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ひろしま歴史街道散策くらぶ(10月定例会)に参加!

2018-10-19 14:36:20 | ひろしま歴史街道散策会
  ひろしま歴史街道散策くらぶ(西国街道と井口界隈)散策に参加!
  平成30ー10/18日(木)  新井口駅  13:30集合  18名参加。
  
    散策会  「西国街道と井口界隈
    散策経路  
     大歳神社~正順寺~旧街道跡~一里塚跡~井口公民館~街道松~
     がきの首地蔵~八幡川

   その昔、新井口駅の右側が(広島より)旧古江村、左側が井口村です。 
   井口村の西国街道を歩きます。

 


 〇 壁画   井口中学生の卒業生の作品です。

 

  
 〇 雁木跡   海岸線だった名残りです。

  


 〇 小己斐明神
   小己斐明神は、昔、平清盛が厳島神社建立の際、鈴が峰より木を切り出し刻印を打ち
   筏を送り出したことから「刻印の明神」と呼ばれた。
   また、子宝の神さまともいわれ、別名「子乞明神」と言われた。
   寛政3年(1791)、己斐村の人が阿瀬波地先土地を造成し、己斐朝日山神社の分神
   をお祀りしたことから「小己斐明神」と言われるようになった。
   ご神体は大正2年(1913)、大歳神社に合祀されている。
   昭和25年(1950)以降、この辺りは井口漁港として使われ、当時の雁木
  (がんぎ)や防潮提が今も残っている。

 



 


 


  〇 大歳神社
   大歳神社は、かって神武東征の際に船を繋いだ場所を社地として、万寿元年
   (1024)(に創建したと伝えられている。
   活疱明神とも称し、疱瘡の守護神としても篤く信仰されていた。
   大正2ねん(1913)胡神社、小己斐明神、岩神社が合祀された。
   境内には400年を超すムク、300年を超すクロガネモチの巨木がある。

 



 


 


 


 樹齢500年と言われるムクの生命力(パワー)を頂きました。

 〇 正順寺

   昔は真言宗で正信院と称し、鈴が峰の頂上にあったが、広島藩浅野家、森島権平という
   侍が出家し本願寺13代良如上人の直弟子となり、了恵という法名を賜り、
   寛永11年(1634)浄土真宗に改宗して現在の場所、滝の口に建立した。
   当時は現在に北門を正門として西国街道に面していた。
   本堂は近郊では珍しい寄棟造りで、享保5年(1720)の銘が入る山門の梵鐘は
   県内現存の江戸鐘40余りの一つである。
   この寺出身の滝口了信師は、夏目漱石や正岡子規との交友でも知られる。


 


 


 時代を感じるクロマツ、乳垂れのイチョウのきも存在感がある。

 


 


 外側の側溝の岩は元海岸だったとされる潮の跡が認められる。

 


 〇 西国街道
   西国街道は、京都と下関を結ぶ江戸時代の西日本おける幹線道だったが、公式に定めら   れた呼称ではなく、山陽道と呼ばれていたところもあるが、広島藩では、西国街道
   ではぼ統一されていたようだ。
   江戸時代初期に、幕府の巡検使を迎えるにあたって領内の諸往還を整備したとき、道幅   は2間半(約4,5m)とし、一里塚、街道松、宿場などが設置された。
   当時の西国街道が昔のまま残っている所は殆ど見られないが、山道入り口から100m
   が、ほぼ昔の姿で残っている。

 



 〇 六地蔵
   必ず右のお地蔵さん(地獄)から左(極楽)への道案内のお地蔵さんなので右から
   お参りするのが王道だそうです。

 


 〇 首なし地蔵
   伝承によると、
  『あるとき、若い武士3人が通りかかり、うちの一人が「この地蔵の首を
   切ってみようか」といったところ、連れの2人が「この硬い首が切れるわけがない
   地蔵を傷つけたら罰が当たるぞ」と押し止めたが、聞こうともせず地蔵の首を切り
   落とした。
   と、切った武士もバッタリ倒れた。よく見ると、折れた刀の先が首筋に突き刺さって
   いた。
   それからは、誰ともなく、「首なし地蔵」と呼ぶようになった』
   とのことである。

 



 〇 一里塚跡  
   一里塚は、江戸日本橋を起点に、各街道の1里(約4km)毎に目印として設置された
  塚(土盛り)のことである。
  広島藩では、広島城下を起点に東は26ヶ所、西は8ヶ所に設置され、井口にも、竜神山
  周辺に城下から2里、2番目の「一里塚」が設置された。
  その場所は定かではないが、現在一里塚跡石碑が設置してある公園付近推定される。

 


 旧西国街道を急坂を降ります。

 


 〇 井口公民館
   井口公民館でトイレ休憩。
   ”西国街道いのくち 歴史の散歩径” なるマップを貰う。

 


 古代道が残ったところもあります。

 


 〇 街道松
   西国街道は、交通路の要衝で、街道には両側におよそ3間(約4,5m)4に1本
   の間隔で街道松が植えられた。
   井口に最後まで残っていた1本の街道松は、昭和58年(1983)に道路拡幅により
   伐採された。
   その松の切株が近くの「松の木薬局」に記念として保存展示されている。

 


 鈴が峰高校、中学。
 (現在は修大付属となっている)

 
 


 〇 餓鬼の首地蔵
  昔は小山の険しいのを「がき」といわれ、阿瀬波(汗馬、現在の井口4丁目、)
  の西端の山が出っ張った突端に10mくらいのお椀を伏せたような小山があり、
  首に見立てて「がきの首」と名付けられたらしい。
  ある時、船が暴風雨に遇い船頭が亡くなり、その家族が山に洞穴を掘り、お地蔵さん
  を祀り供養した。
  その場所が餓鬼の首と言われていたので「餓鬼の首地蔵」と呼ばれ、海の安全を祈願
  していた。

 


 


 


 〇 八幡川
  八幡川は元、現在の位置より約1km西にあったが、江戸時代初めに現在の位置に
  変わった。
  八幡川は太田川と同様に、下流に大量に砂を流しだしてくるため、そこから井口の
  埋め立てが進められた、2級河川である。
  水鳥の飛来地としても有名になった。

 



 


 説明板と元の親柱がモニュメントとして残こされている。

 


  午後5時、
  今回の西国街道・井口周辺の散策は終了です。
  陽が傾き少々寒くなりましたが、西国街道、昔の姿も少し残ったところもかい間見、
  村時代の街並みの面影も残った家、元の海岸線を歩きました。
  12600歩、7,5kmのスマホの歩数計です。
  疲れましたが、皆さんよく歩きました。
  お疲れ様でした。         - END ー
  

  
  
コメント (8)
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