鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

カイス・ブリッツ 第1話「異界の果て」(2)――2人目の転生者に迫る危機


第1話 異界の果て(2)


 
 火美名ゆきみは、走っていた――ポニーテールの髪を揺らしながら、恐怖と困惑に塗りつぶされた面差しに汗が滲み、極度の緊張ゆえか眼鏡のレンズを通した視野がたちまち狭くなってゆくのを感じながら、彼女は一目散に駆け抜けた。
「何なのよ、何なのよ、これは!?」
 早くも脚が突っ張ってきている。三十路に入って久しいとはいえ、火美名はまだまだ若く、体力には多少の自信があったはずだ。本来なら、だが。
「どうして、徹夜明けの社畜を全力疾走させるかな、空気読めよ!」
 今朝、眠れず夜が明けて、ただ惰性でマンションの階段を降り、ふらふらと歩いて駅に向かい、意識も朦朧とした調子でホームに辿り着いた。それが今日の通勤時だけの話ならともかく、今週に入ってから、ほとんど毎日だ。もし火美名の姿を知人が見たなら、思わず彼女の幽霊ではないかと感じたかもしれない。それほどまでに彼女は疲弊し、やつれきっていた。空の色も、街路にいま咲いている花々の名も、道ゆく人々の様子も、すべてがどうでもよく、たとえ彼女の視界には入っていても、おそらく何ひとつまともに認識されていなかった。
 ーーたしか、ホームに入ってくる電車をぼんやりと見つめていたら。近づいてくる電車の音が響いて、何というのか、光が、見えたとき、その瞬間に身体が前に動いたっていうのか。そして気づいたら……。
 あのようなものを、いわゆる《フラッシュバック》とでもいうのだろうか。あのとき彼女の中で反芻されたこと。《臨機応変》や《以心伝心》といった言葉でもって、自身の無計画ぶりや日頃の意思疎通の拙さを棚に上げて事を進めようとする上司から、例によって今日の朝にも、とあるプロジェクトに関してあまりに無理筋で無神経な方針変更があった。しかも、なぜこちらが罵倒され、叱責されないといけないのか。もう付き合いきれない。いわばそれは、無能な将のもとで、積み上げてきたこれまでの戦いの意味を一方的に、唐突に否定され、無意味な討ち死にへと強いられる兵のような気分だ。
 ――何で私、あそこで飛んだのかな。別に死にたいなんて、少しも……。分からないけど、流された、みたいに。たしかに一瞬は、躊躇した気もするのだけど。
 そこまでは覚えている。だが限界を超えてしまうとは、こうも突然、こうも抗い難いことだったのか。この世界と己とをつなぐ生命の糸が突発的に切れたような、何か抗い難い力に押し流されるようにホームへと飛び降りた衝動的行動は、火美名自身からしても驚くほど現実味の無いものだった。彼女は勝手に思い込んでいた。もしも、自殺できるほどの、何よりも恐ろしい死に向かえるだけの《勇気》があれば、生きて開き直って何でもできるのではないかと。それなのになぜ人は死を選ぶのかと。色々とその理由はあるだろう。だが少なくとも彼女の場合、あの世へと誘う死神は本当に不意に舞い降りた。事実としては、追い詰められてきた彼女が何らかの《限界》を超えたのだろうが、それでも本人の気持ちからすれば、一線を超えたことに対する自覚は曖昧であって、ほとんど無意識のうちに、ある意味で決断や選択の余地なくやってきたのだ。
 ――そういえば、時々、《人身事故》で電車が遅れると、私だって、あんなに不満をぶつけていたのに。なのに、まさか、やっちゃった……。
 気がつけば、入構してくる電車に吸いつけられるかのごとく、ホームに飛び込み、一瞬、身体が宙に浮いた。そのあとは自分でも分からない。きっとすごく痛かったのだろうが、覚えていない。だが、なぜ今、意識がある? それにこの生々しい感触は。足の裏で大地を踏みつける、はっきりとした感覚は、一体どういうことなのだろう。
「あぁ、もう、悪い夢! でも、夢なわけがない、こんな現実そのものの感覚。もしかして……ここ、異世界って、やつ?」
 万が一にも、これが、近年はやりのいわゆる《異世界転生》物の小説の中だったなら、もう少し《転生者》に優しい状況で物語が始まっただろうにと、意味のない妄想が瞬時に浮かんで消える。彼女は自嘲気味に口元を緩めた。
「はは、チートも無双も、ありゃしないって?」
 緑の壁のように濃く、厚く茂った樹木や藪が、彼女の左右を埋め尽くしている。その間を伸びる一本の隘路は、獣道も同様、心細いほどに狭く、足元も悪いにせよ、妙に人工的に周囲の空間とは明瞭に切り分けられている。
「ここはどこ? 何で、いきなり追いかけてくるの」
 必ずしも動きやすいとは言えない、いや、少なくとも走ることには向かないであろうグレーのスーツをいつになく窮屈に思いつつ、慣れない荒れた道に足をとられそうになりながら、火美名は死に物狂いで逃げていた。わずか数メートルほど後ろのところまで、何本もの脚をもった姿勢の低い影が、ひとつ、ふたつ、併せて5体ほど迫ってくる。比較的長身の彼女と、ほぼ同じ体長をもつ蜘蛛のような生き物だ。いや、毛の生えた焦茶色の胴体は、たしかに地を這う蜘蛛のようだが、そこには不似合いな、犬のような、あるいは狼を思わせる顔が付いている。火美名自身には分からないだろうが、それらは。
 
 明らかに、《カイ(怪異)》だ。
 
 カイたちは野犬よろしく吠えたて、その一方、ある種の衛生害虫を連想させる動きでカサカサと地面を這い、みるみる迫ってくる。
「気持ち悪っ!!」
 カイの動作に思わず身震いした火美名は、これによって注意を一瞬奪われたため、地面に横たわるツタに足首を引っ掛け、前のめりに転んでしまった。右足の靴が脱げ、膝から血が滲んでいる。そのとき……。
 
 ――ゆきみちゃんなら、きっとやれるよ。ママの自慢の子だもの。
 
 刹那の時間を争う今の状態で、彼女の脳裏に不意に言葉が浮かび上がった。火美名は無意識に顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「そうやって、いつも勝手に期待して、押し付けないでよ」
 憎悪の言葉を口にしたとき、そのたった一瞬で火美名に追いついたカイの一匹が、牙をむき出しにして飛び掛かってきた。相手は、ろくな知性ももたない低級の《アヤカシ》タイプのカイにすぎないが、何も知らない突然の転生者にとっては手強い相手だ。戦慄のあまり、もはや痛みもどこかに飛んでいってしまい、彼女は悲鳴とも雄叫びともつかぬ声で叫びながら、脱げた靴の隣に転がっていた大きな石を両手で持ち上げ、目の前のカイに向けて打ち下ろした。嫌な音と感触を残し、カイは頭を潰されて倒れた。蜘蛛のような脚は痙攣したように動いているが、もう瀕死の状態だろう。
「そうよ、これもみんな、今日に至るまで勝手なレールを敷いて無理強いした、あんたのせい。何が母親よ。おかげで私は、とうとう、こんなわけのわからないところまで突き落とされた」
 火美名の手は返り血で真っ赤に汚れている。たとえ相手が異形の存在であろうと、ある程度以上の大きさの生き物を躊躇無く叩き殺すことは、普通の人間には簡単ではなく、どこかで無意識に手加減をしてしまうかもしれない。だが、命の危険を本能の次元で確信したからだろうか、彼女の反抗は、リミッターが外れたかのように凄まじかった。偶然に呼び起された、母に対する底知れない憎悪も加わって、彼女は半狂乱で石を振りかざしている。 
 さらに1匹のカイを倒したとき、火美名は石を手から落とした。それを拾う余裕さえない彼女は、錯乱状態も同然に、周囲の小石や木の枝を手当たり次第に拾い、残るカイの群れに投げつける。彼女からの反撃に驚いたのか、仲間が2匹も倒されて恐れをなしたのか、若干怯んだようにカイたちの動きが悪くなった。その隙に、火美名は一目散に逃げ出した。脱げた靴を履くことはもちろん拾うことすら忘れ、足が傷だらけ、血だらけになっても、彼女は駆け続けた。
 奥深い森の小径がさらに細くなり、両側から寄せる木々を半ばかき分けるようにして進み続けた先、視界が突然に開ける。忽然と広がる空間へと、勢い余って転がるように火美名は飛び出した。
 その場の異様な雰囲気ときたら、それは、半狂乱の彼女をも有無を言わさず我に帰らせるほどだった。まるで辺りの空間が凍り付いたのかと思わせる不気味な静けさと、そして肌を刺すような、どのように表現すればよいのだろうか――得体の知れない何かの気配に呑み込まれそうな、圧倒的な濃密さをもって四方から迫ってくる独特な空気は、もはや液体ではないかと錯覚しそうなくらい、否定し難い実在感を突き付けてくる。
「あれは――お城? 違うか。かなり大きいけど、こんな場所に誰かの屋敷が……」
 自身の背丈よりも高い板壁が張り巡らされた向こうに、層を成し、黒々とそびえる館。先ほどからずっと何かの存在を感じるものの、建物の周囲には人の姿かたちも見当たらず、獣や鳥が動く音さえもしない。ただ、気が付けば、彼女を追いかけていたカイたちの姿もなかった。まるで、この黒い館を前にした途端、逃げ出したかのように。あるいは――あまり考えたくないことだが――彼女をここまで追い立てるという役割を果たして、《猟犬》役のカイたちが帰ったとでも?
 実際の高さ以上に大きくそそり立って見える黒い建物は、こちらを押し潰そうとでも言わんばかりに、明らかに危険な空気感に満ちている。それを目の前にした火美名は、金縛りにあったも同然に立ちすくんでいた。
 ――あそこに入っちゃだめ。二度と出てこれない気がする。でも、どうして……。
 自身の心の中で感じた本能的な警告とは裏腹に、彼女はふらふらと門をくぐり、眼鏡の奥で目を虚ろに細めながら、いつの間にか、吸いつけられるように館の玄関前にたたずんでいた。
「どうして、こんなに中が見たいと思うんだろう? 何だか、我慢できない。不思議な気持ち」
 つい今しがたまで掃除が行われていたのかと錯覚しそうなほど、入口周辺は見事に掃き清められ、柱や床は艶めくほどに磨き上げられている。玄関の格子の向こうに広がる薄闇に視線を泳がせ、不安げに一瞬立ち止まるも、火美名は抗し難い様子で、魔の棲まう館の中へと遂に歩みを進めた。
 
 そこに何が待っているとも知らずに。
 
 【次回に続く】
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