城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

「北岳山小屋物語」を読む 23.2.9

2023-02-09 15:25:14 | 山登り
 県図書館から樋口明雄著「北岳山小屋物語」を借りてきたので、その内容を紹介する。その前におじさんの山小屋遍歴から始めることにする。最初に山小屋に泊ったのは、1969年8月の表銀座コースの燕山荘(2021年11月小屋創立100周年の年に再び泊った。52年ぶり!)と槍ヶ岳山荘だった。その2年後(まだ大学生)再び同じ仲間と北岳~間ノ岳~塩見岳を縦走したが、肩の小屋には泊らずテント泊だった。就職した年に、西鎌尾根~槍穂縦走を一人で自炊小屋泊まりで行ったが、この時の混雑振り(寝返りをうつともはや寝る隙間がなくなってしまう)に懲りて、以後基本はテント泊するようになった(小屋泊まりでも自炊)。テントになったのは、山ともや職場の山岳会で登るようになったこともある(当時のテントは今から想像できないほど重く、居住性も悪かった)。現在の山小屋は、その当時と比べると格段に食事内容、居住性(特にトイレ)が良くなった。建築資材、食糧、ごみ、汚物などはヘリによって運ばれるようになり、下界での生活と大きく違わなくなった(もちろん入浴などはできないが、一部シャワー(もちろん有料)のあるところもある)。

 「北岳山小屋物語」 内容は「山と渓谷」2018年4月号~2019年12月号に掲載されたものに加筆・修正を加えたもの

 「北岳山小屋物語」で紹介されているのは、白根御池小屋、広河原山荘(令和4年6月にリニューアルオープンしているが、その前の建物)、北岳山荘、北岳肩の小屋、両俣小屋の5つである。

 「北岳山小屋物語」から

2017年7月にキタダケソウを見に北岳に登ったときは、御池小屋に立ち寄り、肩の小屋に一泊した。広河原山荘はバス停から橋を渡ると右側に見えてくる建物であるが、通過しただけであった。北岳山荘は大学生の時に見た山小屋とは違っていて、1977年著名な建築家黒川紀章の設計により建設されたようで(この本で初めて知った)、全室富士山が眺望できる、水洗トイレといううたい文句があったと記憶している。山小屋でほぼ共通するのは、小屋の管理人(昔風に言うならば小屋番)がおり、その管理人の経験あるいは考えから生み出される運営方針、ノウハウが言わば小屋毎の個性、違いともなっていることである。

 御池小屋 2017年7月2日 とても立派な小屋 南アルプス市所有

 肩の小屋 2017年ここに泊る 到着時間が早かったこと、翌日の天気が良くないことなどからキタダケソウを求めて山頂、さらには北岳山荘側に下り、何とか見つけることができた
 当ブログ2021年6月16日「百名山の花・南アルプス北部篇」に詳しい こじんまりしている小屋で何となくアットホームな感じのする小屋

 管理人は、建物を所有する県、市、あるいは企業で採用されているが、管理人の親やお祖父さんが建てた小屋(5つのうち肩の小屋)もある。管理人の仕事は、オフシーズン(北岳山小屋の場合営業は6月中旬から11月上旬)にまずアルバイトを募集することから始まる。白根御池小屋の管理人、高妻潤一郎は、山小屋のアルバイトをしたいと電話で言ってきた20代の女性を待つ場面から本は始まる。結局、その女性は現れなかった。経験したことがないことだった。例年10名程度(男女5名づつ)雇う。高妻は言う「近頃の若者は、できる子とできない子の差が明確だと」「多くの若いスタッフは最初の段階では張り切っている。自分たちなりに山小屋の仕事に、夢とか憧れを持っている」「夜は街明かりもなくて真っ暗だし、コンビニもファミレスもないようなところに一ヶ月とかそれ以上いるんだけれど、それでもいいの?というと大丈夫です胸を張って応えてくる」「ところが小屋で働き始めると、何日もしないうちに多くが疲弊し、萎れてしまう。中には途中で脱落する若者もいるが、頑張って仕事を続ける若者がほとんどだ。」「つかの間の休暇・下山を許されると、ハンバーグや牛丼をむさぼり食う。」。今の若者気質が現れていて、とても興味深い。

 小屋を開けるためにまずしなければいけないことは、雪どけで積雪が多いときは特にきつい仕事となる。そして、発電機を動かし、水源から水をひくようにしなければならない(肩の小屋などは料理などを除くと今でも生活用水は天水たより、ここでは従業員はシャワー)。この水源も厚く雪に覆われている。食糧等はヘリによって麓から運ばれてくる。荷揚げの準備と揚げられた荷物をすばやく運び込む。こうしてオープンの日を迎え、掃除、洗濯、料理や配膳、それに客の接待というルーチンの仕事が続いていく。この中でも若者の間では差が出てしまう。御池小屋では、客室の掃除の徹底は当然として、布団のたたみ方に至るまで細心の注意を払う。おじさんにとって耳が痛かったのは、「料理がちゃんと出来る子は、だいたい何をやらせても上手なんです。逆に料理をしたことがなくても、他で器用な子は、すぐに料理を覚えます」(おじさんは不器用だ!)。

 管理人はほぼ山のプロである。遭難があった場合、最初に駆けつけるのは管理人ということになる。その管理人が遭難者のけがの状況などを判断し、警察などに連絡する。悪天候でヘリが飛ばない場合、小屋まで背負うか担架を使って運ぶ。北岳の最大の岩場、バットレスを登っていた男女二人が雨の中で遭難した時、肩の小屋の管理人が山頂から懸垂下降して、現場に到着したが、既に低体温症で二人とも死亡していた。北アルプスでは夏の繁忙期、医者や看護師や医学生が常駐している山小屋が多くある(1975年7月おじさんを含む同じ職場のメンバーが神岡新道から笠ヶ岳まで縦走したときのことだった。おじさん(当時25歳)より年上のOさんが尿道炎を起し、三俣蓮華小屋の診療所で手当を受けたことがあった)が、南アルプスにはなかった。設置のために尽力したのが、塩沢久仙(ひさのり、広河原山荘の初代管理人、芦安山岳館初代館長)と小林太刀夫(昭和大学藤が丘病院長、医学界の重鎮として広く名前を知られる、山好きなお医者さんだった)で、1979年に開設された。

 「山登りする人に悪人はいない」と昔は言われたが今はどうか(昔は単に盗むものが少なかったからなのかもしれない)。小屋の外にトイレがあるが、ここで盗難が多発している。まずは、予備で置いてあるトイレットペーパーを勝手に持ち帰る(盗んだという感覚が薄いのか)。テント場で小屋のだとわかるペーパーを食器を拭くために使っているのを管理人が見つけた(管理人は何も言わなかった)(盗まれるので予備はおかないようになったとか)。さらに悪質なのが入口にある料金箱(寄付ということになっている)からお金を抜き取る人がいるそうだ。ザックをデポしてあったりすると金目のものを盗むこともある。ここまで酷くなくても、小屋を使用する時のエチケットには注意したい。おじさんも無事小屋に着いた時、仲間とミニ宴会となるのだが、つい酒の影響で大きな声となる。我々の話の中に加わっていないグループにとって、極めて騒がしく思うであろう。

 新型コロナの影響で、山小屋は予約制となり、感染防止のため人数を制限した。昨年の1月19日のブログに「山小屋クライシスを読んで」を書いたので、こちらも一緒に読んでいたけると嬉しい。
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雪の貝月山へ 23.2.5

2023-02-05 19:24:19 | 山登り
 おじさんは、ここのところ集団での登山に魅力を感じている。ただし、その魅力はそこに参加することではない。その集団を組織(というより登山好きな人に声を掛けるといった軽い感じ)し、そこには昔からの仲間だけではなく新しいメンバーも加えていきたいと思っている。Eさんと共同代表している「城ヶ峰を登る会」はその一つであり、そこに参加するメンバーで雪山に興味を持つ人たちに呼びかけて新たに作ったのが「雪山に登り隊2023」(確か「槍ヶ岳に登り隊」というのがツアー会社の登山ツアーにあったのでそれをぱくった)である。もちろん北アルプスのような高い山を目指す(無理だから)のではなく、あくまで揖斐の雪山にできるだけ登りたいというのがその趣旨である。例え、1000m級の低山とはいえ時には、ラッセルを要するような時もあり、容易に山頂に立つことはできない。揖斐の山のほとんどは、ヤブ山であり雪の時期こそ登るのに最も適している。だから、登る人も少なく、静かな山歩きを楽しむことができるのである。その「雪山に登り隊」であるが、ライングループで今9人参加者がおり、この中には経験の少ない二人を含んでいる。できるだけ多くのメンバーが参加できるような山行プランを作っており、その第一号が今日の貝月山ということになる。

 今日の貝月山は、朝方雨や雪が降ったものの、良い天気に恵まれた。その上、トレールが山頂までついており、比較的楽に山頂に達することができた。今回、メンバーにはワカンまたはスノーシューとアイゼンを用意するよう連絡していたが、これだけではやや足りないようだった。冬用のロングスパッツの着け方が分らないとか、アイゼンのはき方がやや不明とか、ストックがシングルとかという問題が出ていた。まずは、ワカン等はザックに着け、壺足で登ることになった(おじさんだけが10本のアイゼンを最初から着けた)。途中から、皆さんはワカンなりスノーシューを着けた。今日の登山ルートは夏道を通ることが多く、既にトレールが出来ており、ここを歩く限りにおいて、ワカン等は必ずしも必要なかった。他の登山者を見ても、ワカンかスノーシューを着けたグループ、アイゼンのみ着けたグループ、何も着けていないグループに分かれていた。そうなると、自己の雪山経験から判断するしかないということになる。では初心者だったらどうするか。同行のリーダーやメンバーに聞くほかないのである。色々試してみることが重要である。

 面白くもない話ばかりしてしまった。後は写真で紹介する。

 貝月ゲレンデ出発 7:49 既に車が何台かあったので、先発した登山者が大勢いる

 未明に降った雪か 8:06

 分岐点(避難小屋)手前 8:25

 分岐 8:40

 9:01 トレールがしっかり出来ている

 9:03 雪の華

 9:44 緩やかな斜面

 10:07 見えるのは小貝月か

 10:27 小貝月山

 10.27 小貝月から貝月山頂を目指す 女性登山者

 10:36

 10:42

 10:52 もうすぐ山頂だ

 11:08 貝月山山頂 標示板が埋まっている

 山頂展望台

 おじさんたちのグループ 昼食風景 

 御岳 乗鞍 12:27 先行者が大勢いたのにも驚いたが、私たちが下る時にも多くの登山者がいた

 下山時 多くの家族連れが雪遊びを楽しんでいた

コースタイム 貝月ゲレンデ7:49→分岐8:40→小貝月山10:27→貝月山山頂11:08~11:45
       →貝月ゲレンデ13:55

 最後に気になった点について書いておく
◯今日は10人(O山岳会の3人、もちろん山仲間)での登山であったが、最初O山岳会のOさんが先頭を行った。ここまではグループは分かれていなかったのだが、Oさんが先頭を代わった後、小貝月の登りの手前でグループが分かれた。もちろん、おじさんのように遅い人がいるからなのだが。しかし、グループ登山においては、遅い人がいても先頭はそれに合わせて待っている必要がある。結局、2~3グループに分かれて山頂に立った。天気が良いので体力のある人は速くなる(自分としては遅いペースであったとしても)。しかし、これが悪天時、見通しが利かないような状況だったらと思うとグループ登山としての体裁すら整えていないことになる。さらにいけなかったのは、ワカン等を装着する時期が分かれてしまったことである。これらの原因は、リーダーの力量不足(今回の場合おじさんの体力不足と強いリーダーシップ)ということになるだろう。雪山登山では体力差が特に出やすいとも思う。


コメント (2)
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姜(尚中)さんの本を読む 23.2.2

2023-02-02 20:00:04 | 面白い本はないか
 
 今日はブログを開設してまる4年になる記念の日である。その前2年以上にわたって、かつて所属していたO山岳会のブログも書いていたので、あわせると6年以上書いていることになる。前は山の報告の記事ばかりであったが、自分のブログを書くようになってからは、山ばかりでなく今や自分の生活の一部ともなっている読書や野菜づくりや庭の花について、日記風に綴ってきた。野菜や花は、ほとんど同じことを繰り返していることになるが、それでも時には大成功したり、思わぬ失敗があったり、新たな発見があったりと決して飽きることはないのである。いよいよ5年目となる今年も何かしらの発見があったりしたら、皆さんとともにそれを楽しんでいきたいと考えている。

姜さん、著名な政治学者であり、エッセイストであり、時には小説家である。一月彼の本を5冊読んだ、五木寛之との対談本「漂流者の生き方」(対談本が極めて多いのも姜さんの特徴か?)、「母の教えー10年後の悩む力」、「維新の影ー近代150年、思索の旅」、そして実話なのかフィクションなのか見分けが付かない「母ーオモニ」、「心」。


 「母の教え」には著者が読み書きできなかった母から受けた生きていく上での教訓とも言うべき教えが自分の血肉ともなっていく様を書く。母、長男の死を経て、長野県追分に住まいを定めた。執筆のかたわら、小さな野菜畑を作り、失敗しつつもその収穫を楽しむ。さらに関心はバラやクレマチスに向かう。ここまで来るともっと他の本も読んでみたくなるのは当然である。少しだけ文中から引用する。「母の言葉には、一抹の寂しさとともに、ここまで歩んできた道のりへの、限りない矜持の年が宿っていた。自分は生きた、生き抜いたという自負が、母の表情に溢れていたのである。」「私たちは、今「終活」に向けて、その準備の季節を迎えつつある。今にして思えば、「山」に棲もうと思ったのも、孤独が際立つ都会ではなく、孤独を楽しみながら、生きることを分かち合い、そして、別々の最期を迎えるための、絶妙な距離感を求めていたからだ。」

 2018年は明治維新(1868年)から150年の節目に当たる年だった。政府によると「明治以降の日本の歩みを改めて整理し、未来に遺すことによって、次世代を担う若者に、これからの日本のあり方を考えてもらう契機とする」との趣旨だった(ただ、庶民の間でその節目を祝おうという雰囲気はあまりなかったように感じているのだが。)。果たして、私たちはこの150年を振り返り、輝かしい未来を手に入れることができるだろうかというのが姜さんの疑問だった。この疑問について考えるため、日本全国の様々な正負の遺産を訪れ、思索を深め、それを「維新の影」として発表した。軍艦島、足尾銅山、水俣病、変わったところでは共産党本部というのもある。訪れた場所が多く、残念ながら深い探求とはなっていない気がする。特に気に入らないのは「苦海浄土」の石牟礼道子さん(随分年をとってしまわれていた)とのツーショットだった。「川崎コリアタウン」を訪れたときの記事を紹介する。80年代半ば、居住する埼玉県で、「在日韓国・朝鮮人」に強要されていた指紋押捺拒否の第一号になってしまった私の中に揺らめいていたのは、地域への、社会への、そして国への共生のラブコールだった。「ともに生きたい}、だから地域に生きる仲間として遇して欲しい、その思いだった。また、こうも言っている。懶惰(らんだ)、不逞、猜疑、貧困、無知など否定的な表象を一身に背負った「一世」は、同時に「二世」(著者を含む)にとって圧倒的な存在感を持った、自らのルーツそのものであり、こうした否定と肯定の愛憎併存こそ、実際には、多くの「在日二世」たちの宙ぶらりんなアイデンティティを支えていたのである。

 次に読んだのが、「母」。姜さんの自伝的小説である。彼の父親は第二次大戦前に日本に渡り、軍需工場で働いていた(この当時、日本の男どもは兵隊にとられ、労働力が大いに不足していた。一方で朝鮮には仕事口がなかった。戦争が進むにつれ、半ば強制的に労働力を集めるようになっていった)。その父親の妻となるべく、母親もまた日本にやってきた。東京から名古屋そして熊本(父の弟が憲兵を当地でしていたー弟は大学卒、この経歴がどのような結果を招いたかは語られていないが、韓国で著名な弁護士として活躍したあと、事業に失敗し、不幸な結末となる)に移った。戦争中から戦後にかけて、生きていくのは日本人にとっても過酷なことであった。まして、何の資産や頼れる係累もない朝鮮からの移住者(朝鮮半島の混乱で帰りたくても帰れない、そして続いて起こった朝鮮戦争、軍事政権の樹立などによって心ならずも日本で生きていくしかなかった人々)たちにとっては厳しいものであった。著者のオモニは、商売上手で廃品回収で才覚を発揮し、永野商店として発展させていった。著者はそのオモニの3番目の男子(戦時中に生まれた最初の男子は乳児の時に栄養不足で亡くなっている)として生まれたが、長ずるにつれ、「ちょうせん」と呼ばれることやその習俗(オモニの行う祭祀など)を忌避していた。しかし、叔父との交流、父母の地の訪問などにより、通名の「永野鉄男」から「姜尚中」と名乗ることを決意するのだった。オモニは姜さんを「センセイ」と呼んだ。オモニは感情表現豊かで、困っている人にはすぐに手をさしのべるような人だった。「もうよかよ、たくさん生きたけんね。そっとしておきなっせ」とでも言いたげに永遠の眠りについた。

 この本を読んでいて思い浮かぶことがある。廃品回収業、昔屑屋さんと言われた。おじさんの子どもの頃、忘れられない顔が思い出される。なぜだかわからない、いやに鮮明に覚えているのである。とても低姿勢で誰にでも挨拶するお祖父さん、いつもリヤカーを引いていた。おじさんは、缶などの鉄製品を川などから拾い集めて、それをそのお祖父さんのところで買ってもらった。それで仲間とお好み焼きや焼きそばを食べた(その商店の目の前にそのお好み屋はあった)懐かしい思い出がある。今や清掃事業として、お祖父さんの孫の世代に引き継がれている。

 閑話休題。
 最後に「心」を紹介する。著者と(西山)直広という20歳の青年とのメールの交換で話は進んで行く。この青年、彼の親友、そして二人が密かに思いを寄せる女性、そして親友が亡くなり、彼から託された女性への愛の告白の手紙。まさしく夏目漱石の「こころ」の構図(ずっと前に読んだのでしっかり覚えてないが、直接関係あるわけでないからよいだろう。)だ。ここで問われ続けるのは、死、私とは何なのか答えの容易に出ない重い課題。さらに西山青年が東日本大震災で経験した級友一家の死とボランティアでの海からの死体の引き上げによりたくさんの普通でない死に直面し、その疑問はさらに深くなっていく。直広くんはなんとかそれらの困難を乗り越えていく。そしてこの直広くんは自殺した息子とは全く違うものの、その息子と思わず重ねてしまう著者なのである。

 姜さんは在日二世であるが、これは彼が選択したわけではない。愛知県に多い在日ブラジル人(彼らは日系人であることから就労についての制限はない。これは人手不足という資本側からの要請で来日したのだが、当然日本で生まれたブラジル人も多い。今や在留外国人は270万人にも達している。私たちは彼らを労働力(日本の賃金は今や彼らにとって魅力があるものでなくなりつつある)としてだけ考えるのでなく、生活を共にする仲間、隣人として考える必要がある。人口が減少する中で私たちは出自を異にする人々と共生する道を探っていかなければならない。











 
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