ビギナークリスチャン♪シズコの縁側

クリスチャン歴18年、うつ状態歴27年をむかえたけど未熟or発展途上?悩み満載!生かされて感謝♪クリスチャンブログ。

三冊の本

2016年07月23日 | 病気・鬱・糖尿病など

眠れないので起きて来た
本を三冊携えて
文庫本だけれどどれも難しい。
せっかく今日は罪悪感無しでゆったり過ごせたと思ったのに
眠る頃、また不安になった
早く布団に入ったのに眠れない

あー

台所でコーヒーを飲みながら
三冊パラパラ読んでみたけれど難しい

だから今、パソコンの前に来ている





最初の本は今日アマゾンから届いた本「神父と修道士と宣教師たち」。凄く読み応えがあるけれど凄く難しい。











この本を最初に買った「シスターたち―その歴史と今と未来に向かって」これはとても良かった。












DVDで見た映画の原書。「マダム・マロリーと魔法のスパイス」。主役級の女優、ヘレン・ミレンの大ファンなので買ってみた。映画と原書のよさはまた違うみたい。コメント欄に映画の予告編を貼っておくので是非ご覧下さい。











どれ、これから眠れるかな?眠る事ができますように。



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カシミールでの静かな時間

2016年07月18日 | 私の好きな店
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

新約聖書:コリントの信徒への手紙 Ⅱ 9章15節(新共同訳)



今日はとても疲れた。

なんだか私の大好きなカリーレストラン、カシミールのことを書きたくなった。



印度レストランカシミールは私のお気に入りだ。インドカリーから入ったが、今私がはまっているのは、カリーではなく、モモとサモサだ。

これはちょっと前の画像になるが、貼らせて下さい。

三週間前くらいの事になる。「カリーは食べたくないが、カシミールに行きたい」と言う気持ちになって、少し遅めのお昼に出かけた。
お客さんもあまりおらず、カウンターもがら空きだったので、いつもの通りカウンターに座った。
私は前からメニューに載っていた、蒸し餃子風のものを食べてみたかった。そのメニューの名前は「モモ」と言うらしい。他のお客さんも少ないので頼んでもそう面倒ではないだろうと思い、思い切って注文してみました。


そうしたら、なんと可愛らしい蒸し器が!ネパール人のPさんは、こんな可愛い蒸し器で「モモ」を作ってくださった。余りに小さく、その蒸し器がコトコト動いているのを見ていたら、なんとも言えない落ち着いた気持ちになった。










Pさんは「ちょっと時間がかかります」といつもの謙遜な笑顔で説明して下さった。「Pさんも蒸し器と一緒に撮らせてください」とお願いした。
いつも真面目なPさん。











この時の店員さんはPさんとDさんだった。お二人の笑顔とあたたかさにいつも癒される。



















蒸し餃子の「モモ」が蒸かしあがる間、「パパド」と言う薄い煎餅をサービスして下さった。結構塩辛いお煎餅。温かいうちに頂いた。











「モモ」が蒸しあがりました。メニューには3個なのに、何故か4個。これもサービスして下さったのです。お礼を言って頂きました。
味は物凄くあっさり。正直言って中華のシャオロンポー風。でもとても素朴で、私のその時の体調にとてもあっていた。タレをつけてみたけれど、私はそのまま食べる方が美味しく感じられた。思い切って頼んでみて良かったなあと思いました。









正直、この四個だけでは足らなかったので、前から大好きな「サモサ」を追加注文しました。

サモサってなあに?って最初の私のようにご存じない方のために、ウィキペディアにはこんな風に書いてありました。



インド料理の軽食のひとつ。
具材には、ジャガイモ、タマネギ、エンドウ豆、レンズ豆や、羊の挽き肉が加えられ、ゆでてつぶした具をクミンやコリアンダーシード、ターメリックなど各種の香辛料で味付けし、小麦粉と食塩と水で作った薄い皮で三角形(三角錐が多い)に包み、食用油でさっくりと揚げたもの。




私は、これを初めて食べた時からファンになってしまいました。カレー味のマッシュポテトのような中身に、いろんな豆とスパイスが入っていて、皮がとてもサックリと厚くて美味しいのです。サモサのほうはそんなに時間がかからず、出て来ました。こんな感じです。













この画像だと中身が見えるかな?一杯のジャガイモの中に、豆とスパイスが一杯の、私の大好物です。何もつけなくても私は十分美味しいです。さすがに二個全部は食べられなくて、一個はお土産で貰って来ました。















サモサを食べていたらPさんが「モモはネパール料理、サモサはインド料理です」と教えて下さいました。
この間、お店はほとんどお客さんがおらず、静かな時間でした。私は人混みが駄目なので、本当に癒されました。
あまり混んでいないときのカシミールは、本当に我が家のようにくつろいでご飯を頂けます。私のインド料理の定食屋さんのようです。

今日の冒頭の聖句は、カシミールを思って聖書を開いたら、この言葉が出てきて、そのまま書きました。


カシミール。今はランチパスポートの販売で、とても混んでいるようです。また時間が経ったら、そっとモモとサモサを食べに行こうと思ってます。






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優しい言葉

2016年07月13日 | 病気・鬱・糖尿病など
人間の心は自分の道を計画する。
主が一歩一歩を備えてくださる。

旧約聖書:箴言 16章9節(新共同訳)




ここ数週間ずっとうつ状態が続いている。そんな時に、突然なのだが、明日総合病院への受診が決まった。整形外科で、腰を痛めて近所のクリニックに通っていたのだけれど「きちんと大きな病院で診てもらって、リハビリも考えたい」と言うことになり、明日行く事に決まった。とてもドキドキしている。月曜日にクリニックに行ったのに、まさかこんなに早い日程で総合病院への受診が決まるとは思ってなかった。この病気は生まれ持った体質もあるというので、仕方が無いのかな?と半分なっちゃったのにも仕方が無い思っているところもある。でもとても緊張している。そんな時、整形のクリニックのドクターが「リハビリ施設のほうは、うつが良くなってからでも良いでしょう。うつは波があるからそんなに焦らなくても」と言ってくださった一言に、私はとても癒された。「ああ、誰かに『焦らなくて良い』って言ってほしかったんだなあ」って実感した。その後、総合病院に予約の電話をして下さったのだが、総合病院のドクターが手術中と言う事で、明日以降予約を取るので、また明日来るようにといわれて帰宅した。帰宅した午後、クリニックから電話が来て予約が取れたので、ドクターの紹介状と一緒に取りに来てくださいと電話が来た。明日以降でも良いということだったが、早いうちがいいだろうと思い、すぐ取りに行った。その日から、ドクターの言葉を心に留めて焦らないようにしようと努めたが、今度は不安で一杯になった。本当に動けなくなってしまった。起きる事が出来ない。食欲が湧かない。やる気がおきない。人間としての機能が低下してしまったように感じた。こうなると生きていていいのか、と言う問いが出てきてしまう。その度に打ち消す。そんな時に、友達のAさんから連絡が入った。全然別の用事だったんだけれどとても大事な連絡をくれた。ありがとうと言って、しばらくしてから、私はAさんに、自分の不安を打ち明けてみた。結構勇気が要った。そうしたらAさんから、言葉を尽くした励ましの言葉が届いた。とても嬉しくて涙が出そうになった。Aさんの言葉の「これはハッピーなおまじないだよ、大丈夫!大丈夫!」の言葉を心に昨日は眠った。


心身ともに弱ってくると、人の心や言葉の優しさが身に染みる。そして少し、優しくなれる気がする。


私は今も弱っているけれど、今から母と一緒にスーパーに買い物に行こう。そして、今夜は新メニューの三色サラダを作ってみよう。


焦らなくて良い。

大丈夫、大丈夫。



このムーミンTシャツは私のお気に入りです。Tシャツだけどよそ行きです。湯に黒(出たなっ!)・・・・じゃなくてユニクロで買いました。

これを着るだけで優しい気持ちになれます。友達のところに着て行ったら彼女「ちょっと随分可愛いの着てるねえ!」と破顔一笑でした。

大き目の作り。この夏大活躍です。












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失敗しても大丈夫

2016年07月07日 | 
人に嘲られることを恐れるな。
ののしられてもおののくな。


旧約聖書:イザヤ書51章7節(新共同訳)





シズコ

失敗して良いよ

完璧じゃなくて良いよ

欠けがあって良いんだよ

失敗しても大丈夫だよ

人は失敗するんだよ、でも大丈夫

人は完璧じゃないんだよ、でも大丈夫

大丈夫、大丈夫

震えていても大丈夫

安心して良いんだよ

誰もシズコに教えなかったもんね

でも今

シズコを大好きで

シズコの大好きな父ちゃんが言ってる

シズコ

大丈夫!

大丈夫!

大丈夫!

何才になっても大丈夫!遅い事はない

何才からでも大丈夫!やり直せる!

失敗を恐れても良いんだよ

やり直せば良いだけなんだよ

でも、忘れないで 覚えてて

どんな時でも、どんな場所でも、シズコは大丈夫なんだよ

怖くないんだよ

安心して良いんだよ

「俺が側さ居る、絶対に離さない。守ってる」

だから絶対、大丈夫

なんとかなる、うまくいく

今も、明日も、絶対に


大丈夫、大丈夫、大丈夫


少しずつ、少しずつ、少しずつ


カメさん、カメさん、カメさん

あー肩凝ったね

肩回して寝よう


オヤスミナサイ




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固くなったズッキーニ

2016年07月07日 | 日記
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

旧約聖書:イザヤ書53章3節(新共同訳)




今日の聖句は、三日くらい前、運転する前に読む霊想書「台所の祈り」に書いてあった聖書箇所。
全体が心に響いたが、後半の「多くの痛みを負い、病を知っている。」と言う箇所が特に心に留まった。
ああ、イエス様は私の病気や苦しみをご存知なんだ、と。
ブログに載せようと思い、聖句箇所を覚えてきたつもりが、43章と53章を勘違いし、今日改めて運転する時読み直し、箇所が判ったので書きました。



今朝は起きられたけど、相変わらず活動し始めたのは午後でした。

4時過ぎに、母を車で迎えに行った後、洗濯物を干した時、庭に生っているズッキーニを「もう食べなきゃなあ」と思い、もぎました。

そうしたら、皮が物凄く固くなっていたんです。どうしよう?と迷って、パソコンで検索をかけたら、「皮をむいて食べると良い」と書いてありました。(今は本当に便利ですね。)

早速皮をむいて、輪切りに切ってみました。そうしたら根元にスが入って、酷く固いのです。正直「食べられるかなあ?」と迷いました。

母に相談したら「失敗しても良いから、やってみなさい」と言われ、決心がつきました。今年で50になるのに、まるで子どもの実習ですね。でもこれが私の現実です。「失敗しても良い、やってみよう」と決心し、とりあえずズッキーニだけ多めの水で煮ました。予想外に柔らかくなったので、お湯を少し捨て、ツナ缶加え弱火で煮ました。その時、不思議な感覚に襲われました。料理している私の気持ちが、とても優しく、女らしい柔らかなものとなっていたのです。「わー、この感覚、久しぶりだなあ」と、不思議だけれど、じわじわ~っと嬉しい気持ちになって箸を動かしました。塩、胡椒、醤油を加えて数分、ズッキーニとツナの煮物の完成です。今日は弟が休みで夕食の炒め物を作ってくれたので、それまで盛り付けるのを待って、ぎりぎりに鍋から小皿に盛り付けました。この画像は鍋で煮込んだズッキーニとツナです。本当の家のおかずです。ズッキーニの傷んでいる所をちょっと切ったので、ツナが多めになりましたが、家族はありがたいものです。「うん、うまい、うまい」と皆食べてくれました。












ズッキーニ、まだ小さいのが一杯生ってます。植え替えをしてあげられなかったと友達に話したら「肥料だけでもあげたら変わると思うよ」と助言してくれました。前には、我が家の大きさと変わらないズッキーニがスーパーで安く売られているのを見た時「わざわざ植えなくても良かったかなあ」と思っていたのですが、この頃はすっかり私も親馬鹿です。スーパーでズッキーニを見ると「家の子の方が可愛い」と心でひとりごちでいます。

ゴーヤーはやっと小さな実が生り出しました。ゴーヤーチャンプルーが大好きなので、大きくなったら食べるのが楽しみです。
我が家のズッキーニは、緑色が売り切れだったので黄色を買いましたが、実はゴーヤーは緑と黄色を二種類買って植えました。どんなふうに実が生るか、楽しみです。脇では少しずつアケビが育っています。小さい庭ですが、明日の朝は茄子を取って、山形名物「だし」を作ります。




今読んでいる本がこれです。長尾 剛・著「広岡浅子 気高き生涯」 (PHP文庫)。
















NHKで放送された「あさが来た」も、DVDで母と楽しく見ていますが、実在の広岡浅子さんの一生も、なかなか面白いです。
だいたいの浅子さんの生涯の輪郭は、ドラマでわかったので、却って実在の浅子さんを読む時、その事がとても助けになっている感じです。
ただドラマでは、実際の浅子さんの夫には妾が居たこと、浅子さんが後にキリスト教を信じて、クリスチャンになった事はバッサリ省いているので、そう言うドラマと実在の違いを読んでいくのはなかなか興味深いです。特に、クリスチャンとしての広岡浅子さんに関する本が結構出ています。私の購入した広岡浅子・著「人を恐れず天を仰いで: 復刊『一週一信』」(新教出版社)も、100年ぶりの復刊と言う事で、現代文に直されてあり、率直で判り易く感じます。この二冊を昨日、交互に読んでいました。


私の印象では、広岡浅子と言う人は、かなり時代の先を走っていた女性だな、と言う感じです。ドラマで描かれなかったクリスチャンとしての一面で、自分でも「ああ、こんなこと思う時あるある。」と、共感する部分があると、嬉しくなります。



明日は、一日母の足になりますが、精神状態が落ち着いて、上手に休みながら自分の事も出来たらな、と思います。



ある方の文章の中に「丁寧に生きる」と言う言葉がありました。
ふっと、今日私が思ったことは、「『丁寧に生きる』ことは、『自分を大切に生きる』ことじゃないかな?『こんな自分なんて』って思うんじゃなくて、『この自分を大切に生きよう』と言うことではないかな?」と言う事です。


もう一つは、今日の固いズッキーニと同じで「失敗しても良いから、やってみること」なのかな?と思いました。

私にとって、「失敗しても良いから、やること」は、実はとても大変な事なのです。でも、それを書いていると時間がなくなるので、またこの次に書かせて下さい。


毎日、ブログの訪問者数を見ます。すると、100人以上の方々が、このブログを見守っていて下さいます。
私にとって100人って凄い数字です。どんな方が、どんな気持ちで私のブログを見て下さっているのかな?といつも感じています。
読んで下さっている方々へ、そして祈っていて下さる方々へ、本当にありがとうございます。


皆様のためにお祈りしてブログアップいたします。


シズコはまた、カメさんで生きます。


よろしくお願いします。


オヤスミナサイ。









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記憶のリハビリⅡ

2016年07月04日 | 
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
  大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。


旧約聖書:イザヤ書 9章1~2節(新共同訳)



こうして
夜中にパソコンを開いて書いていると
ワープロもまだ無かった大学時代を思い出す

さっきね
ある方のブログを見て
「あー私も転勤する時に、お手製の針山を生徒にもらったっけなあ」って
思い出したの

でもね、それが
どの学校だったか忘れてしまって
ちょっと悲しくなった
でも多分あの学校
ほぼあの学校

私の記憶が途切れてしまうのは
余りに現実が辛くて自殺未遂ばかりしていた頃
精神科のドクターが三回も
記憶を失くす注射をしてくれたから

「そんな薬あるの?本当に」って後で思ったけれど
その注射をした時の記憶はおぼろげにあるし
何より母がその事実を苦しく覚えている




お母さん、辛い思いをさせてごめんなさい




でも




こうして書いてて思ったんだけど


書けて日なたに出せるようになったと言うのは
少し良くなったんじゃないのかな?


だからこれは 詩のかたちの

「心のリハビリ パート2」


リハビリだから、辛い事もあるよね


あれ?「記憶」から

「心」になってる

全く無意識


何かが私の中で変わったんだね


あるがままでそのままに


もう寝よう


オヤスミナサイ







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記憶のリハビリ

2016年07月04日 | 日記
行く末は誰が肌ふれむ紅の花

(ゆくすえは たがはだふれん べにのはな)


松尾芭蕉 「西華集」




今、不安定な心の状態だけれど、それが少しでも解消出来たら良いなと思って書いています。

タイトルの「記憶のリハビリ」。日本語として適切なのかとても迷っています。実は「心のリハビリ」にしようかとも思ったのですが、「心」にすると、どうも自分の心にしっくり来ないのです。「記憶」でこのまま書かせて下さい。

今日もずっと辛いまま寝ていました。ほぼ3時に近い頃「このままじゃ苦しくて仕方が無い」と言う気持ちになって、母を誘って思い切って外出した。「何処に行くの?」と母に問われて「実はただとにかく外に出たいだけで、当ては無いんだ。でも一人で行くのが心細くてお母さんを誘った」と言ったら「じゃあ、天童の紅花祭りへ行こうか?」とのこと。天童市は山形から車で約30分の隣の市。思い切って母のナヴィゲーターで行く事にした。着いた先は、山の中の一面の紅花畑。


紅花と言うと高校時代何度も合唱曲「紅花抄」で歌った曲の中にあった、芭蕉のこの句を私は思い浮かべます。「行く末は誰が肌ふれむ紅の花」(ゆくすえは たがはだふれん べにのはな)松尾芭蕉の句。

紅花畑は山の中腹にあるので、立っていると、どっと自然が迫ってくるようである種の畏怖を感じる。この感覚は、20年以上前、小国町の基督独立学園高等学校に一人訪ねて行ったときの感覚。あの時もうつだった。真夏の日、さんさんと降る太陽の光と熱と、大自然の中を二時間散策したら、2ヶ月来なかった月経になった。不思議な体験だった。私の体が自然の一部になったのだと思う。


帰宅し、夕食後布巾を消毒していると、何か思い出す感覚がある。なんだろう?ああ、家庭科実習だ。


私は英語の教師として勤めていたが、臨時で家庭科を受け持った事がある。その時に調理実習をした。これは私も生徒達もとても楽しみだった。私はとても厳しい先生だった。作る時もそうだが、それ以上に後片付けを綺麗に済ませること、を生徒に厳命した。古い調理室だった事もあるが、生徒はよく従ってくれたと思う。正直に書こう。私は若い教師だった。そして私は愚かだった。授業で失敗して、生徒に謝って許してもらったこともある。私は愚かな教師だった。でも、本当に生徒達は素直だった。若かったので、何でも仕事を与えられた。捨て身でぶつかって行った。失敗して怒られた事など何回あったかわからない。でも楽しかった。生徒に「先輩」と間違って呼ばれ、卒業式の前に誰よりも早く一週間前から泣いていたのは私だし、卒業式当日も、卒業証書授与から、どぱーっと涙が溢れ出し、泣いたまま生徒を送り出し、保護者の方たちの謝恩会に出席した。保護者の皆さんからは「シズコ先生、ずっと泣いてるんだもよ~。いや全く。」と泣き笑いで言われた。私も「ごめんなさ~い。でも、淋しくて淋しくて、あーん!」と泣いていた。
卒業式後、出来たら校門の前で生徒達をとおせんぼして「行かないで~!」と叫びたかったのは私。そんなこともあった。


この頃私は25歳。全くうつ病では無かった。健康体そのものだった。


こう書くと、どーんと気持ちが落ち込んだ。でも事実。私は実は何歳で欝になったか、思い出したくない。思い出せるけれど、余りにその時が辛くて思い出したくない。でも、思い出してきた。次の学校に転校して私はうつと診断された。


これ以上辛い事を書くのは止めます。


私は、今日、洗い物をしていたら、生徒達と家庭科実習をしていて楽しかったことを思いだしたのに、辛い事を思い出してしまった。

でもこのブログを書いた事は後悔していない。ブログを書く前に、今日はこのことを書きたい、と思い、接続の悪いパソコンをなだめながら書いたからだ。そして一生懸命書いたからだ。

今、毎日なかなか起きられない辛い日々の中で、私は「記憶のリハビリ」をしているんだろう。辛かった事だけではなく、楽しかったことも私にはあったのだ。初めての教え子は10歳しか違わないので、今年で40歳になる。信じられない。今でもその生徒さん達と交流できるのは本当にありがたい。

今ふと、20代でピンク色のジャージを着て、生徒たちと一緒に走り回っている私、が、見えた。そうだ。そんなこともあった。朝6時から部活動に行ったこともあった。本当にいろいろあった。本当に。20代のその学校での思い出は、私の宝物。


でもね、うつになってからの学校生活も、辛くても、生徒達はいつも優しく接してくれました。もったいないくらいに。
このことだけは書いておきたいと思う。


なんだかわけが解らなくなったので、文章としてまとまりが無いですが、終わります。




紅花祭りの紅花。





























収穫した紅花。一抱え500円で売っていました。母が買って家に活けてくれました。母ありがとう。


















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天国

2016年07月01日 | 
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。



新約聖書:黙示録21章3~4節(新共同訳)




父ちゃん

あのな

この時間帯はいつも不安なの

んでな(=それでね)

ふっと今

天国ってどだなどごがな?(=どんなところかな?)って思ったの

その時な

この黙示録の聖句を思い出したの

父ちゃん

私が今天国を思ったのは

前みたいに死にたいって思ったわけじゃない

だってそれはよ

絶対にしてはなんねごど(=絶対にしてはいけないこと)だからな

ただ

クリスチャンになってから

天国って本当にあるんだよ、そこに必ず行けるんだよ

そこで皆と会えるんだ

苦しいこともみーんな無くなるんだ

そう思ったら

ちょっと行ってみでなあ(=行ってみたいなあ)って思ったの

私が今思うごとはな(=思うことはね)

天国さ(天国に)行った時

「あー!父ちゃん
この世さ生まれてきて良かったっけ、ありがどさま」

って

父ちゃんさ言えたら良いな

って思ったの

思った

本当に思う(涙)





父ちゃん

そっち、天国さ行ったら

父ちゃんの方から走ってきてケロな(=走ってきて下さいね)

そして

一杯一杯山形弁で話してな(=話してくださいね)

話すべね(=話しましょうね)

アーメン




追伸


父ちゃんが創ったサクランボ

うんと綺麗!


父ちゃん、ありがとう!














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