
イラストはあるページ (アニメ どらえもん) から拝借。
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私の父は転勤の多い電力会社勤務でしたから、3年くらいで転勤を繰り返していました。 子供のときはそれがいやで、「来月 転勤でドコソコに行くことになったよ」なんて聞くと、「えー またぁ …」と憂鬱になりウンザリしたものです。
1) そして小学校高学年で、新潟県の十日町市の学校に転校しました。 山間部の地方都市で、当時 絹織物産業では有名なところでした。 在校生に負けまいと、ある意味ツッパっていたので、当初はクラスの何人かの男の子からイジメを受けました。 すると、眼鏡をかけた ある男の子が手を差し伸べてくれるのです __「ねー もう止めようよ」といって。
親しく話しをするクラスの子がいなかったので、その男の子と少し会話した記憶があります。 そしてほどなく ある日の放課後、「今日 うちへ来ない?」と誘うのです。 付いて行くと、繁華街にある お寿司やさんに入ります。 店の板前さんに何か話すと板前さんがいう、「へー ぼっちゃん 友達できたの? 珍しい」
「うん 2人前握ってよ」といって椅子に座るようにいいます。 そして暫くしてお寿司が出てきました __「食べなよ」というので、一緒に食べましたが、子供心にもお寿司は高級な料理と知っていたので、少し驚きながら食べたせいか その時の味は全く記憶にありません。「オイシい?」と聞かれ、「ウン ウン」しか返事しませんでした。 ラーメン数十円の時代、その数倍だったと思います。
その後 確か その子の部屋に行って何か話したと思うのですが、はっきりした記憶がなく、もう忘れてしまいました。 要するに、あまり強い印象のある会話ではなかったのでしょう。
帰宅して母親に、「友達にお寿司をごちそうになったよ」と報告すると、「おや まぁ … お金持ちの子?」とかなんとかいったような気がします。「 … かも知れないけど、よく分からない」と答えたかも。
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暫くして、その地にも慣れてクラスの同級生とも普通に話すようになり、あの "眼鏡の子" とは徐々に疎遠になっていきました。 たまに話してみるのですが、話題が少ないのと返事が遅いので、話しを続けるのがおっくうになっていくのです。
中学校に進級して、小学校の同級生とは別れ別れになり、再編成されて新しいクラスになり、"眼鏡の子" とは別クラスになりました。 それでも昼休みなどに、校庭や体育館に出ると、彼がいるのが分かりました。 私は同級生と一緒に遊ぶのですが、彼は "独りでぽつねんと突っ立っている" ことが多いように見受けられました。
私が彼のところへいって「元気?」と話しかけると、「ウン ウン」とだけ返事します。 けれど それ以上会話が続きません。 私も困ってしまって、「それじゃ … 」といって別れます。 見ていた同級生が「知ってるヤツかい?」と聞くので、「小学校のときに同級生だったんだよ」と答えました。
「あいつ いつもひとりでいるね」「う~ん、話しが遅くて会話が合わないことが多いからなぁ … 」とも答えました。 別にみんながイジワルをしているのではありません。 書いたように、「話題が少ないのと返事が遅い」ので、自然とみんなの話しの中に入ってこない、いや、"これない" のです。
今 思い出すと、子供マンガの「ドラエモン」に出てくる "のび太君" に風貌がそっくりでした。 しかしマンガの "のび太君" はのろまでドジで友達にからかわれることが多いが、よくしゃべり、けんかをし、付き合いがいいし、表情が豊かに描かれています。 私の "のび太君" は表情に乏しく、喜怒哀楽が殆ど出ません。 自分から持ち出す会話のネタもない。 これでは、大抵の場合 友達付き合いを継続するのは難しい。
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この “のび太君” は、回りの同級生らとコミュニケーションするのが苦手だったように思います。 私が転校時に同級生から疎外されていたので、同じ境遇だと思い 手を差し伸べてくれたのに、その後 遠ざかってしまったので、今はチョッピリ後悔しています __ あの時もう少し話し相手をしてやれば良かったかなと。
今頃 どうしているのだろう __ そういえば 今思い返すと、その後 盆地の福島県会津若松市へも転校しましたが、山あいの人々は、話しべたの人が多いように思いました。 なぜなのでしょうか?
私の想像では、昔の "山あいの人々" というのは、都会の人に対してある種のコンプレックス (都会よりも色々なことで遅れている? 古い習慣が多く残っている?) を持っていたのだと思います。 それが、多くの人の口を重くさせ、口べたな性格を形成していたのでは?
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2) とはいっても 同じ十日町市の小学校時代、勝ち気な同級生の女子もいました。 ある日 午後の美術の授業で絵の具が必要なのに、忘れて持っていかなかったのです。 朝それを回りにいうと、その子がしつこく「だめだよ 家に返って取ってこなくちゃ」といいます。 あんまりしつこいので、とうとう昼休みに1時間かけて往復して家から持ってきました。 お陰で 午後の授業に一部出られませんでした。 "ウルサい女だなぁ" という記憶が残り、いまだにその子の名前を覚えているくらいです (根 _ 絹子といいます)。
このブログを書きながら、半世紀前のことを我ながらよく覚えているものだと思いました。 それほど記憶細胞は昔の記憶を貯めています。 ただ 日常的には思い出しません。 こうやって記憶を辿っていくと、少しずつ昔の記憶が浮かんでくるのかも。
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それと、人間には様々な人がいるということ。 活発な人もいれば、そうでない人、表情が豊かな人もいれば、そうでない人もいます。 話しがうまい人もいれば、そうでない人もいます。 社会に出て仕事を持つ年齢になれば、そうした性格が仕事の種類を選ぶでしょう。 能力は全く別とはいっても、性格とある程度は関係があるかも知れません。
私の "のび太君" はまずサービス業には向きません。 家業の寿司屋の板前などは、寿司を握る技術のほか 接客して話すことも必要だからです。 それもただの話しではだめで、幅広い話題と、客をくすぐる技も必要です。 要するに、客の話しに反発して怒らせてしまうようでも困ります。 適当に相づちを打ち、客を気分よくさせて、再度来店してもらう雰囲気作りも必要です。
あまり話さずに済む仕事は、単純労働か肉体労働になり、高い賃金が支払われる対象にはならないことが多い。 そうならないためには、最低限 他人と会話し、自分の希望をちゃんと相手に伝えられる能力はとても大事です。 一生 自分の性格に合わせて言葉少なに無口で通すことは、多くの人には無理なことでしょう。
ただ家が資産家で、仕事をせずに生きられる人は、自分の性格そのままで済ませられるかも __ だけど、そんな人生は詰まらないでしょう。
寿司屋のオーナーであれば、客の前で握ることも、話すことも必要ではありません。 けれど 板前を雇い、経理を見て、寿司屋を存続していくには、多くの交渉事や、従業員を傭うこと、トラブルが発生したときの対処能力などが必要でしょう。 奥の自分の部屋で、のんびり煙草を吹かしていればいいというものではないはずです。
私の "のび太君" のその後の消息は聞きませんが、青年になり、他人とのコミュニケーションが改善されたであろうことを願います。 大概の人は大人になれば、びっくりするほど変わるものです。 必要に迫られ、会話することも苦痛にならなくなるはずです。 子供の時の性格を、そのまま一生引きずる人は少ないでしょう。 りんごのようにホッペが赤かった根 _ 絹子嬢も、優しい性格に変わったかな?
今日はここまでです。