ビギナークリスチャン♪シズコの縁側

クリスチャン歴18年、うつ状態歴27年をむかえたけど未熟or発展途上?悩み満載!生かされて感謝♪クリスチャンブログ。

言葉が出ない

2012年02月08日 | イエスさま
少しずつ
少しずつ
三週間前から兆候は現れていた
欝(うつ)状態
波があるからと今までは受け容れてこられた
けれど今年で私は46歳
人生の半分を生きてしまった
焦り
受け容れられないで私は今日も
真夜中パソコンに久しぶりに向かっている
言葉が出ない
言葉を発する気力も体力も
日のあたるうちは出ない
静かな深夜になるとやっと
夜光虫のように
少しだけ
少しだけ
勇気が出る
外に行く気力どころか
布団から這い上がる気力も無い
家族と話すのも億劫
歳月だけが流れ
私は取り残されている
礼拝でヨブの話を聴いた
「辛いときはあなたが試されているのです。
それは主があなたを愛されているからです。
どうでも良い人を主はかまわれません。」
とってもわかる・・・・教会にいるときは
でも
一歩教会を出て、雪だらけの寒い路に出ると
その思いも萎えてしまう
凸凹の雪道
四駆の私の車ですら轍にハンドルを取られ怖い
日曜日はたっぷり60センチ以上の雪が積もっていて
弟と二人で車を掘って!礼拝に出かけた
45年間の山形生活で初めてだ
それだけでぐったり疲れてしまって
もうそれだけの一日だった
かみさま
本当にあなたは今もわたしのそばにいてくださるの?
かみさま
私はこの「南京の基督」の映画が見たい
この娼婦金花を演じる富田靖子と
芥川龍之介をモチーフとした作家岡川演じるレオンカーファイの演技を見たい
予告編はやっとyou tubeで探した
パンフレットも手に入れた
でも本編はまだ
どうして、芥川龍之介も有島武郎も太宰治も
基督に魅せられ、基督に捉えられなかったのだろう?
有島武郎は、一度洗礼を受けたようだけれど
その後、教会を退会したと、今日本で読んだ。
だから、有島が情死した時
有島を信仰の後継者と考えていた
内村鑑三は激怒したと言う
でも私は激怒した内村鑑三より
弱い有島健郎や芥川龍之介、太宰治に魅かれる
基督の何がこの三人を捉え切れなかったのか?
否。基督は捉えたのだろうと思う
側の者が捉えきれなかったのではないか?
と・・・少し吐き出したら
私も、心のつかえが
少しは降りるかもしれない。

あまり立派なクリスチャン
今の私は、苦手だ
聖書も、ディボーションも私に重くのしかかってきて
息が詰まりそうになる。。。(涙)


父ちゃん、今私はあなたですら遠い
どうぞこの岡川が金花を抱きしめるように
私を後ろから抱きしめていて
私の手を離さないで
神経がおかしくなり始めているから

このお祈りを御名によって祈ります。
アーメン。






空色リボン・キャンペーン


にほんブログ村 ポエムブログ 自作詩・ポエムへにほんブログ村

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 実家暮らしへにほんブログ村

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ状態へにほんブログ村





最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
キリスト教と文学 (Cecilia)
2012-02-08 08:53:25
大学では日本文学科だったし、日本文学におけるキリスト教というテーマは私にとって重要でした。所属していた母教会にもその分野に詳しい方がおいでで、そのテーマで講演会などもありました。
高校時代島崎藤村が好きでした。彼も洗礼を受けていますが離れていきました。
卒論のテーマに選ぼうと思った山村暮鳥も聖公会の牧師をしていたほどですが、やはり離れていき、汎神論者になっています。
私は太宰治が結構好きで「斜陽」が特に好きです。「斜陽」にも聖書の引用は多いですね。だからと言ってキリスト教的な作品だとは思いませんがこのような作品の中に何か”祈り”のようなものを感じるし、逆にいかにもキリスト教的な作品だとちょっとうそ臭く感じてしまう私です。
返信する
日本とキリスト教 (シズコ)
2012-02-08 22:40:36
Ceciliaさん、こんばんは。
興味深いコメントありがとうございました。

島崎藤村とキリスト教の関係は全く知らなかったので今検索してみました。洗礼受けてたのですね。なんだか島崎藤村とキリスト教って結びつかなかったので、以外でした。
山村暮鳥という名前はCeciliaさんに教えて頂いた気がします。でも忘れてしまったのでもう一度検索しました。
この方のこの詩が、のびやかな大空が浮かぶようで、とても良いですね。

おうい雲よ

   ゆうゆうと

   馬鹿にのんきさうぢゃないか

   どこまでゆくんだ

   ずつと磐城平の方までゆくんか

私も太宰治の中では「斜陽」が一番好きでした。「走れメロス」も中学校時代教科書で読みましたが、高校に入って「斜陽」後は「女生徒」がとても好きでしたよ。母が嫁入りの時持ってきた日本文学全集を読み漁っていました。
その後の「人間失格」はとてもショックでした。今でも怖くて、たまにしか読めません。
太宰治はとてもたくさん小説の中に、聖書の言葉を引用していますよね。かなり読んでいたんじゃないかなあと思います。
「太宰治」「キリスト教」で検索したらこんな本を見つけました。ちょっと読んでみたいと思いましたよ。「太宰治論―キリスト教と愛と義と」(福永 収佑:著)→http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB%E8%AB%96%E2%80%95%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%A8%E6%84%9B%E3%81%A8%E7%BE%A9%E3%81%A8-%E7%A6%8F%E6%B0%B8-%E5%8F%8E%E4%BD%91/dp/4286020487/ref=ntt_at_ep_dpt_1 このレビュアーの方の意見がとても興味深かったので、良かったらご覧になって下さい。

昨日は「南京の基督」のパンフレットを読んだ後、有島健郎の心中を書いた「夢のかけ橋―晶子と武郎有情」(永畑道子著)→http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A2%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%91%E6%A9%8B%E2%80%95%E6%99%B6%E5%AD%90%E3%81%A8%E6%AD%A6%E9%83%8E%E6%9C%89%E6%83%85-%E6%B0%B8%E7%95%91-%E9%81%93%E5%AD%90/dp/479480010X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1328707532&sr=1-2を拾い読みしていました。 
芥川龍之介は「奉教人の死」他、たくさん「キリスト教もの」を書いてますし、有島健郎は渡米後、かなり熱心にキリスト教の精神にのっとって生きようとしたようでした。
今書いていて思ったのですが、日本人は私も含めて「キリスト教の精神にのっとって生きよう」として、出来ずに苦しみ、結局キリスト教を捨ててしまうのではないか?」と思ったのです。

この時代の文学者とキリスト教って、どんなかかわりだったのでしょうね。
私は芥川龍之介の「キリシタンもの」読んでみようかなと思います。
いずれにせよ、私は「夢のかけ橋―晶子と武郎有情」で内村鑑三が「自分の前では、情死した有島の名前を一切出すな」と厳命したことに反発を覚えます。
私はイエスさまは、芥川龍之介も太宰治も、有島健郎も棄てなかったと思うのです。
棄てたのは、当時のキリスト教界だったのではないでしょうか?
そして、今でも日本人の1%しかクリスチャンが居ないと言うキリスト教界でも、このことは、たいして変わらず、私はもっと深く考える重い課題のような気がします。

>「斜陽」にも聖書の引用は多いですね。だからと言ってキリスト教的な作品だとは思いませんがこのような作品の中に何か”祈り”のようなものを感じるし、逆にいかにもキリスト教的な作品だとちょっとうそ臭く感じてしまう私です。

↑仰ること良くわかります。(笑)
私はうろ覚えですが、「斜陽」のカズ子の母が「札付きの不良なら良いじゃない。札の付かない不良が怖いんです」と言う台詞がとても好きです。
そういう意味では、カトリックの寛容さをプロテスタントはもっと見習っても良いんじゃないかなあと、新参者クリスチャンの私は思うのでした。

久しぶりに長くお話させて頂きました。
非常に興味深く面白かったです。
またいろいろ教えて下さいね。

相変わらず部屋にこもっているシズコより。


返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。