きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

生きる証

2009年11月07日 | 羊、朝の一声
「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(Ⅱ歴代10:4)

 ソロモン王の死後、民は後継者であるソロモンの息子に、こう嘆願した。民にとって、労働は過酷だったのだろうか。民は、ソロモン王と一緒に、喜んで神殿を建て上げた。ソロモン神殿は、彼と彼の時代に生きた人の証だった。しかし、実は神殿そのものが証だったのではない。神殿を建て上げるその人々の思いが証となる。

 ほんとうに大切なものは目に見えない。この言葉は聖書にもあるし、クリスチャンでなくても真実と知るだろう。共に力を合わせて神様のための神殿を建て、それを神様に喜んでいただき、その証である神殿は依然そこにあるのに、関係が変わってしまったら証は証でなくなる。そしてその関係の悪さが人を蝕み、不満や苦情、ご利益主義を生み出す。その結果が、この嘆願ではないだろうか。

 目に見えないほんとうに大切なものがある。死んで尚残る価値あるものが確かにある。それを守る人生が私の生きた証でありたい、そう願って止まない今日この頃です。





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天国

2009年11月06日 | 羊、朝の一声
 ソロモン王の黄金の宮やその豊かな富は、天にある神様の国の象徴だとあった。黙示録にも天国の美しい光景が書かれている。神様の栄光に輝き、エメラルドやサファイアなどの最上級の宝石が城壁を彩り、門は真珠ででき、大通りは純金でできている。大通りの中央には命の水の川が流れ、両岸に命の木が並んでいる。

 さて、そんな天国には、城壁の宝石を思わずくすねてしまう人や、転んだふりして少しの純金を剥がす人はいるだろうか。それを考える時、誰が天国にいるのか、ほんとうにこの私が天国に入れるのか、考えてしまう。ちょっとした出来心、ほんの少しの虚栄心、自己愛、それがために天国に入ることを許可されないのか。

 人間は弱い。頭でわかっていても、いざという時に自分を優先する心、守る気持ちが先立つ。神様はそれをご存知だ。だからこそ、そんな基準の曖昧な方法ではなく、はっきりとした基準で天国への切符をくださっている。ご自分の愛する子供、イエス・キリストが命を懸けて救ったことを、どう受け留めているか。私が生きるために、イエス様が死んでくださった。神様が自分の命を失ってでも、私の人生を守って下った。そのことを、どう考えているか。それが神様の絶対の基準だ。それを知らないまま、天国への道を知ることはない。




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永遠

2009年11月05日 | 羊、朝の一声


 「永眠」というタイトルが付いた家族からのメールにショックを受け、いろいろなことを考えて混乱している。そんな今朝は、神様に愛されたソロモン王を訪ねたシェバの女王のところを読んだ。女王自らが遠く危険な旅路を経て、知恵と富と誉れの高いソロモン王を直接確かめるためにやって来る。そして、彼の知恵を聞き、莫大な富を見、人格を認め、そこで彼女の内に疑問として持っていた「永遠」についての答えを得た。女王という地位や財産、また賢さを称えられていた彼女が、それ以上に求めていたものを知ることができた。

 「永遠」とは何だろう?時間の中に生き、時間に支配されて生きている人間にとって「永遠」など関係ないと思うかもしれない。でも、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレト3:11)と聖書に書かれている。永遠を願う心は、人間を創られた神様が与えてくださったもの。永遠は、永遠にいらっしゃる神様と共にあること。

 人間はたかだか数十年の人生を生きるだけではない。肉体は滅んでも、霊は生き続ける。神様と共にあれば、それは「永遠の命」を約束されている。永遠に生きることが可能なのに、永遠に眠ることを選ぶのは、そして選ばせてしまうのは、とっても悲しいことだ。それが今の私の混乱の中心かもしれない。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)




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愛って?

2009年11月04日 | 羊、朝の一声
今日の黙想エッセイから。
「愛は知っていく過程の中で自然に得ることができるのです。」

 「『愛そう!』と決心したら、一瞬にして愛せるようになるのではない。」と牧師先生がよく仰る。愛の表現や行動を一時示すことはできる。でも、それを一度や二度行ったところで、相手を「愛している」わけではない。それが「いつも」、そして「自然に」できてこそ、ほんとうに愛していることになる。「親切な人になる」と「親切をする」ことの違いと同じだ。

 今日のエッセイに、上の言葉があった。これも牧師先生の受け売りだが、知ることは愛が完成するための条件ではない。「愛」は信頼することで生まれるのだ。神様という存在に信頼し、神様をもっと知ろうとするその過程で、「愛」が生まれる。その愛こそが、自分の人生を、そして周囲との人間関係を深め、強め、豊かにするものだと、私は信じ、クリスチャンになって4年の間、体験し続けている。




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あ痛!

2009年11月03日 | 羊の声
http://blog.goo.ne.jp/jesus808

 我が師ながら、実に痛いことを書いてくれる。。。しかしこの痛さは、これから先の成長を望むなら、歩みを続けるつもりなら、決してスルーしてはならないもので、痛い今こそ向き合うべき“時”なのかもしれない。この数日のLIVING LIFEデボーションにしても、「恵みを受けたものにふさわしい生き方」「神と対話しなさい」「神の民は聖くなければなりません」「信仰を建て上げなさい」、と矢継ぎ早に来ている。チクチクチクと感じていたところに、グサッとやられた、、、そんな感じ。

 LIVING LIFE10月号の最後にこんなことが書かれていた。「私はデボーションが残りの一日全体に影響を及ぼすことを望んではいません。むしろ継続的にイエスと分かち合う大きく親しい交わりの一部なのです。」これを読み、デボーションについて考え直していたそこに、きっぱり答えが降ってきたのだ。私のためではない、イエス様のためだ、と。本質喪失もいいところだった。

 LIVING LIFEも5冊目に入り、半ばテキスト化されてきたその時、神様は語られた。今日の黙想にあるように「特別な関係は恵みを受けた者にふさわしい反応が伴ってこそ持続するのです。」アーメン。ということで、今こそ悔い改めの時、とここに告白します。思いを新たに11月を進めていくことができるよう、共にお祈りください。




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