2章:開拓の章(つづき)
2、小川村開拓(2)
岸村には青梅街道が通っている。先述の通り、当時青梅街道は馬で石灰を運ぶ者(石灰伝馬継)の往来が激しかったが、田無(写真)~箱根ヶ崎間はとにかくつらかった。この間は約二十キロ。この距離を歩くのがどの位大変なのか、現代人の我々には少々分からない。これについて、「郷土こだいら」(この連載の最終回で詳細を記す)におもしろい記述があるので、長くなるが引用する。
男なら一日四十キロ(十里)女とか老人さえ一日八里とされている。しかし東海道を見てもわかるように、やく八キロ(二里)ごとに宿場がある。その上、宿場と宿場の間に茶店があるというように、休むための場所はいくつかある。
例えば、川崎から次の宿場神奈川まで十キロ(二里半)あるが、途中の生麦村の所が間宿(あいじゃく)で立場(たてば)となっており、「志がらき」という水茶屋があって梅干や梅漬の生姜(しょうが)を売っていてみんな休んだという。こんなものでも街道ではありがたかったにちがいない。そうすると旅人はやく一里ぐらいで休息する場所があったし、その位が休息する距離であると考えると、先の文書の「五里の間に旅人が行倒れて死ぬ者も多かった」というのは大げさなこ張でないことがわかるであろう。(つづく)(執筆・研究関連担当代表<前・会長全権代行>)
2、小川村開拓(2)
岸村には青梅街道が通っている。先述の通り、当時青梅街道は馬で石灰を運ぶ者(石灰伝馬継)の往来が激しかったが、田無(写真)~箱根ヶ崎間はとにかくつらかった。この間は約二十キロ。この距離を歩くのがどの位大変なのか、現代人の我々には少々分からない。これについて、「郷土こだいら」(この連載の最終回で詳細を記す)におもしろい記述があるので、長くなるが引用する。
男なら一日四十キロ(十里)女とか老人さえ一日八里とされている。しかし東海道を見てもわかるように、やく八キロ(二里)ごとに宿場がある。その上、宿場と宿場の間に茶店があるというように、休むための場所はいくつかある。
例えば、川崎から次の宿場神奈川まで十キロ(二里半)あるが、途中の生麦村の所が間宿(あいじゃく)で立場(たてば)となっており、「志がらき」という水茶屋があって梅干や梅漬の生姜(しょうが)を売っていてみんな休んだという。こんなものでも街道ではありがたかったにちがいない。そうすると旅人はやく一里ぐらいで休息する場所があったし、その位が休息する距離であると考えると、先の文書の「五里の間に旅人が行倒れて死ぬ者も多かった」というのは大げさなこ張でないことがわかるであろう。(つづく)(執筆・研究関連担当代表<前・会長全権代行>)