
写真は、葬儀場安置室に横たわる父。 まだ納棺前だから死に装束は付けていないし、死に化粧もしていない。
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地元理髪店 (関東近郊) で葬儀の費用の話しが出て、一声で「¥300万 かかるわよね」ということでした。 この本には平均 231万円 ともあり、父の葬儀費用はもっと安かったから、地方都市の相場は関東より安いのでしょう。
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「利益率は 50%、高いか安いか ~ 窪田 順生著『死体の経済学』」(2月25日 評:稲泉 連/日経ビジネス ※追加1へ)
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元々 父が利用した葬儀場は月払いの分割積み立て会員だったから、様々な細目費用がセットになっていたので、少しは安く上がったのかもしれません。 個々の費用を見ると、確かに安くはないが、オプションがそんなにある訳でもないから、それを利用するかしないかの取捨選択になってしまうものが殆どでした。
それに、生前 父は「死んだことをあまり回りに知らせないでおくように どうもあの人は死んだらしいということにしておいてくれ」といっていたから、派手に葬式をする必要もありませんでした。 法名も最低の費用でいいということだったから、お寺には特にこれこれの院号を付けて欲しいとも希望しませんでした。
正に「先に逝くが勝ち」で、あとは残された者が色々と即決で手配しなくてはなりません。 死んだら、どのような葬儀になろうと文句も希望もありません。 殆どは家族の対外的な見栄で、その内容を決めているのではないでしょうか。 最近は、そのミエを張ることも少なくなってきたから、家族葬/密葬が多い。
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それにしても、人が死ぬと様々な後処理があるので いささか驚きました。 まず残された母が年金支給を引き継ぐために、市役所へ出向いて多くの書類を用意しなくてはなりません。 市役所の多くの部署へ行って書類を集め、更に出生から死亡までを記載した戸籍謄本も本籍地から取り寄せ、年金証書なども含め 10種類くらい用意して窓口へ行来ました。
それらを手配したのは、母ではなく 我々子供です。 窓口でついグチも出てしまった __「いやぁ 恐ろしく書類がたくさん必要なんですね~」と。 すると窓口氏がいうことには、「そうなんですよ 高齢の方はこれを自分でやってると体調を崩しちゃう人が多いんですよ~」
おいおい、そちらが要求した内容だよと思いましたが、いち担当者が必要書類を増やしたり減らしたりできるはずもないし、社保庁/厚生省が決めているんだろうから、そうはいいません弟子た。
その代わり、母にいいました __「良かったね やってくれる子供がいて」「みんなそうだよ~」__ 子供に処理を丸投げしているんですが、仕方がない。 母は80を越えているんですから。
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その後 印鑑証明やら実印やらを兄弟でそれぞれ持ち寄って相続書類を作成、3箇所の金融機関 (銀行/郵便局/証券会社) に出向いて遺産相続を行いました。 終わってやれやれ、ぐったりです。 信託銀行で相続代行業務を行っているのも納得です。
これら後処理は、時間も手間もたっぷりとかかりますから、カネを出すからやってくれというお金持ちもいることでしょう。 幸い 我が家では相続する遺産も大した額ではなかったので、我々兄弟は相続せず 母が父の遺産を全て引き継ぎましたよ。
今日はここまでです。
※追加1_ 子供の頃に一緒に暮らしていた家族が亡くなり、東京都内の火葬場へ初めて行ったときのことだ。 続々と到着するお棺の多さに、都心の現実を見せられた気がした。
日本では年間に約 110万人 が亡くなる、という統計の数字を引くまでもなく、「死」は社会の中に自明のものとしてあるに違いない。 ただ、頭ではそう理解しているつもりでも、日々の生活の中でそれを実感する機会はとても少ない。
火葬場の混雑風景を目にしたとき、近しい人の死が初めての経験だった当時の私は、普段は見えない「死」という日常を突きつけられた気持ちになった。 社会には確かに「死」があふれていて、それはとても身近なところにもある。 自分にとってかけがえのない別れの場だったからこそ、ふと考え込んでしまった瞬間だった。
本書はそうした「日常としての死」、とりわけ葬儀ビジネスの現場をリポートした一冊。 タイトルに「経済学」とあるように、葬儀費用の実態がまず明らかにされていくのだけれど、そこに垣間見える業界の特性をどうとらえるかで、印象はだいぶ異なってくるように思う。
例えば、日本における葬儀の平均費用は 231万円。 本書には、この額は果たして「高い」のか、それとも「安い」のか、という問いかけが底流している。
内訳や原価だけをみれば、確かに「高い」。 元手のほとんどかからないドライアイス代が1日1万円、レンタルされる祭壇は業界通の人物でさえ「本当の値段は分からない」と話すほどだし、中国製が席巻する「棺」の原価などはさらなるブラックボックスだというのだから。
葬儀業界には「葬儀屋は月に1体死体がでれば食っていける。月に2体死体がでれば貯金ができる。 月に3体死体がでれば家族揃って海外旅行ができる」との格言があり、利益率は 50% (悪徳な業者だと 70%) とも言われているそうだ。 しかし著者はこのことを指して、不当ではないかと声を荒げるわけではない。
● 知らぬが仏の葬儀ビジネス ●
葬儀は弔いの「儀式」であり、残された者の心と深くかかわるものだ。 通夜や告別式をせずに火葬する「直葬」で死者を深く悼む人がいれば、どんなにお金をかけても心を尽くし切れていないと感じる人もいる。
さらに、様々な過酷な状況で遺体処理を行う重労働であることを考えれば、1万円のドライアイス代を「遺体に触れるサービス料」ととらえる彼らの話は不自然ではない。 ある関係者が葬儀ビジネスの本質について、「”知らない” ということに尽きる」と著者に本音を漏らす箇所がある。
祭壇や生花や棺の値段も、一般に知られていないからこそ利益率が高くでき、同時に葬儀の格式を高めることにもつながる。 知らぬことは、葬儀社にとっても遺族にとっても好ましい、という理屈がこの世界にはあるというのだ。
しかし こうした葬儀ビジネスの「閉鎖性」は、近年徐々に崩れているらしい。 収益構造への疑問の声は業界への不信を生みかねず、その声に応じるように「格安プラン」を用意する「葬儀ベンチャー」も増えてきた。
著者は〈これまでのような「祭壇中心主義」ともいえるビジネススタイル〉が崩壊しつつあるという視点のもと、葬儀ビジネスの「最前線」に足を運ぶことで、その変革の兆しを見いだしていく。
キーワードは二点──「遺体に触れるサービス」の充実化と、〈まったくの異業種から遺体処置剤の開発、遺品整理、ハウスクリーニングなど「死」というものを扱うサービス業への参入が増えていることだ〉。
前者の一つに、マンガやテレビドラマの題材にもなった「エンバーミング」という遺体防腐処理技術がある。 ドライアイスの代わりにホルマリン主体の「固定液」を遺体に注入するもので、もとは戦死者を故郷に送り届けるため、南北戦争時代のアメリカで発達した。
明治期以降、火葬が主体となっていった日本では、この技術はあまり注目されてこなかった。 しかしここ数年、遺体の顔色を良くし、「遺族の悲しみの緩和 (グリーフケア) の効果も望める」と、大手の葬儀社を中心に普及が進んでいるという。
後者としては、大学教授と企業が共同で研究した、安価なスプレータイプの遺体処置剤の開発秘話、腐乱死体が出た部屋の原状回復を行う会社や、「遺品整理屋」の現場などがルポされる。
ふと気になって 小学館発行『日本大百科全書』で「葬儀社」の項目を見ると、そもそも葬式を請け負う業社が東京にできたのは明治の中頃。 それまでの共同体的な相互扶助組織が消え、近代化にともなう形で登場したのが葬儀社だった、とある。
遺品整理会社やハウスクリーニングなど、現在の葬儀ビジネスの世界に新しい潮流が生まれている背景も同じように、「孤独死」が問題化するような地域社会の変化と無関係ではないに違いない。
新たな技術や試みは、原価の安さに頼る旧来の収益構造とぶつかることもあり、立場の異なる人々の意見が衝突してもいる。
しかし 厚生労働省などの統計では、2038年に年間死亡者数が 170万人 とピークを迎えるというのだから、葬儀ビジネスの需要は今後さらに多角化していくことが想像できる。 その変化の予兆を感じさせる「最前線」には、社会のリアルな一面が確かに映し出されているのだった。
●「あなた」の死と、見知らぬ誰かの死の狭間で ●
本書に描写される死の現場には、息苦しくなるような凄惨なものも多い。 著者はその現場で働く彼らに、葬儀ビジネスの世界に入った理由もいくつか聞き取っている。 あるハウスクリーニング会社の経営者は、娘が亡くなっていたアパートの一室で、母親がへたりこんでいるのを見たのだと回想する。
「それなのに大家さんがやってくると、いろいろ迷惑をかけましたと頭をさげている。 子供をなくしてただでさえつらいのに。 それを見ていたら “これは俺が助けなければ誰がやるんだ” という気持ちになったんです」
また 葬儀社の元営業マンである一人は、交通事故で子供を失った父親から涙ながらに頼まれ、遺体を整えた体験を語っている。 それは映画「おくりびと」でも注目を浴びる「納棺師」を、彼が志すきっかけになった。
ノンフィクション作家の柳田邦男さんが、「死の人称性」という概念を常々紹介していることを私は思い起こした。
一人称 (わたし) の死、深い悲しみをともなう二人称 (あなた) の死、そして客観的に受け取ることが可能な三人称の死──柳田さんはこれに加えて、「2.5人称の視点」という考え方を提唱してきた。
上記の二人の回想するシーンは、まさに目の前の「死」を二人称的なものとして受け取りつつ、一方にある三人称の視点の客観性によって、それをビジネスと結びつけた瞬間だったと言えるのではないか。 生々しいこの現場ルポの中に、ときおり表れるそうした記述を読む度に思った。
ならば 葬儀ビジネスの「最前線」に新たな風を吹き込んでいくのは、その中間で揺れ動き、ときには引き裂かれながらも、試行錯誤を繰り返すことのできる人々なのかもしれない、と。
(文/稲泉 連、企画・編集/須藤 輝&連結社)
以上