新渡戸稲造記念 さっぽろがん哲学外来

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四択の宿題(0011)

2013年10月11日 | 外来待合室
ちょっと見づらいですがサケの遡上です(北海道増毛町暑寒別川) 画像をクリックすると拡大します。
その昔、エリザベス・キュープラー・ロス女史の「ライフ・レッスン」という本を読みました。この本は、人間には一人一人に人生の宿題というものがある、ということを書いている本ですが、なるほどと思ってその後もずっと人生の宿題という言葉が気になっていました。

ちなみにロス女史のお母さんの宿題は「他人の世話になれるようになること」というものだったそうです。彼女のお母さんは人に迷惑をかけることが大嫌いでなんでも自分でやろうとした人だったそうなので、「他人の世話になれるようになること」が宿題だということなのです。

さて、最近、仏教の四無量心というものに出会いました。具体的には慈悲喜捨の心をいうらしく、
慈とは:貪りの心をなくし、人が幸福であることを願う心
悲とは:怒りの心をなくし、人が苦しんでいる時は助けようとする心
喜とは:妬みなどに苦しむ心をなくし、人の幸せを共に喜ぶ心
捨とは:愛憎などの執着心をなくし、人々を差別せず公平に見る心
とのことであります。

で、自分にとって人生の宿題であり、また、自分がこの世にいる意味は2番目の悲であることを人生の後半に至り初めて直感しました。こんなことを書くのは、気恥ずかしいというよりも、穴があったら入りたい位に本格的?に恥ずかしいのですが、自分に天命があるとすればこれだと思ったのです。

さて、いきなりですが、この駄文を読まれた方、あなたはこの4つのうち、どれが一番自分らしい宿題だと思いますか? またその宿題を果たす努力(ライフレッスンですので死ぬまでに出来ればいいのですし、出来なくても死んでしまえばこっちのもの?)を始めませんか。

で、この慈悲喜捨の教えを得た原文では、さらにこういう言葉が続いています。
「こうした四つの方向に心を拡散する努力を瞑想のうちに重ねることで「私(自我)」が次第にいなくなる。心の主とは実はこうした「私(自我)」がいなくなった「いのち」そのものなのである。」と。

この作者はいのちと私(自我)は別だと言っているのです。そしてそのことは、いのちというものは自分のものではなく与えられたものであり、さらには一切の生きとし生けるものすべてのいのちとつながっていること。また、同時にいのちは水と同じように姿形を変えながらも循環しているということでもあろうと。それゆえに生も死もこのいのちの循環であり、恐れることは一つもないとも。皆、一切の生きとし生けるものはこの大いなる(宇宙の)循環の中に抱かれているのですから。(J)

がん哲学外来について

患者さんが抱える悩みは病人としての悩みではない。人間としての悩みです。 がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるかという深い悩みです。それは「心のケア」というレベルではなく、自分という存在そのものを問う領域なのだと思います。ですから、「がん哲学外来」では、来られた方を「病人」の側面だけではなく、ひとりの人間としての悩みに焦点を合わせます。同じ人間として、対等の目線に立って、人間を学ぶ「人間学の場」でありたいと考えるのです …(提唱者であり当会の顧問である順天堂大教授・樋野興夫先生の著書より)

札幌の「がん哲学外来」(開設趣旨)

私達は樋野興夫先生の志に賛同し、車座になって意見交換をする運営をめざします。講演会スタイルではありません。参加者全員が同じ立場、同じ目線で耳を傾け、縁のあった方々に寄り添うことを願っています。