農林水産省の机の上の計算はカラウソさ。米が余るのも貿易の都合上、アメリカから麦を買うからで、オレンジもレモンも同じ。東京の農家が潰れるのは時間の問題だよ」その東京で、在来野菜を懸命に守っている人物に出会ったり、棚田保全に熱心なグループに紹介されたり。気がついたら、「東京に一番近い棚田」という千葉県鴨川市の大山千枚田保全会のトラスト会員(会費、年間3万円)になって13年目に入る。
農林水産省担当の専門記者にこそなれなかったが、新聞記者として農業にこだわり続けたのは、お米が大好きだからだ。コメ離れが進んで心配はなさそうだが、冷害など深刻な不作に備えるには農家の友人に頼るしかない。
TPP(環太平洋経済協定)、農畜産物輸出拡大、強い農業づくり、農協改革等々政府が掲げる政策をみると、まだそんなことを言っているのかと呆れてしまう。アベノミクスならぬ「アホノミクス」である。尊敬する佐賀の農民作家、山下惣一さんが喝破した「強い農家が生き残るのではない。残った農家が強いのだ」という言葉を噛みしめる。残っている強い農家が、しなやかに、したたかに、美味しい米を作り続けることを願うばかりだ。
清水 弟(しみず・てい)1947年、新潟県長岡市生まれ。朝日新聞社記者として水戸、秋田支局、東京社会部、パリ特派員、日曜版編集長を経て山形県鶴岡支局、千葉県館山支局。編著に「地球食材の旅」(小学館)など
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