アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

千鳥ケ淵戦没者墓苑 -終戦の日に- 2014年8月15日

2015年08月14日 | マイ・ライフ in 調布市

千鳥ケ淵戦没者墓苑-終戦の日に-2014年8月15日正午の黙祷(昨年)


Taken on August 15, 2014 at 12:00 @ 千鳥ケ淵戦没者墓苑 六角堂


Taken on August 15, 2014 at 10:18


Taken on August 15, 2014 at 11:26


Taken on August 15, 2014 at 12:02 
フォーラム「平和・人権・環境」 社民党党首 吉田忠智氏ご挨拶


戦後70年の首相談話 閣議決定(NHKニュース)

政府は臨時閣議を開き、戦後70年にあたっての総理大臣談話を決定しました。談話は、いわゆる「村山談話」に使われた「侵略」や「お詫び」などの文言を用いながら、歴代政権の基本的立場を継承し、平和国家として積極的に国際貢献を行う方針を打ち出しているものとみられ、安倍総理大臣が午後6時から記者会見して発表することにしています。

政府は15日の「終戦の日」を前に、午後5時から臨時閣議を開き、戦後70年にあたっての総理大臣談話を決定しました。
談話は、いわゆる「村山談話」などでキーワードに位置づけられた「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」の4つの文言を、歴代政権の取り組みに触れるくだりなどで明記したうえで、歴代政権の基本的立場を継承し、平和国家として積極的に国際貢献を行う方針を打ち出しているものとみられ、安倍総理大臣が午後6時から記者会見して発表することにしています。
安倍総理大臣が14日に談話を発表する背景には、戦後70年となる「終戦の日」の15日は、全国戦没者追悼式が開かれ、天皇陛下がおことばを述べられることから、「静かな気持ちでその日を迎えたい」という意向があるものとみられます。
政府は、安倍総理大臣が談話を発表したあと、諸外国に真意が正確に伝わるよう速やかに英訳を発表するほか、中国語や韓国語の翻訳も公表することにしています。

(2015年8月14日17時27分)

 

 


阿修羅像(興福寺・国宝館) 「asu ra」-「生命・asuを与える・ra者」

2015年06月10日 | マイ・ライフ in 調布市

阿修羅像(興福寺・国宝館) 「asu ra」-「生命・asuを与える・ra者」 (梵語ぼんご・古代インド語)

興福寺・国宝館

興福寺・五重の塔 Taken on May 25, 2014 @ 11:02

興福寺の穏やか表情の阿修羅に惚れなおした日…。


日比谷公園のホセ・リサール博士像に勇気と力を…「マラミン・サラマッポ!Maraming Salamat po!」

2015年05月23日 | マイ・ライフ in 調布市

ホセ・リサール博士の日本滞在記念碑と胸像 in 日比谷公園

Dr. Jose Rizal's monument and bust in Hibiya Park, Tokyo

Taken on May 22, 2015 @ 12:17

 昨日22日、東京駅近くでの用事をすませた後、日比谷公園にある、フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日本滞在を記念とする碑と、ブロンズ製の胸像を探しに行きました。
 日比谷交差点から、日比谷公園を日比谷通り沿いに1~2分歩くと、すぐにその記念碑と胸像が見つかりました。感激…!ずっと、一度お訪ねしたいと思っていた場所でした。リサール博士は、マニラの私の古い親友(Eurasian・ユーロシアン)の高祖父様なのです。ようやく、ここへ来ることが出来ました…。

 

 ホセ・リサール博士(Dr. Jose Rizal・1861年6月19日~1896年12月30日)は、スペインからの独立運動に命を捧げた「フィリピン独立の父」、国民的英雄です。1888年2月に、現在の日比谷交差点付近にあった東京ホテルに滞在したことから、その場所に1961年6月19日に記念碑が設置されました。何と、ホセ・リサール博士、ご生誕100年の記念すべき特別な日に…です!

 リサール博士の胸像(上の部分)は、1998年5月8日に、フィリピン独立100周年を記念して作られたものです。

 

日比谷公園ホセ・リサール Jose Rizal 記念石碑

 実物大に作られたというこのブロンズ像、決して大きいとは感じられない胸像ですが、その端正なお顔立ちを眺めていて、大きな勇気と力を与えられたような気がしました。そして、フィリピンで15年間もロング・ステイさせていただいたことに、たくさんの方々に支えられてきたことに、自ずと感謝の念が湧いてきました。
「マラミン・サラマッポ!Maraming Salamat Po!」(本当に、ありがとうございます。)


(フィリピン独立100周年を記念して、ホセ・リサール博士の胸像が増設された。)

 1898年6月12日、「エミリオ・アギナルドーEmilio Aguinaldo」というフィリピン独立運動の指導者が、3百年以上続いたスペイン統治(植民地)に終止符を打つべく、フィリピンの独立を宣言しました。
 その前年1897年末、スペインとの和平協定を結んで香港に亡命、一旦は独立運動から離れたアギナルドでしたが、翌1898年2月に勃発した米西戦争(アメリカとスペインの利権争い)で事態が急変します。アメリカから、フィリピンの独立に全面協力することを条件に、米西戦争に協力するようにとの要請を受け入れたアギナルドは、米艦隊とともにフィリピンに帰国し独立運動を再開、この6月12日の独立宣言となったのでした。
 アギナルドは、その翌1899年1月にフィリピン共和国を樹立、初代大統領となりましたが、実はその1か月前にスペインとアメリカとの間で結ばれたパリ講和条約で、フィリピンの領有権がスペインからアメリカに、約2千万ドルで売却されていたのです。
 実質は、戦後1946年7月4日に第3次フィリピン共和国として独立するまで、アメリカの統治下(1942~1945年の3年間は旧日本軍の占領下)にあった訳ですが、フィリピン国民にとっては、その6月12日が「独立記念日-Araw ng Kalayaan(Independence Day)」として大切にされており(祝日)、毎年記念行事が盛大に行われています。現在の国旗と国歌も、その時にアギナルドの依頼によって作られたものです。

 そして、そのスペインからの独立運動の闘士として、フィリピンの国民的英雄とされているのが、「ホセ・リサール博士-Dr.Jose Rizal」です。
 スペインの圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状、諸問題を厳しく告発した『ノリ・メ・タンヘレ-Noli Me Tangere(我に触れるな)』(1987)と、『エル・フィリブステリスモ-El Filibusterismo(反対者)』(1891)の二つの著書は、フィリピン独立への気運を高め、自らも1892年に「フィリピン民族同盟」を設立して、フィリピン人の奮起を促そうとしますが、まもなくスペインに対する反逆罪で逮捕され、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan)へ追放されました。その流刑の地にあってさえも、四年間、リサール博士は病院と学校を作り、住民の啓蒙に努めました。
「学校を苦痛の場所ではなく、知的な楽しみの場所にしよう。」「何よりもまず、子供たちに、自信、安心、自尊の心を教え込む事が大切だ。」また「私は大衆の福祉を愛する。だからこそ学校を建てるのだ。その幸福を、教育を手段として、順を追った前進によって私は追及していく。光のないところに道はない。」という、博士の強い意志で建てられたその学校で教わった生徒たちは、後に各方面でのリーダーとなり、博士の教えを周囲に伝授していったそうです。
 1896年7月、流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに渡りましたが、フィリピンでは「カティプナン」による独立闘争が開始され、その扇動容疑でスペイン到着と同時に逮捕されてしまいます。マニラに送還され、サンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により銃殺刑が宣告されます。
 1896年12月30日、「あけぼのを染めるのに紅がいるのなら、私の血で染めよ、頃よい時にまき散らし、さしのぼる君の光で金色に照らせ!」という言葉を残して処刑されました。
 アギナルドの独立宣言の1年半前のこと、享年35歳という若さでした。国内のみならず、アジアの民族運動にも影響を与えた方です。
フィイリピン独立記念日に…。(111周年)より-
(2009年6月12日 in アイ!サラマッポ in バギオ

 マニラのリサール博物館に展示されているこのお写真…。「Usui Seiko・臼井勢以子」さん(おせいさん)という方で、リサール博士が東京に来て恋に落ち、日本滞在を40日間にも延ばした、といいます。


Usui Seiko, A daughter of a powerful Samurai.
She was better known to Rizal as Osei-san.
(ホセ・リサール博物館 in Manila)

 名残惜しくも、そこを離れようとすると、何やらクラッシック音楽の生演奏が…。ワーグナー・Richard Wagnerの『ローエングリーン』の第2幕より…。ちょうど、日比谷公園内の野外小音楽堂で、東京消防庁音楽隊による都民コンサート(金曜コンサート)が開かれていました。

しばらく演奏を楽しませていただき、帰路に…。

 ちなみに、リサール博士は、おせいさんと日本での長きに渡る滞在を堪能された後、ドイツへと向かったとのことです。

(参考)当ブログより

ホセ・リサール博士ご生誕150周年のフィリピン独立記念日 in 2011
2011年6月12日 

フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日
2008年12月30日


この人、だーれ?フィリピン人で初めて…。Do you know this Filipina?

2015年05月21日 | マニラ METRO MANILA

 この人、誰だか分かるだろうか?知る人ぞ知る、フィリピン人で初めて…。

         

Do you know this Filipina?

An insider would know that she is the first Filipina who ... 


 


フィリピンで最初に好きになった曲…”Only me and you” (Donna Cruz・ドナ・クルーズ)

2015年05月18日 | 音楽

 ドナ・クルーズの『オンリー・ミー & ユー』(Donna Cruz” Only me and you”)を初めて聴いたのは、今から20年前(1995年)の12月…。フィリピン・ルソン島南部のルセナ市(Lucena City)に、ミドル・ステイしている時だった。ルセナ市街の電気屋で買ったラジカセでFMを聴いていると、ディスクジョッキーの声高な「Donna Cruuuz, Only mee and youuu!」などとポップな紹介の後で、一日に何度となくこの曲が流れていた。歌詞は自分の英語力のなさでよく聞き取れない、意味が分からないところもあったが、メロディと歌声に強く惹かれた。とてもハンブルで切ないラヴ・ソング…。

Only Me and You-Donna Cruz (English, with Lyrics) - YouTube

Donna Cruz - Ikaw lang at ako (Tagalog) - YouTube

 ルセナ市のパレンケ(Palengke-Public market・市場)で見つけた、ドナ・クルーズの『Only me and you』が入ったアルバム・カセットテープは、今も大事にしている。

 ネット等で聴くと、自然と涙が出てくるのは年のせいか…。

(参考)
フィリピンに初めて足を踏み入れて17年…「光陰矢のごとし」 (2012年12月05日 当ブログ)

市場-バギオ市民の台所「パレンケ」 (2008-12-12 in フィリピン-バギオ

(余談)
 2001年12月からダバオに引っ越す2003年2月まで、2年以上住んでいたマニラのラス・ピニャス市、ピラール・ビレッジの借家の、わずか数件お隣(徒歩1分余)が、ドナ・クルーズさんのご実家だった。(追っかけではなく、たまたま…^^;。)ご結婚後、ご主人とセブ島に移り住んだドナ・クルーズさん…。ご実家には「お母さんに…」と建てられたアパートがあった。近所の人たちは、赤ちゃんの頃からのドナさんを知っていて、街の誇りとしていた。

 その当時住んでいた家(マニラのラス・ピニャス市ピラール・ビレッジ)。


Taken in May, 2001 手前のバンガロースタイルの平屋(3LDK)

I miss my stay in the Philippines…


「朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」3…フィリピン、ダバオ市から…in Nov., 2014。

2015年05月16日 | マイ・ライフ in 調布市

 昨年の11月15日、フィリピンミンダナオ島ダバオ市で音楽活動をされている、ミュージシャン「銀河鉄道(ギンテツ・GINTE2)」のダバシューことMr. Shuji Hondaが訪ねて下さった。


Taken on Nov. 15, 2014 @ 19:01

銀河鉄道(ギンテツ)

海外移住した70年代の高校生フォークロックバンド銀河鉄道メンバーの40年後のライフスタイル・・ 

 私がダバオ市にロング・ステイしていた4年間(2003年2月~2007年4月)、ずっと前からの友人のように親しくお付き合いさせていただいた。
 8年前、私がダバオを離れる日もダバオ空港まで見送りに…。一時帰国後に、7月から再度マニラで暮らし始めてからも2度訪ねて下さった。が、それももう数年前のこと…。本当に久しぶりだった。
 日本フィリピンボランティア協会・JPVA(延浄寺内)の網代先生をお訪ねした後、友人のサトシと3人で夕食を…。時間を惜しんで、思い出話に花を咲かせた。
 実は、この時期は、私の最も苦しかった時期だった。2014年の後半は、和歌山市から調布市へ転入し、ヘルパーさん、介護者がほとんどいない中で3ヶ月余りを過ごしていた。日本の介護事情の厳しさを目の当たりにし、「もう無理だ…。何とかしてフィリピンに戻ろう。」と、プランを進めていた。
 10月下旬、フィリピンから短期滞在ビザで来ていたフィリピンの友人が、家族の事情で急きょ帰国。調布市障がい福祉課のケースワーカーさんの勧めで、高齢者向けの多摩川病院へ緊急入院させていただき、一時避難をしている最中だった。
「11月15日に会いに行くよ…。」とダバシューさんから連絡が…。
「できれば、病院の外で会いたい…。その日までに退院しますよ…。」と答えたものの、アパートに戻って生活できる目処もついてなかった…。それでも、その日までの退院を目標に出来る限りの手をつくしてみよう…、と心に決めた。 
 周囲の協力も得て、ちょうどその日のお昼過ぎに、アパートに戻ることができた。しかし、人はいない…。一人、つつじヶ丘駅改札で、ダバシューさんの到着を待った。いつもの笑顔で、「やあー、元気ぃ?」…。再会を果たせて、本当に嬉しかった。 

  これまた、2006年のRP-JAPAN Festival(フィリピン日本友好祭・ダバオ市)終了時での思い出の写真…。


Taken on Sept. 24, 2006 @ Davao City together with “Datu Uchida”(内田オトウサン)

DUDF -「Datu ウチダおとうさん」(ダバオ) (2009-01-25 アイ!サラマッポ in バギオ

 その節は、遠路はるばる…、サラマッポ!

I hope I will be able to visit Davao City someday…


「朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」2…フィリピン、ダバオ市から。Ma'am Ines from Davao!

2015年05月15日 | マイ・ライフ in 調布市

 昨日5月14日の夕方、調布市西つつじケ丘の延浄寺(浄土真宗本願寺派・網代正孝ご住職)で、全フィリピン日系人会連合会会長(The president of the Federation of Nikkei Jin Kai Philippine)であり、ミンダナオ国際大学・MKDの学長(The dean of Mindanao Kokusai Daigaku)である、イネスさんの歓迎パーティ(日本フィリピンボランティア協会・JPVA(八木眞澄会長)主催)があった。


Taken on May 14, 2015 @ 17:52 調布市西つつじケ丘「延浄寺」にて。(向かって左)

Mindanao Kokusai Daigaku・ミンダナオ国際大学(English page)

ミンダナオ国際大学・Mindanao Kokusai Daigaku(日本語ページ)

フィリピン日系人互助財団 - フィリピン日系人支援の会

 イネスさんと最後にお会いしたのは、2007年の4月…。私がダバオを発って以来、8年ぶりの再会だった。うれしい、うれしい”Nice to see you again!”…。♪積もる話も数々あるけど…。(^^;)

♪旧友再会フォーエバーヤング(吉田拓郎)- YouTube

 お子さんが大きく成長され、ビックリ…。イネスさんとご主人、私も(?)8年前とそんなに変わってはいないが(…^^;)、二人のお子さんたちに会って、年月の経過をひしひしと感じた(^0^)。歓迎パーティでは、懷かしい方々にもお会いでき、本当に楽しいひとときを過ごさせていただいた。サラマッポ!

 これは、2006年のRP-JAPAN Festival(フィリピン日本友好祭・ダバオ市)終了時での思い出の写真。


Taken in August, 2006 @ Davao City together with “Datu Uchida”(内田オトウサン)

DUDF - 「Datu ウチダおとうさん」(ダバオ) (2009-01-25)

My Family & Friends - “RP-JAPAN 2006”

 おみやげに、homemade durian candy etc.(自家製ドリアンキャンディ)をいただいた。久しぶり…。NnnnN…Oishii! これは、本物ドリアン。↓


Taken in Aug. 2006 @ Davao City

 私が、ミンダナオ島ダバオ市に住んでいたのは、2003年2月から2007年4月までの4年余り…。その間、日本フィリピンボランティア協会・JPVA(網代正孝会長・当時)と関わらせていただき、充実した日々を送ることができた。

日本フィリピンボランティア協会・JPVA 最高顧問網代正孝先生との出会い (調布市)
2015年03月22日当ブログ

ダバオ市の思い出 Vol.2 フィリピン日系人会・PNJK on 70th Araw ng Dabaw in 2007 
2015年03月19日当ブログ

ダバオの「カダヤワン・フェスティバル」 Kadayawan 2010 in Davao 
2010年08月20日当ブログ


ネパール大地震…、「カトマンズ本願寺」は…。(今日5月14日は故向坊弘道氏のご命日)

2015年05月14日 | マイ・ライフ in 調布市

 先月4月25日に、マグニチュード7.8の地震が起きて甚大な被害が出ているネパールで、一昨日12日(火)に大きな余震があった。
「日本時間の12日午後4時5分ごろ、ネパール東部で、マグニチュード7.3の地震がありました。震源は、首都カトマンズから東に76キロ付近で、震源の深さは15キロとみられ、現地では、その後も余震とみられる地震が相次いでいます。
 今回の地震で、カトマンズなど広い範囲で新たに建物などが崩れ、ネパール内務省によりますと、震源に近いドラカ郡や先月の大地震で大きな被害が出たカトマンズ北東のシンドゥパルチョク郡などでこれまでに42人が死亡し、1100人以上がけがをしたということです。」
(NHK NEWS WEB・May 12 @ 21:16) 

 そのカトマンズには、北九州市の故向坊弘道氏によって発願され建立された「カトマンズ本願寺」がある。
 今日は、その向坊氏(ヒロさん)のご命日…。腎盂がんのためお浄土に旅立たれて早9年…。「頸損の父」と慕われ、私をフィリピンへと導いてくださった方だ。
 お浄土で、きっとネパールが一刻も早くこの大惨事から復旧され、「カトマンズ本願寺」が、多くの人々の救いの場となることを願っておられることだろう。

 これは、2006年3月30日(21:19)、旅立たれる1ヶ月半前に、故向坊さんからいただいたEメール…。
「寺本 様
 今朝は、長距離電話ありがとうございました。私は3ヶ月間Lucenaに滞在していました。ネパールも治安の悪化が報道されていますが、カトマンズ本願寺建設に悪影響はないようです。一度、ネパールにも来て下さい。私は11/6からネパール・インドをまわります。
 ダバオはいいところですね。『南無阿弥陀仏』を唱えながら、感謝しながらの毎日はすばらしいです。
『ダバオ有情-フィリピン人介護者と生きる』(仮題)という手記は私が10冊書いた経験から言うと、180ページ以内がいいです。200ページ以上の難しい本は日本では売れません。自費出版かどうか、樹心社を紹介しましょうか?
 ところで、フィリピン人介護者と一時帰国する方法がありますか?教えて下さい。

)))))))))))))))))))))))
向坊弘道  (グリーンライフ研究所・日本)
((((((((((((((((((((((((()))))))))))))))))))))))))))))))))
提案します。
・東京だけが繁栄する中央集権政治を道州制に改めましょう。
・沖縄を経済自由地域にして、全国の平等な繁栄を計りましょう。」

故向坊弘道氏のご命日に…。(合掌) - アイ!サラマッポ in バギオ 2009/05/14

 

カトマンズ本願寺 

<カトマンズ本願寺縁起>

ネパール開教地カトマンズ本願寺は、福岡県北九州市の故向坊弘道氏によって、発願され建立された。向坊弘道氏は、二十歳の時の車の事故で全身不随となったが、それが縁でお念仏の道、阿弥陀仏の救いに出遭った。そして、世界にお念仏の道を伝えたいと、1992年「NGOグリーンライフ研究所ネパール」を設立、社会福祉活動を中心とした活動を始めた。
 1998年インドのブッダガヤでソナム師と出遭う。師は、向坊氏の説く念仏の道、他力の教えに強く惹かれ、浄土真宗へと転向する決意をし、1999年グリーンライフ研究所の所長になる。
 ソナム師は、日本から送った古着の配布や、献血・無料の健康診断を行い、お念仏を基盤とした社会福祉運動を展開していった。その中で、ネパールの仏教に縁のある人たちにお念仏の道を広めていった。
 2003年寺院建立を発願し、有縁の方々にご協力を仰ぎ、2004年寺院の建設を始めた。また会も「グリーンライフ仏教協会」と名称を変更した。浄土真宗本願寺派は、2006年7月、正式に「本願寺」名の使用を認許され、ここに「ネパール開教地カトマンズ本願寺」が成立した。」

 4月25日のネパール大地震で、外壁が崩れるなどしたカトマンズ本願寺…。 


「ネパール中部で今月25日に発生した大地震を受け、震源に近い首都カトマンズに寺院がある浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)は27日、一時見舞金として200万円を拠出することを決めた。
 本願寺派は2006年にカトマンズ本願寺(ネパール開教事務所)を開設し、ネパールでの伝道布教の拠点としている。見舞金は、カトマンズ本願寺と在日ネパール大使館に100万円ずつ送る。
 本願寺派によると、カトマンズ本願寺は日常の法話会に参加している信徒約240人の安否を確認中。建物は外壁の一部が崩れ、天井が損傷したほかは目立った被害を受けておらず、併設している宿泊施設に避難者を受け入れられないか検討している。
 合わせて本願寺派は27日、義援金の受け付けを始めた。同派の「たすけあい募金」への郵便振替(01000-4-69957)で通信欄に「ネパール地震」と記入する。7月31日まで。問い合わせは同派(電話075・371・5181)。」

【ネパール大地震】浄土真宗本願寺派が一時見舞金200万円 ...(4月28日)


「朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」…フィリピン、バギオ市から。

2015年05月12日 | マイ・ライフ in 調布市

 昨日11日(月)、北ルソン日本人会(JANL・Japanese Association of Northern Luzon)の小国会長が拙宅を訪ねてくださった。ルソン島北部の高原都市バギオから一時帰国されている中、遠路はるばる…。Salamat po!


Taken on May 11 @ 15:03

北ルソン日本人会・JANL

北ルソン日本人会(JANL)・関係者の皆様…

「お久しぶりです。強い台風だったようですが、皆様大丈夫だったでしょうか?
 小国さん、昨日は、遠路はるばるありがとうございました。私が一時帰国のためにバギオを発って以来、ちょうど2年ぶりの再会でした。
 正直言って、2年前、一時帰国して約1か月後に左脚の大腿骨頚部を骨折してからは、悪戦苦闘(^^;)の日々でした。フィリピンに戻ろうにも戻れず、一年間縁あって和歌山市で…。昨年7月からは、ずっと関わらせていただいている日本フィリピンボランティア協会・JPVAのある調布市へ…。
 その経緯や、日本での厳しい介護事情…を、愚痴混じりに小国さんに聞いていただきました。
 何とか、フィリピン人のケアギヴァー(以前の専従介護者)に、個人の雇用契約で日本に来てもらえないか、といったことも探ってきましたが、将来的にも大変難しそうです。自分の拙いブログでも少し触れてありますが…。
フィリピン人看護師・ケアギヴァー(46)
 でも、最近は、傷んだ身体の治療を続ける中で体調も良くなり、生活も多少落ち着きつつあります。元気になると、また旅行ででもフィリピンに行ってみたい…という希望も持てるように…。(^0^)
 小国さんからも、バギオの皆様のご様子、楽しいことも大変なことも、いろいろとお聞きしました。
 皆様のご健勝とますますのご活躍を心よりお祈りします。
 また、いつの日かお会いできる日まで…。
「サラマッポ!」
(JANLメーリングリスト) 

 ちなみに、「朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」の「朋」(とも・朋友)は、師を同じくする友人という意味合いが強いですが、私たちの「師」は、まぎれもなく「フィリピン」でしょう。
 私は、フィリピンに滞在していた15年間の間に、多くを教わっただけでなく、失いかけていたヒューマニティを取り戻し、命さえも救われました。
『リボーン・ライフ in バギオ』 -Reborn Life in Baguio- (July 7, 2011~May 18, 2012)
(バギオでよみがえれ!生命・人生…♪クラシック音楽にのせて。)

 フィリピン、バギオをこよなく愛し、文化・教育活動等を通して、日本とバギオのコラボレーション、よりよい交流の姿を追い求め続ける小国さん…。日本を満喫され、バギオでますますご活躍されますことをお祈りします。 


 さて、先ほど午後6時頃、四国の南の海上で温帯低気圧に変わった台風6号…。ここ調布も風が強まってきました。


May 12, 2015 @ 13:00

 バギオは、台風の通り道…。
「ここバギオ市「Baguio」の名前は、ベンゲット州古来のイバロイ語の「Bagiw」(豊富にあるコケ類)からつけられたものですが、台風を意味するタガログ語の「Bagyo」(バギョ)は、ここ「Baguio」(バギオ)に由来しています。
 1911年に、バギオ市に居座り、甚大な被害を出した(24時間で46インチという雨量を観測した)台風以降、typhoon(台風)を「Bagyo」と呼ぶようになったのです。↓
Baguio is the seat of government of the Cordillera Administrative Region. The name of the city is derived from the word “Bagiw” in Ibaloi, the indigenous language of the Benguet Region, meaning “flowering moss”(豊富にある苔類) 」
もうすぐバギオ市のお祭り! 103rd Baguio Day celebration is coming soon! 2012年08月22日) 

台風4号・5号が続けざまに…。(台風…タガログ語「Bagyo」の由来は「Baguio」です。) 
2012年06月19日

“Bagyong PEDRING” hit Baguio City squarely. (Typhoon Nesat)  2011/09/27


NHK連続テレビ小説『まれ』は楽しみ。「お母さん、うれしいわいね…。まれ、もうお母さんを捨てなさい。」

2015年05月09日 | マイ・ライフ in 調布市

 3月30日(月)にスタートしたNHK連続テレビ小説『まれ』(ヒロイン土屋太鳳・つちやたお)、楽しみにして見ている。

NHK連続テレビ小説「まれ」

 今朝のラストシーン…。「ほんでも、パティシエになりたい…。」のまれの言葉に、「行っといで!」と母(常盤貴子)。その前に、その決意をすでに感じ取っていた母が「お母さん、うれしいわいね。まれ、もうお母さんを捨てなさい。」…。「母」って凄いなあと思わせる場面だった。「自分のことだけ考えて、思ったようにやりなさい。」と…自分の母親(まれのおばあちゃん・草笛光子)との確執が、周囲の陰の力もあって徐々に氷解していきそうな進展の中で…。

 まれのお母さんは、「人生に夢なんて必要ない!」「地道にコツコツ・・・。」と、ずっとまれに言い続けていた。夫でまれのお父さんは、はまり役の大泉洋…。「まれ」という名前は、「希・めったにないこと=夢を追ってほしい」という希望を持って父親が名づけた。が、その父親は、夢ばかり追い続けていつも失敗し、家族にさんざん迷惑をかけたダメな父親…。都会を離れ、一家で能登の輪島に移住するストーリーから始まった舞台は、これからまれがケーキ職人・パティシエを目指す横浜へ…。

 この土屋太鳳演じるまれ、ゆとり世代と呼ばれる若者層になるのだろうが、その前の世代も含めて、ずっと不安定な世相の中で成長し、あまり景気の良い時代を経験したことがないのかもしれない。
「人生に、夢は必要かもしれない…。」と葛藤しつつも、自分の夢を胸の奥にしまい込んで、輪島市役所というお固い仕事に就くが…。まれの本心を知ったおばあちゃんが、輪島市役所に勝手にまれの辞表を送り届けて…。

 来週からの『まれ』も楽しみだ。ところで、このロケ地輪島で、ヒロイン役の土屋太鳳を盛り上げる周囲の役者陣がまたすごい…。

『まれ』の登場人物

 金沢出身の篠井英介にガッツ石松、まれ一家が居候する輪島の伝統的な揚げ浜塩田を営む家の田中泯、その妻に田中裕子。輪島塗の塗師屋旦那役には「木枯らし紋次郎」(中村敦夫)まで出ている。そして、能登(輪島市)の人々…。

『まれ』NHK朝の連ドラ、舞台となる輪島の塩田、その作り方とは?-YouTube-

新木枯らし紋次郎 - YouTube 
 

 方言(石川弁?能登弁?)も、聞いてて気恥ずかしくも、懐かしく微笑ましく感じる…。例えば、こんな感じだ。

「最近、ちょっと忙しいげんてぇ~。」
「なんでや~っ?どしたん?」
「なんででも…。ほんとはぁ、今度、引っ越しするげんて~。」

「エエーッ、ほんな~ん!どこにぃ~?」
「おんなじ市内ねんけどぉ~…。」

「近くなんけ?」
「今んとっからちょっと遠いげんけどぉ…。まあ、いいとこやわいね。」

「スーパーとかあるがんけ?近くに?」
「あるわいねぇ~。コンビニもすぐそばにぃ…。」

「みんな、知っとるがぁ?」
「まだ、少しの人しか知らんげんて…。」(^^;)

 ゴールデン・ウィークの連休明け、何かと気忙しい日を送っている。明日は「母の日」…。