備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム90.都羅比神社と玉姫明神

2008-11-29 18:58:01 | Weblog
国内神名帳に載る古社「都羅比神社」は、現在、存在しない。「都羅」というのは、かつて孤島であった「連島」(旧名「都羅島」)地区に限るのか、旧児島郡の西部にあったと思われる「都羅郷」を指すのかも、不明(「都羅比神社」の項参照。2008年6月27日記事)。
「連島町史」(昭和31年3月)には、次のような内容の記述(以下、要旨)がある。
連島には「玉姫明神(一の明神)」、「玉取明神(二の明神)」、「子守明神」という三明神がある。玉姫明神と子守明神は大岩に注連縄を張って祀り、玉取明神は少し離れたところに小祠がある。この三明神を合わせて「都羅比明神」としたのだろう。そして、社殿が続いて火災に遭ったので残っていないとか、かつて「海若宮」と呼ばれた「箆取神社」に合祀された、という説もある。「箆取神社」には白鳳時代の創建と称する伝説があるが、古文書の中にこれを証するものがなく、あるいは三明神の伝説を取り入れたのではないか。
さて、この「三明神」の伝説とは、おおよそ次の通り。昔、神功皇后が三韓征伐から帰ると、妹姫(玉姫)が懐妊していた。神功皇后はこれを怒り、妹姫は空虚(うつろ)船で流された。連島の漁師が発見し救助した。漁師は手厚く看護したが、母子とも亡くなってしまった。この2人を祀ったのが玉姫明神と玉取明神である。子守明神というのは、この母子の後を追って亡くなった侍女を祀ったものである、という。玉取明神が少し離れて祀られているのは、早産で生まれて亡くなり、当時の風習として菰巻きにして海に流された(水葬)が、沖に流れず、戻って来てしまうので、浜の松の木の根元に埋めたからだ、とされる(その松の木があったところが、玉取明神(玉取社)のある場所だという。)。また、姫は亡くなると、大蛇となって昇天したとも、子蛇となって大岩の割れ目に入っていった(そのため、この大岩を祀った。)ともいう。
神功皇后の本場は九州だろうが、牛窓を始め、瀬戸内海各地にも種々の伝説が残る。神功皇后の妹姫といえば、近くでは備後国・福山市鞆の浦にある「淀姫神社」が有名だろう。備後国式内社「沼名前神社」は神功皇后が大綿津見命を祀った(そのとき、自らの鞆を奉納したということから、「鞆」という地名になったという。)が、妹姫である淀姫(豊姫、豊玉姫あるいは虚空津姫ともいう。)をこの地に留め、祭主として奉祀させたという。

「玉姫玉取社(一の明神)」の場所:連島西浦小学校(倉敷市連島町西之浦3575)の西口近くに「箆取神社」自動車参道登り口があり、少し登ったところの「大師堂」の脇の石段を登る。「玉取社」は小学校西口の南約50mの住宅に挟まれた場所。隣に「粉河寺」という小堂がある。いずれも昔ながらの家並みの残る地区で、道がとても狭く、駐車スペースはない。


写真上:玉姫玉取社(一の明神)鳥居と標柱


写真中:「一の明神」と「子守明神」とされる大岩


写真下:玉取社(玉取明神)


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