「きつねのるーと」と「じーん・だいばー」のお部屋

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「Rail Magazine 261号(2005-6)」を読んで (二塚の記憶)

2005-04-24 21:17:04 | 鉄道
今回は、今月発売になった鉄道雑誌を読んで懐かしく思ったことをネタにして見ます。
今月の「RM(Rail Magazine)」は北陸特集でした。その中でも、特に富山県の高岡周辺は特に鉄道好きには(地味に)たまらない路線が集中しています。中でも、城端線(高岡‐城端間)の二塚駅の引込み線には、思い入れが多く過去に三回も訪れています。で、その訪問の思い出を雑誌の記事の補足がてら綴ってみたいと思います。

この場所に初めて行ったのは、私の高校の後輩と一緒に富山のテツをしに夜行一泊プラス宿一泊の二泊二日で出掛けたときのことです。もう、7~8年は前の話に成りますから'95年ごろのことですね。城端線に貨物が一駅だけ走っているからと、氷見線の撮影をした後に二塚に向ったのが初めてでした。駅の手前の線路から少し離れた場所からDE10の牽くコキ(コンテナ車)の全形を納めてみたのですが、どうにも面白くなかったので、駅に行ってみました。すると、着いて折り返すはずなのですが機関車(DE10)は居るのですが、牽いてきた貨車も折り返していくはずの貨車もありません。おや?と思って線路を良く見てみると、城端線の線路から分岐する一本の専用線が工場まで延びているではないですか。貨物時刻表を牽いて荷主まで調べていた連れは「貨車はたぶんこの先に居るだろうから待っていれば戻ってくるよ」と言うので、待っていると程なくして踏切が鳴り出し、エメラルドグリーンの小さな牽引機に押されてコンテナ車がノタクラノタクラ、やってきました。本線をポイントで乗り越え、貨物専用の側線に貨車を押し込みDE10の後ろに貨車をつなげていました。その後、役割を果たしたと言わんばかりに牽引機は小さな体でトコトコと工場に戻っていったのでした。
そのときには、出発をするDE10のことはすっかり忘れて、小さな牽引機に見ほれてしまったのでした。あわてて、工場まで車で追いかけてみたのですが工場の中にある蔵に隠れてしまった様で、見つけられませんでした。

その後、城端線で蒸気機関車の復活運転が行われたのですが、そのスジ(ダイヤ)がたまたま二塚で蒸気機関車と貨車が絡むような感じでしたので、蒸気の前景か背景に現役の貨車が入るもの面白いと思い、二塚で撮影をしました。ただし、その時の写真は思いっきり失敗をしていてとても見れたものにはなりませんでした。(手ブレがしてたのです)

で、この雑誌の記事を見て現場を訪れてみようというチャレンジャーは天気の良い日にでも行ってみてください。この二塚には紙面のとおり、午前と午後との二往復、貨物列車がやって来ます。そして、牽引機はまず貨車を取りに来て、それから工場に引き込み、工場の貨車を持ってきます。つまり、一回の貨物列車に対して、二回、駅に出てくるのです。
この記事によれば、午前中に来る貨物の到着時刻は10:28(3081列車)、で発車時刻が11:27(3080列車)。午後が、到着14:47(3083列車)で、発車が15:43(3082列車)となっています。牽引機はこれに合わせて、一日に四回、二塚駅に出没しています。貨車好き、牽引機(小型移動機)好きならば一度はじっくりとみておきたい景色です。


追記:この雑誌には鉄道写真家広田尚敬氏が撮影した国鉄本線蒸気全廃までの最後の一年間の記録をカラーで連載をしていますが、今回は1975年5月31日から6月1日の花輪線の写真が載っています。中でも、荒屋新町駅で撮影された、ホームで待つショートパンツの女性を前景に借りた機関区で休息中の86(8620型機関車)の写真が目を引きました。
それにしても、1975年なら私は六才前後でしたから両親にねだっていれば花輪の86が見れたかも知れないことは、かなりショックだったりして・・・・。地元、八高線の現役蒸気も見ていないのですから、何をいわんやですけどね・・・・。

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4 コメント

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遊びに来ましたっ!! (645kaishin)
2005-04-26 00:59:26
先日の書き込みありがとうゴザイマス



きつねのるーと様の知識量は素晴らしいです



私も何かを語りたいのですが…なかなか知識を曝け出せるほどのネタもなく…

ちなみに私の好きなこと・得意なことは…ベタに音楽鑑賞かアマチュアさ丸出しのDTPくらいで…勉強してきます



タイトルを見て真っ先に思い浮かんだのは奇しくも昨日起きたJR福知山線での列車脱線事故。

事故により亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
返信する
ありがとうございます (きつねのるーと)
2005-04-26 20:16:20
>645kaishinさま

私のブログにようこそです。私の場合、知識量がどうこうよりも、単に雑学で首を突っ込んでいるだけですので各方面の専門家から比べたら、とてもとて・・・・恥ずかしいもんです。



昨日の事故に引き続き今日は常磐線でスーパーひたちが踏み切り事故にあっています。今日の事故では怪我ですんでいますが、昨日のは・・・・。本当にご冥福を祈ります。



さてさて、コメント欄の「URL」の欄に自分のブログのアドレスを記入していただけると、今度そちらへ行くのが大変楽になるので、今度はぜひともURLもお願いします。

(私は、ネット喫茶からアクセスしているので、「お気に入り」機能が使えないものですから・・・・)
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コメントありがとうございます。 (意無僧)
2005-04-27 08:48:00
またまたコメントありがとうございます。

私も昔はほんのちょっぴり鉄道マニアだった頃があります。けれど、きつねのるーとさんから見れば、ただのプラレールファンにしかすぎません。

昨年妻と北海道旅行したとき、行きは飛行機でしたが、帰りはトワイライトエクスプレスに乗って帰ってきました。もちろんA寝台スィートですよ。初めての寝台車にかなりアタマがフラフラになってしまいましたがね。



こちらの記事には関係ありませんが、せっかくですので、「ヤマト」の雑感の続きを。勝手に書きます。

私はテレビシリーズの2回目めも3回目も一通りは見ました。けれど、それができたのは私が大学生や社会人になった頃です。ヤマトが世間で評価されるようになったのは、最初のオンエアから、4年ほど経ってからの「再放送」でブレイクしました。私自身は、中学校の時から大ファンでしたが、開花するのが遅かったため、後のシリーズはもう、私が多感でないときだったので、印象が薄いのだと思います。

それと、これは勝手な理屈ですが、2番3番煎じになると、いわゆる「ヒーローもの」と同じ感覚に見えていました。つまり、「何故、ヤマトでなければならないのか?」と言った疑問です。一作目は、地球全体がヤマトにかけなければならないシナリオがちゃんとできていました。そして、映画「愛の戦士達」でヤマトはこの世から消えたはずなのです。それなのに、視聴率稼ぎのためとは言え、次々と「ヒーローヤマト」に作り変えられていきました。何度も死んでは復活する脇役達も、多少うんざりするところがありました。「科学的根拠」から、「アイドルウケ狙い」が見え見えになっていたのです。それらを、総合して、私は2作目以上を「宇宙戦艦ヤマト」とは認めたくないのです。「オタクファン」としては、何度も復活するキャラクターに、熱中もしていたでしょうが、私は、「前人未踏の宇宙に、最初に冒険に出たヤマト」を「宇宙戦艦ヤマト」と呼びたいです。今ではSFで当たり前になっている「ワープ航法」もアニメ史上で人類が最初に挑戦したのは「宇宙戦艦ヤマト」です。超光速航法が当たり前になっている現代のアニメからすれば、バカみたいでしょうが、当時は、「アインシュタインの相対性理論に基づいて考えられた、時間軸と空間を飛び越える」なんて話は、胸躍らされましたよ。

以上、ヤマトバガの戯言でした。
返信する
ということで… (645kaishin)
2005-04-27 09:12:30
りんく先を貼っておきました



ご参照くださいね
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