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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑧

2006-07-07 23:46:38 | 遍路
         仏木寺仁王門前でアイスクリーム売のおじさんに撮ってもらう


 四国88ヶ所自転車遍路の旅、本日は5-3、通産⑧回目です。

仏木寺の門前は、はなやいだ雰囲気で賑わっていた。仁王門に向かって左側に一間四方位の真新しい東屋があり、そこで数人の歩き遍路さんたちと自転車遍路さんが和やかに談笑し、その輪にアイスクリーム売りのおじさんも加わっていた。話の中心は若い(二十歳前後に見えた)女性の歩き遍路さんで、テントを担いで野宿もしながら回っているとのこと。中年の歩き遍路おじさんと道中追いつ追われつして顔なじみのようで、仲良く話している。

「昨日は、公園の芝生にテントを張って泊まったんですよ。」
「ひえー、よくやるね。私は民宿とまり。」
「テントのほうが安上がりですし、よく眠れますよ。」
横からアイスクリーム売りのおじさんが話しに入り込んできて、第四十三番札所へ行くのに峠越えが良いか、トンネルを抜けていったほうが良いか等のアドバイスをしている。東屋では他の歩き遍路さんと自転車遍路さんが、ニコニコしながら話を聞いている。丁度のども渇いてきたところなので、お遍路さんたちの話の頃合を見てアイスクリームを買い、ついでに仁王門をバックにおじさんに記念写真を撮って貰った。仏木寺は古刹で、鐘楼は茅葺であった。納経帳への記帳は、若い高校生ぐらいに見える男性であった。梵字で記帳してくれるのだが、有り難いのやらどうやら。
第四十三番札所への道は、仏木寺の前の県道を山のほうへ向かって登って行く。少し行くとすぐに急な登坂が始まり、ギアを最低速に落としエッチラホッチラと上りだした。しばらく漕いでいると、先ほど東屋にいたロードレーサーの自転車遍路さんが後から追いついて来て「お先に」と追い越していく。結構パワフルに漕ぎあがっていく。歯長峠のある歯長トンネルまでは地図を見ると距離三キロメートルほどで標高三百メートル以上(十パーセント以上)登らなければならないようだ。これは漕ぎ続けるのには荷物も結構重たく、私のパワーでは少々きつい。何度目かのヘアピンカーブで、ついに自転車を降りて、押しあがり。それでも十分程押していると歯長トンネルの入口が見えてきた。
長さが七~八百メートルほどの歯長トンネルを抜けると、今度は標高約五百メートルから約百五十メートルの宇和川まで一気に下り、宇和町に入って行く。県道をしばらく宇和川に沿って走ると、やがて第四十三番札所への看板があり、看板に導かれ県道から右折した。深い山の中というわけではないが、樹木の茂ったところに第四十三番札所明石寺の仁王門にいたる参道がある。参道はかなり傾斜のきつい上り坂となっており、ここでも自転車を降りて、押して登ることになってしまった。
十六時三十分、第四十三番札所「明石寺(めいせきじ)」着。明石寺は古都宇和町に似合った、郊外の里山の寺で本堂、大師堂とも歴史を感じさせる立派な木造建築である。納経帳に記帳を頂いていると、歯長峠手前で追い抜かれた自転車遍路さんに出会った。


「歯長峠の坂道を漕ぎ上がったのですか。」
自転車遍路さん
「なんとか漕いで上がりました。」

「タフですね。十二パーセント位の坂ではなかったですか。」
自転車遍路さん
「そんなもんですかね。私は自転車が軽いですし。しかも、ここで出会うんですから、スピードもたいして出なかったんでしょう。」

「今日は、どこまでいかれる予定ですか。」
自転車遍路さん
「大洲までの予定です。」

大洲市まではまだ一時間以上はかかる。この自転車遍路さん、通し打ちで徳島から自転車で来ており、あと一週間以内に回りきる予定とのことである。私は、今回の自転車遍路は、ここまでの予定で、宇和町の街中に戻りビジネスホテルに泊まる予定だ。写真を写してあげたあと、お互いの健闘を祈り合い、仁王門で別れた。
宇和町の県道まで戻り、やがて国道五十六号線に合流するところにビジネスホテル「第二松屋」があった。そこに十七時二十分にチェックイン。部屋に荷物を置き、宇和町の散策に出かけた。宇和町の中心はJR予讃線の駅「卯之町」である。鉄道が通っているところでは、駅は町の中心になっているところが一般的には多い。そう思い「卯之町」駅に行ってみた。駅前にはちょっとした広場はあるが、飲食店や商店がほとんどない。「鉄筋」のビルもなく、あまり活発な生活の息吹が感じられなかった。木造のレトロな駅舎に入ると宇和島や、予土線の窪川駅に行く汽車や、反対に松山方面に行く汽車の時刻表が張り出してあるが、一時間に一~二本の運行であり、随分と遠くへ来たものだと実感した。
宇和町は「卯之町」駅から国道五十六号線を挟んで、二筋の旧道路が国道と並行している。この旧道路が、宇和町の歴史を記しつづけている古い町並みである。町の案内パンフレットによると、蘭学者の高野長英の隠れ家とか貝塚とかがあったり、かなり古い時代に開設された開明学校などが現存している。町並みは格子戸の家や白壁の家があり、薄暗くなりかけた町を子供たちがおしゃべりをしながら歩いていたり、地元に人が荷台の大きな自転車に乗って走り去って行く。夕暮れ時のモノトーンの景色に、セピア色した日本の原風景に出会ったようだ。しばらくぼんやり、のんびりとどこか懐かしい町並みを散策をし、町の外れ近くのところから再び国道に戻った。
夕食を食べてからビジネスホテルに戻ろうと思ったが、あまり適当な食事をする店がない。仕方なく、コンビニに立ち寄り夕食用の弁当と、明日の朝用のパンと牛乳を買い込んで、ホテルに戻った。


朝からの雨の中、八幡浜へ。フェリーを乗り継ぎ、大阪に帰る。

昨日の夕方から、雨がすこしばらついていたが、二〇〇二年五月一日は朝から雨が降っていた。考えたら二〇〇〇年に自転車遍路を始めてから、高知の五台山で少しばらついたのと、フェリーの乗船待ちの時に猛烈な雨に見舞われただけで、走行中としては初めての本格的な雨だ。昨夜仕入れたパンと牛乳で簡単な朝食を済ませ、午前八時に自転車遍路では始めての「雨装備」をし、ビジネスホテルを出発した。
国道五十六号線は交通量が多く、雨も降っており気を遣いながらの走行である。宇和町の市街地を走り抜けしばらく行ったところでコンビニに立ち寄り、ペットボトルのお茶を仕入れた。三十分ほど走ると、大江という三叉路があり国道五十六号線を直進すれば大洲市、左の県道を辿れば八幡浜市である。まだまだ余力があり、名残りが惜しいのだが今回の自転車遍路の旅はここから左折し帰路に向かわなければならない。五月三日には、孫に潮干狩りに連れて行く約束をしている。そのため、八幡浜市からフェリーで別府にわたり、フェリーを乗り継いで夜の大阪南港行きの関西汽船フェリーに乗船しなければならない。
大江からは県道を再び漕ぎ登る。国道と違い自動車が殆ど通らないのんびりした道路を、雨に降られながら三十分ほど登ったところに、峠のトンネルがある。宇和町が標高百五十メートルほどで、この峠までの県道の登りが約二百メートルはあるだろうか。あわせて約三百五十メートルの峠からは海抜〇メートルまで一気の下りだ。爽快な気分で自転車に乗りながら、今回の旅の余韻に浸っていた。
今回の旅は、鮮烈な「色」が印象に残る。まるで燃えているように鮮やかな新緑の萌黄色に興奮し、吸い込まれそうな群青色の宇和海に感動した。その中で、人との出会いもあった。信仰心で始めた自転車遍路というわけでもないのに、この頃は「南無大師遍照金剛」とすなおに三度唱えてから、自分や家族の健康などを祈念するようになってきた。自分の重要な生活体験の一部となってきている。
いろいろと思いにふけりながら街中に入ってきて、やがて午前九時二十分に八幡浜のフェリー乗り場に着いた。十時十五分発のフェリーに乗船し定刻に出帆、延々と続く佐田岬半島にそってフェリーは進んだ。やがて佐田岬を離れ豊後水道に、そして定刻の十二時五十五分に別府観光港に接岸した。
一旦別府に降り、夕方までの時間を港の近くにある「河童の湯」という温泉の銭湯でのんびりとすることとした。
入浴、休憩後別府観光港に戻り、十八時に関西汽船に乗船、十九時に出帆し帰路へとついた。

                      (この章終わり。7-1に続く)
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