2022年5月10日(火)
4月13日のブログで今城塚古墳を物部守屋を祀る陵墓と間違って書いていました。(現在は訂正しています)。
物部守屋は用明天皇でしたから、詣り墓は用明天皇陵です。下の図形は、それらのことを教えている空海コードです。
難波宮から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと、物部守屋の埋め墓までと、用明天皇陵までの3ヶ所は凡そ21㎞と同距離です。
2022年5月7日(土)
藤原鎌足の墓は、鎌足公古廟から東南東14.88㎞の場所に移されている。
おそらく第50代桓武天皇の命で動かされたと私は思っている。
その藤原鎌足の墓から天智天皇の墓までは36.52㎞であり、斉明天皇の墓までは38.16㎞であり、凡そ同距離で二等辺三角形を描いている。
斉明天皇が最初に産んだ子は、大海人皇子(天武天皇)であり次が漢皇子(役行者)。 二人の父親は、蘇我入鹿である。
斉明天皇が次に産んだ子が、中大兄皇子(天智天皇)。その次が中臣鎌足(藤原鎌足)である。この二人の父親は、杉山古墳に眠る百済の31代、最後の王、ウィジャ(義慈王)であり舒明天皇である。
その義慈王と斉明の間に生まれた子が豊(豊璋)であり中大兄皇子(天智天皇)。
その弟が勇(百済王善光 くだらのこにきしぜんこう)であり、中臣鎌足(藤原鎌足)である。そして舒明天皇との間にもう一人、女の子を授かっている。
斉明天皇は重祚していない。蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に殺された時、彼は皇極天皇だった。
上の絵をよ~~く見てほしい。
これは、談山神社の祭神、藤原鎌足(614-669)の伝記をまとめた多武峯談山神社の縁起絵巻のデジタルデータとして公開されています。
蘇我入鹿は、天皇が座る一段高い御座に居たのです。彼は皇極天皇だったのです。
2022年4月26日(火)
昨日は朝から一日中、取材で事務所を不在にしていました。
テラファイト卑弥呼を購入して、水を変えたら今までにない美味しいパンができるようになったという神戸のパン屋さんに取材に行って、そしてそれから内藤さんの案内で神河町まで行きました。
二件目は、自給自足の時代が来たとしても皆で助け合っていけるようにと神河町の奥猪篠で芋類を植えに行った場所へと、二件目の取材の場所がその場所でした。
いつ見ても卑弥呼の墓が一番きれいに見える場所での取材でした。
取材を終えて、寺前の駅から特急はまかぜに乗れるように内藤さんに送ってもらって、事務所に着いたのが夕方の5時丁度の時間でした。
・・すると、机の上にコピーされた情報が置いてありました。
篠原千恵子さんからのものでした。その一つが下の新聞記事のコピーでした。
これはなかなか、スルー出来ない情報ですよ。 私には有難いありがたい内容です。
大阪にある四天王寺に武部さんに連れて行ってもらった時に、「物部守屋を祀っているんですよ」と言って、そのお堂に連れて行かれたんですがその時は、工事中で見ることができませんでしたが、武部さんが私にメールでその時、写真を送ってくれました。この武部さんの話と、下の新聞の記事と、私が空海コードで教えられた聖徳太子=蘇我入鹿=皇極天皇の父親は、「物部守屋だった!」という教えと全て重なります。
そして四天王寺で手を合わせる先は、長老ヶ岳という山でありその長老とは、物部守屋=用明天皇だと空海コードが語るその教えと、下の新聞の記事の内容には心が嬉しくも温まるものでした。
「かっての敵へなぜ祈る?」という疑問は、本当のことを今まで教育の場で教えてこなかったということなのです。
数年前に突然として、各大手新聞に一斉に「教育の場で聖徳太子とう人物名は使わないようななる」という記事に対して一斉にブーイングがあがってその意図は現在実行されていませんが、そろそろ歴史の嘘と真実が表にあきらかになる時期に来たということのようです。
四天王寺は聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿の父であり長老と尊ばれた物部守屋(用明天皇)を祀った寺院であることをわかった上で、どうぞ多くの方々にお参りに行ってほしいと私は強く願います。 どうぞ、御参りくださいませ。
四天王寺には物部守屋を祀る祠があると武部さんが教えてくれました。
2022年4月23日(土)
秋篠宮ご夫妻が伊勢神宮参拝のニュース。
伊勢神宮を祀るいわれには幾つかあるように思いますが・・その一つについて。
・・
桓武天皇の父である光仁天皇の墓である殿山から、聖徳太子と尊ばれ、片やその対極的ないわれを今世にまで引きずる蘇我入鹿であり、実は皇極天皇だったその祀り墓である皇極天皇陵(竜石山)までの距離と、
藤原不比等の長男である藤原武智麿の墓までが同距離で、皇極天皇陵(竜石山)と藤原武智麿の墓と、伊勢神宮(内宮)の3点は、綺麗な正三角形を描きます。
また、生野の地下神殿から皇極天皇陵までと藤原武智麿の墓までは同距離で、二等辺三角形を描きます。
伊勢神宮(内宮)と生野の地下神殿、光仁天皇の墓との三点を結んだラインを軸にして、皇極天皇陵と藤原武智麿の墓はキッチリとシンメトリー的位置関係にあります。
偶然でしょうか。 ・・いえいえそうではありません。 全て計画的配置なのです。 つづく・・
2022年4月21日(木)
改ざんされた隠された歴史の謎を解く鍵は、難波宮跡にあるようです。
その難波宮跡から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと、用明天皇陵までと物部守屋の墓までは略同距離です。
物部守屋は用明天皇だったと空海コードでは響いてきます。
2022年4月15日(金)
乙巳の変の謎を追いかけて10年を過ぎたであろうか・・。
前触れもなく突然、蘇我入鹿(皇極天皇)に切りつけた中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の出自がつかめなかった。
それが昨日、百済の最後の王ウィジャ(義慈王)とその息子、孝、泰、隆、演、豊(豊璋)、勇(百済王善光)の6人の王子の名を見ていて・・!
勇(百済王善光)の善光の文字が妙に気にかかった。 どこかで聞き覚えのあるよな・・・と。
私に浮かんできたのは善光寺の善光であった。それで地理院地図を開いて『善光寺』にポイントを打った。
そして私に浮かんできた名前は、なぜか「藤原鎌足」であった。 それで、鎌足公古廟から藤原直系である第50代桓武天皇が移し替えたと教えられた藤原鎌足のお墓にポイントを打って、タレスの定理で浮かび上がった駿府城にポイントを打って出来上がった図形を見ると、辺の長さが3:4:5の直角三角形『大矩』になっていることが分かった。以前から私の謎の一つに、「どうして家康は、秀忠に江戸城を譲ったあとに駿府城に固執したのか」が謎だった。
その謎が一気に解けたようだった。
そしてまた、藤原鎌足(614-669)の伝記をまとめた多武峯談山神社の縁起絵巻のデジタルデータの最初に『鹿島』の文字も出てくるのですが、出自をあいまいな言い回しで書いているのもスッキリしない部分でした。それで、それから鹿島神宮にポイントを打ってみると、鹿島神宮から善光寺までと駿府城までが同距離で二等辺三角形を描くのです。偶然でしょうか・・。いえいえこれは偶然ではありませんよ。間違いなく藤原鎌足の出自は、百済の31代、最後の王、ウィジャ(義慈王)であり、その子である豊(豊璋)の弟、勇(百済王善光 くだらのこにきしぜんこう)であると教えています。
・・ということは、中大兄皇子(天智天皇)が鎌足の兄、豊(豊璋)と響いてきました。 これが真実だということのようです。中大兄皇子と鎌足は兄弟でしたね。 謎が解けました!!このことを証明する空海コードはもう書き終わっています。
2022年4月9日(土)
今日は午後から、大阪 梅田スカイビルでの上森三郎セミナーです。
東京や福岡など遠方からも多くの方々が来られるようです。
有難いことです。みなさんに20日から発売される『ゼロリスト』や『テラファイト卑弥呼ゴールド』の最新情報などをお伝えします。
また、常々私は、歴史の真実を知ることで現人神の御霊が安らぐと思っています。
特に、卑弥呼、蘇我入鹿などの憂いている御霊を鎮めなければ、世界はますます混迷状態が加速すると思っています。
さあ卑弥呼の墓も蘇我入鹿の墓も特定できました。そして今日は、蘇我入鹿の父と母の墓も空海コードから導き出されましたことをご報告しなければと思っています。
良き日になりますように・・と。
2022年4月6日(水)
5月28日に役行者ゆかりの地であり絶対的ベンチマークポイントの役行者堂へと行きます。
以前このポイントから比叡山延暦寺根本中堂とイエス・キリストの墓とで正三角形を描いていることを知らされましたが、今度はもっと大きな正三角形が現れました。
この国の『長老とは誰だ!』と役行者は言ってますよ。
役行者の父は、聖徳太子=蘇我入鹿=皇極天皇でしたが、その聖徳太子が建立した四天王寺で手を合わせて祈る場所は『長老ヶ岳』でした。
四天王寺の場所と建築配置は絶妙な設計の上に造営されています。
役行者は、『お祖父さんが長老だ!』とおっしゃっていますが・・、お祖父さんって誰!? つづく
2022年4月4日(月)
長い長い時間をついやしました。
蘇我入鹿=聖徳太子=皇極天皇でしたが、その高貴な方の父親と母親が誰なのか!?
そしてそのお二人が埋葬されたお墓はどこなのか!?
悩みに悩みました。悩みながら長い長い時間が流れていきました。
でも時間的な猶予は全く無しの世の状況を見せつけられると、答えを見つけなければと・・焦りながらも集中しました。
・・結果、蘇我入鹿の父と母のお墓が特定できました。
空海コードは凄い! 凄すぎます。 この国の先人たちは超人だ! 宇宙人だ!!
私たちの御先祖様たちは・・凄い!
2022年4月1日(金)
日本には地域によって埋め墓と参り墓を造る両墓制の風習がありました。
蘇我入鹿の詣り墓は当初、前方後円墳の型式で皇極天皇陵として近江に造営されました。・・これが竜石山です。
でも、図らずも乙巳の変で暗殺されたので、公に祀られることを憚られました。
それで、蘇我入鹿を尊ぶ人たちの心の拠り所としての参り墓を、松尾寺の補陀落山に求めました。
この三カ所は、直角三角形を描いています。この三点を使って、過去と後々の大王たちの陵墓や埋め墓の位置決めがなされています。
大王たちと親族たちの埋め墓の位置が、夜空の星々のごとく見つけられるように、三角法を駆使して関連性を持たせて決められています。
このような個々の御霊を崇め祀る文化と歴史を作り上げている国がどこにありましょう。
この日本という国土は、素晴らしい御霊で輝き続けています。
もっとその輝きを煌びやかにするために、一刻も早く蘇我入鹿の御霊を国家を上げて祀らなければならない時に入ったようです。
・・、それで今、聖地巡礼ツアーとして日帰りでの蘇我入鹿の三墓参りを計画中です。 ご期待ください!
2022年3月31日(木)
徐福の墓 秦河勝の墓(生島) 蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)の三点は二等辺三角形を描いています。
地図に表されている徐福の墓は、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。 徐福の墓は新宮市の蓬莱山でした。(2023年1月2日加筆)
そしてその三角形の重心にはイルカの地上絵が造形されています。
竜石山は、蘇我入鹿=第35代皇極天皇を祀るために造営された前方後円墳でしたから、イルカと竜石山との中間点に何があるのかを調べると・・。
巨大なクジラの地上絵が造形されていました。
すぐその北には光明皇后の十字架の地下神殿が指し示していた愛宕山が在ります。そしてその北には、竜ヶ岳があります。
そして南のライン上には、星田妙見山(星田妙見宮)があって、もっと南に下ると・・、そこには、龍の立派な磐座がある竜王山です。
北には、高浜湾(若狭湾)に面する岩神(福井県高浜町)があります。
竜石山 竜ヶ岳 竜王山など竜 竜 竜と言う山の名前や、そこに立派な磐座が造形されていたりと、偶然ではあり得ません。
意味ある地名と、その十字架の中心近くに、愛宕山や星田妙見など信仰の拠点が重なったりすると、これはもう計画的配置であることの証明です。
その十字架の交点の近くに巨大なクジラの地上絵(造形物)があることも意味あるものです。
そして、この十字架の交点の近くには、第50代桓武天皇の墓や52代嵯峨天皇の墓が、愛宕山から全く同距離の場所に造営されていて三点は二等辺三角形を描きます。
いえいえ、その近くには、天智天皇や藤原不比等の墓もあったり、沢山の天皇家の方々の埋め墓も存在しています。
蘇我入鹿を祀る十字架が浮かび上がりました!
2022年2月25日(金)
四天王寺の建築配置は、長老ヶ岳に手を合わせるように造営されています。
その長老ヶ岳のコンターラインは、ヘビの鎌首をあしらっていました。
そして、推古天皇陵と長老ヶ岳とを結んだライン上に蘇我入鹿の亡骸は埋葬されました。
そして推古天皇陵、蘇我入鹿の墓とヘビの鎌首をあしらった長老ヶ岳のラインと直角に西へ行った場所に、巨大な蛇の地上絵をあしらった段ヶ峰があります。
段ヶ峰は、ユダヤの12部族の中で、王様の北、あるいは頭上を守護する任務であるシンボルがマムシのダン族の墓です。
峰はへブル語でお墓の意味であり、段ヶ峰はダン族のお墓という意味です。
推古天皇陵と長老ヶ岳と段ヶ峰は、ケプラー三角形を描きます。
そして、蘇我入鹿は、長老ヶ岳と段ヶ峰との三点で正五角形の一部となる三角形のポイントに決められました。
四天王寺の建築の流れからして、これらの場所の決定と配置から、長老ヶ岳のコンターラインが蛇の鎌首をあしらっていることが言いきれます。
そして、女性初の天皇である推古天皇も第35代皇極天皇であり聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿もユダヤのダン族の血脈であることをはっきりと言い示しています。
乙巳の変というクーデターの一つの要因は、大いにユダヤの部族闘争にあるようです。
我国も含め世界の紛争の歴史の中で、大いにマムシのダン族に由来するように思う私です。
クリミヤ紛争の底流に、そしてこれから各地域で起き出す世界紛争の底流にマムシのダン族の闘争心を感じるのは私だけでしょうか。
夜明けの晩に突入です。
そこで・・、私の役割は・・、私の存在は・・。
でも・・地上絵はグーグルマップからは見えないように改ざんされてしまいました。
2022年2月15日(火)
謎の継体天皇は、投馬国の首長であり初代出雲(伊投媽)の大王、弥弥(彌彌)の血や、応神天皇の血を受け継いでいると言ってますね。
そして・・、蘇我入鹿は継体天皇の血を引いていると空海コードは教えています。
継体天皇の墓から蘇我入鹿の墓までと比叡山延暦寺までの距離は、共に18.56㎞とピッタリ同距離です。
空海コードと申しますか、天台宗系と真言宗系、修験道達の恐るべし世界があるようです。
天皇たちは、恐るべし掟の世界に亡骸を委ねました。
2022年2月14日(月)
聖武天皇も光明皇后も蘇我入鹿の天皇陵と詣り墓と埋め墓の場所の全てを知っていました。
そして二人とも、それらの重要な場所に連なるように墓を造ったり、祈りの地下神殿を造ったりしています。
光明皇后は蘇我入鹿のひ孫にあたります。藤原不比等に後妻として橘三千代が嫁いで子供を授かった子が光明子ですが、不比等さんの血は受け継いでいません。
DNAは誰かも空海コードで読み解けます。
光明皇后がキッチリ愛宕山に向けて十字架の地下神殿を造っているのもジ~~~ンと胸に来るものがあります。
不比等さんの複雑な思いも伝わってきます。