日本ユーラシア協会広島支部のブログ

本支部は、日本ユーラシア地域(旧ソ連邦)諸国民の相互の理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とする。

井野先生の投稿です。2011/09/14

2011-09-16 03:40:37 | 日記
井野先生の投稿です。

勝木さま、環境物理グループの皆さま

 勝木さんが9月13日付[envphys][01366]に書かれているご意見には賛成できるところもあります(日本の原発推進派への批判など)が、全体として納得できないところが多々あります。

(1)フランス電力公社のティンバル=デュクロという方のバラトン湖セミナーの論文を引いて、「エネルギーの質と時間的空間的密度の見地」から、火力発電と原子力発電を同列に論じていること。
 勝木さんの本意ではないのかも知れませんが、このことが全体の議論をミスリードしています。原子力発電は全廃すべきであるのに対し、火力発電(あるいは、一般化して化石燃料)は極力削減すべきですが、限定的には使わざるを得ないエネルギー源だと考えます。両者は区別して論ずべきです。このようなエネルギー問題をめぐる私たちの主張は、不十分ながら『徹底検証21世紀の全技術』8章で展開しています。

(2)産業革命にはじまる現代工業社会が、化石燃料(石炭)なしに成立し得なかったことは確かと思われます。蒸気機関の発明と利用など。また、原子力発電はもちろん、太陽光発電や風力発電などの自然エネルギーの利用技術も、化石燃料なしには成り立たないと思われます(ジョージスク=レーゲンのいう「プロメテウス条件」)。
 しかし、安価な化石燃料を大量に使うことに制約条件(環境的、資源的)が課せられたとすれば、産業革命は成立しなかったのでしょうか。歴史に即して、この仮説を検証したくなります。また、現代工業社会は成り立たなくなるのでしょうか?あるいは、上記の制約条件により、現代工業社会はどのように変わりうるのでしょうか。それは、まさに、われわれが現に直面している課題です。
 化石燃料についても、石炭の時代と石油の時代を区別して論じることが必要です。
1950年前後を境にエネルギー(特に石油)の大量消費時代が始まります。これを河宮信郎さんは「後期工業社会」と呼んでいます(前掲書、第17章)。地球規模の環境問題は、地球温暖化問題のみならず、この時期以降に破局的に拡大したのは間違いないでしょう。

(3)「(ティンバル=デュクロの論文には、)“自然エネルギー”がなぜ代替エネルギーとして機能し得ないかの説得力のある議論も展開されています。こういう次第で、原子力発電礼賛の立場からの論点は非常によく整理され、議論は明解であり、そのレベルは生半可なエコロジストの”自然エネルギー”礼賛の議論を遥かに抜きん出ていると私には感ぜられました。」と勝木さんは書いておいでです。本当でしょうか?
 化石燃料が効率的にもっとも優れたエネルギー源であることは(環境負荷を無視すれば)明らかです。自然エネルギーがそれに匹敵する効率や能率を持たないことも自明です。問題は、環境負荷の大きい化石燃料を限定的に使って、つまり化石燃料の助けを借りて太陽光発電システムや風力発電システムを建設し、運用することができる、ということを勝木さんは否定されているように思われることです。あるいは、そのことの評価が非常に低くしか与えられていない、ということです。
 自然エネルギーを組み込んだエネルギーシステムにおいては、エネルギーの使い方ははるかに分散的になるでしょうし、高速輸送に代えて地域内の人と物の動きを重視する輸送、人口の大都市集中から地域分散へ、材料の大量生産から高品質少量生産へなどなど、さまざまな局面においてシステムの根幹を変えざるを得なくなると考えられます。それは現代工業技術の方向性を変えることなしに実現できません。
 その意味では、勝木さんのご意見とそう違わない主張になっているのかも知れませんが、私は、そういう技術システムの転換には自然エネルギーを積極的に利用することが必要であると考えていること、また、その転換は現代の技術システムの存在を前提としてなされるしかないと考えている点で、勝木さんと意見が違うのではないかと思っています。

(4)勝木さんは、朝日新聞に載った北海道電力関係者の方の≪エコ発電、「低品質」のつけは国民へ≫という意見を「きちんとした見解に基づいた意見」と評価されていますが、本当でしょうか?
 この表題自体はある意味あたり前のことで、何ら原発推進の理由にはなりません。
ドイツやスウェーデンの国民は、料金値上げというつけを払ってでもダーティな原発でなく自然エネルギーを選択しようとしているわけで、日本の民衆も同じ選択をするだろうという期待が私にはあります。
 コストということについて言うならば、原発の発電コストが、大事故での補償というような事態が起こらなくても、火力や水力にくらべて高いものであることを大島堅一さんなどの実証的研究が明らかにしています(『再生可能エネルギーの政治経済学』、東洋経済新報社、2010年刊)。また、東京電力を中心とした九電力の独占供給体制が原発推進による暴利をむさぼり、国民に電気料金のつけをまわし、電源開発費などとして国民の税金も喰いものにしてきたことも明らかにしています。福島原発事故以降、そういう隠ぺいされた真実が多くの人たちの目に明らかになってきています。
 北電関係者の投稿本文は、以前(勝木さんからいただいて)読んだ記憶がありますが、そのような電力料金のからくり、つまり、原発推進のつけを国民にまわしていたことについての自己反省的考察はまったくなされていなかったように思います。

(5)勝木さんの意見については、『科学・社会・人間』117号(2011年7月刊)に湯浅欽史さんが短文を寄せています。湯浅さんも勝木さんの意見はもっともだとして、「自然エネルギーの<質>に見合った暮らし方」(表題)を説いています。その中身は、人と人との関係、<イキモノ>世界が大事で、ヒトとモノの関係もその関係性のなかで築きあげられるべきだ、ということを主張しています。商品経済は貨幣を介してそういう関係をこわしてきた、客観法則に基礎をおく科学もそれに適合する知の世界を築き奉仕してきた、というのが彼の主張です。
 この湯浅さんの主張には私もほぼ同感です。現代の経済システム・技術システムをそのままにして、その延長上に、化石燃料の代替として自然エネルギーを開発し、経済成長を続けてゆく、そういう未来はあり得ないでしょう。そのような幻想のもとに再生可能エネルギーが開発されるならば、矛盾はさらに拡大し、地球環境も世界経済もどうにもならないところにゆきつくでしょう。そういう意味で、私もまた、「“自然エネルギー”を礼賛」するものではありません。
 しかし、勝木さんの意見と湯浅さんの主張とが論理的に一直線につながっているものだ、とは私には思えません。その間には、よく考えてみなければならない技術と経済に関わる問題群が存在するように思います。人間の生き方にかかわる哲学も必要でしょう。

(6)哲学といえば、原田さんは、Bernalの著作をあげておいでです。『歴史における科学』は確かに大作です。今、読み直せば新しい発見があるかも知れませんが、若い頃の私には退屈でした。文献から学ぶことも大切でしょうが、しかし、現に直面している問題にどう立ち向かうかを考えるなかで、それぞれ自分の「哲学」がつくられるのではないでしょうか。
 猪野さんが批判しておられる原田さんの文、「…これからどんな社会を築くのかという展望まで語らなければならないと考えるようになりました。それだけに、マスコミで活躍する原発賛成派であれ反対派であれ、人気とりの学者のいうことでは全くどうしようもない」は、思うに、勝木さんの「…この状況は、反原発・原発推進批判派にとっても不幸なことでした。対立者との深いレベルでの討論を展開して、自分達の理論を深め高める機会が持てなかったからです」というくだりに誘発されたのではないでしょうか。反原発派は、残念ながら危険な原発をとめることができず、福島原発事故を防ぐことができなかった。そのことの自省は欠かせません。「極めて強固な反原発派」を自認されておられる勝木さんが、どういう点で「自分達の理論を高める」ことができていなかったか、何が欠けているのか具体的にお書きいただければ、我々の間で議論を深めることができるのではないでしょうか。

井野博満

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