散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

食卓の文化/囲碁大会

2013-10-28 08:29:05 | 日記
2013年10月28日(月)

家の文化というものがあるとして、
わが家のそれは食卓の周りに成り立っている。

畑から、学校から、職場から、食卓に運び込まれ持ち帰られたものが、交換され共有され発酵して家族の気を養っているように思われる。

教会もまた食卓を中心に成り立つ。
主の晩餐、食卓の中央には十字架が立っている。

*****

とか言いながら、週末は目黒区報に載っていた囲碁大会に行ってきた。

これで三度めだが、どうやら分かってきたのは「勝ちたい」という気の薄いことである。
「勝負はどうでも良い」などとは言わない。碁には勝ち負けがあり、勝ちに到達するために合理的な手段の体系が「棋理」なのだから、勝ち負けを度外視することは碁そのものの否定でもある。
ただ、そういう大きな「勝負」と「この一局に何としても勝ちたい」ということとは少し違う。勝ちたいよりも上達したいのだ。
ことさら負けたいとは思わないけれど。

宮沢吾朗さんという天才肌の棋士がいる。
天才肌でありながら、タイトルには縁がないという一群の棋士のひとりである。
その息子さんが「さかなクン」で知られる宮澤正之だ。ネットでは既にタレント扱いだが、絶滅したとされていたクニマスの再発見に貢献したホンモノの魚博士である。

この宮沢ジュニアは幼少期に父の手ほどきを受け、プロ棋士を狙えるほどの棋力を育てつつあった。
ところが彼は相手が良い手を打つと、悔しがるどころか手を叩いて感心するといった具合で、およそ勝負へのこだわりというものがない。さかなへの愛が加速要因とすれば、勝負へのこだわりが減速要因となって、棋界には向かわなかったということらしい。
天才の子は天才だ。

さかなクンの天真爛漫には遠く及ばないが、僕にも若干その気(け)があって、対局中に無心に読みふけっている相手をふと眺めると、良い顔してるな、喜ばせてあげたいな、という気持ちがチラと浮かんだりする。
とはいえ負けるのは好きではないし、打つ以上は最善を尽くすのがマナーと考えて気合を入れるのだが、そういう作為で打てるのは1~2局がせいぜいなので、4~5局を打つ大会の場合は尻すぼみにパフォーマンスが落ちる。
運営側から時間を急かされることや、人が密集した会場の空気の悪さも、時間とともに急速に気持ちを萎えさせる。

このぐらいで言い訳は十二分、結果は1勝3敗でした。
だけど今回は、すごく嬉しいことがいくつかあったのだ。
(続く)



小説家の面白さ/南部と織田/サウルとダビデ/奢り・驕り・傲り

2013-10-27 07:22:50 | 日記
2013年10月27日(日)

ラジオ体操の後、日曜の朝は「著者に聞きたい本のツボ」だ。

山本文緒が15年ぶりの長編「なぎさ」を発表したというんだが、僕はこの作家を知らない。
それでも聞いているうちに何だか引き込まれた。

「登場人物の誰それは・・・と考えているんだと思います」
といった表現は、作家は当たり前にするけれど面白いことだ。
書き手のつくりだした登場人物が、書き手から離れて固有の運動を始め、転じて書き手に語りかけてくる。
書き手はその言葉に耳を傾けて、記録する。
こんなことができたら、さぞ面白かろう。

いっぽうでは、
「こういう人(ここでは「地域の御隠居さん」)がいたらいいなと思って書きました」
と言ったりもする。
登場人物を送り出すところまでは、書き手の趣向次第なのだ。

司馬遼太郎が「小説を書くには、マヨネーズを作るほども厳密さが要らない」とどこかで語っていたな。
時代小説を書くに必要な膨大な考証を想像し、不思議な気持ちがしたものだ。

*****

「本のツボ」に続いては、「今日は何の日?」

1931年(昭和6年)の10月27日、南部忠平(1904-1997)と織田幹夫(1905-1998)がそれぞれ世界新記録を出した。南部は三段跳び、織田は走り幅跳びである。
以下は Wiki から。

【織田幹夫】
1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックでは日本選手団の主将として出場するとともに、8月2日に行われた三段跳決勝の2回目に15m21cmを記録し日本人初の金メダルを獲得した。(注:アジア人としても個人競技初。)なお、金メダルは銀台金張メダルなのが規定のはずだが織田が受賞したメダルは銅台金張メダルである。1931年(昭和6年)、早稲田大学を卒業し朝日新聞社入社。同年10月27日、当時の三段跳の世界記録(15m58cm)を樹立した。

【南部忠平】
1931年(昭和6年)10月27日には神宮競技場(東京)で走幅跳7m98(+0.5)の世界記録を樹立。この記録は相当にレベルが高く、70年以上を経た2013年現在でもいまだに日本歴代13位に位置している。故に40年近く日本記録として残り、1970年(昭和45年)6月7日に小田原市城山陸上競技場で山田宏臣(東京急行電鉄)が8m01を跳ぶまで破られなかった。現在でもこの記録をマークすれば、日本選手権優勝もあり得る。当時は土の助走路でスパイクも旧式であった。現在のタータン(全天候型トラック)と最新のスパイクの性能を考えると、いかに南部の記録が突出していたかがわかる。

・・・1931年のこの日に出た世界記録については、織田が三段跳び、南部が走り幅跳びである。
しかし、1932年のロサンゼルス五輪で南部が金メダルを取ったのは、三段跳びだった。
つまり、アムステルダムとロサンゼルスの二大会連続して、日本人選手が三段跳びのチャンピオンになったわけだ。

織田は広島県、南部は北海道の出身とある。
生まれ年は一年違いで、没年も同順の一年違い。競技が重なっているばかりか、同学年で早稲田大学陸上部の僚友でもあった。南部は大阪毎日新聞の運動部長を勤め、織田は朝日新聞。何かと比べてみたくなるし、比べられたことだろう。

Wiki の織田の項に、「同学年の南部忠平とは、早大時代から兄弟よりも仲がいいと言われ、お互い切磋琢磨し大きな業績を残した」とある。まことに祝福された友人だ。

そこであらためて、円谷と君原を思う。
彼らも祝福され得たはずだった。

*****

中高生にダビデ即位の話。

2週間前、サウルが王位に就く話を小学科で担当した。
何が同じで何が違うか。

二人とも無名の若者の中から神に選ばれて玉座に登った。
いずれも人間的な魅力と弱さをもち、美徳とともに悪徳を帯びていた。
ただ、サウルは己を神とする誘惑に打ち勝てず、ダビデはこの誘惑からは終始、身を遠ざけていられたのだ。

しかし、それも人が自分では選べないものだとしたら・・・

*****

「奢る」ことと「驕る」こと、字の違いが面白い。
前者は物質的な浪費、後者は情動における慎みのなさを想像させるが、それでいいのかな。

もうひとつ、「傲り」もあった。
尊大・傲慢、権力をほしいままに行使する」ことか。

三者にして一体か。
王侯貴族だけの弊ではない。

三男の偉大な先輩

2013-10-26 18:12:26 | 日記
2013年10月26日(土)続き

わが家の三匹の子豚たち、小学校はみな地元の区立へ通った。
おかげで12年間にわたり、この学校の運動会を楽しむことができた。

中学からはそれぞれ別の道を辿り、それが良かったようである。
三男は家の目の前にある区立中学校の三年生。
1973年にここへ引っ越して以来、グラウンドから聞こえる中学生や先生方の声を楽しんできた。
当時はクラスが多く、生徒はグラウンドを分け合って野球やサッカーをやっていたが、今は2クラスだけで統廃合の候補に挙がっているらしい。残念だな。

「学校があってうるさい」というのは僕には分からない。喜ばしいことだ。
うるさくて困るのは竿竹屋に廃品回収車、選挙演説車、仕事にも何もなりはしない。
生徒らの声も、通学路に面した戸建てなどは大変だろうけれど。

さて、のんびりした地元中学校に今日はちょっとしたニュースあり。
地域に開放して行われる学習発表会に、今を時めく森田泰弘氏が講演に訪れたのだ。
誰かって?

9月14日にイプシロンロケット打ち上げに成功した、JAXAのプロジェクト・リーダーだ。
何と三男の通う区立中学校の卒業生なんだよ!

***

講演の内容は、くどくど書くよりも下記を見た方が早い。
スライド画像も大半はそこにあるものだが、ロケットの打ち上げって何であんなに感動的なのかな。
http://scienceportal.jp/HotTopics/technofront/15.html ← テクノフロント
http://www.youtube.com/watch?v=aLryF495Uc8 ← 打ち上げ動画

森田さんは上記サイトの写真にある通りの笑顔で、話も上手だ。
レベルを下げることなく、中学生に伝わる話を1時間半、生徒も保護者も聞きほれている。二日前の自分を考えて忸怩たる思いだが、それはこの際どうでも良い。

内容について印象的なのは、イプシロンロケットが世界の常識を覆すことの連続でここまで来たことだ。
「できるはずがない」「無理」と失笑され、笑った者を結果で笑い返すことを繰り返してきたのである。

日本のロケット研究は、まだレーダー追尾技術の(あるいは資金や設備の?)ない時代に始まった。
レーダーがないので高空に打ち上げられない。それなら地上で水平に打てば実験できるではないか。
ペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ ロケット開発の父」と呼ばれる糸川英夫(1912-99)の発想だそうだ。
森田さんは糸川の孫弟子にあたるが、この大先生には会ったことがないという。しかしその伝説はしっかり口承され、今も関係者の力となっている。

1970年に国産初の人工衛星「おおすみ」(世界で4か国目)を軌道に乗せたのは、ラムダロケット。
これに続くミューは打ち上げ後の誘導制御装置をもたず、当初は「風まかせ」と評されたが「斜め打ち上げ」と推力方向制御で問題をクリアした。その後着々と進歩を重ね、1997年に完成したMV(ミュー5)は世界最高の科学探査衛星用ロケットといわれて、森田さんにとっては分身のようなものだったという。
その分身が、主としてコストの問題で開発中止となった時、森田さんは「夢も希望もない状態」に陥った。そこから立ち直らせてくれたのは、大学院時代の恩師の一喝。
あらためて森田さんらは、「これまでよりも安くて性能の高いロケットを開発する」という無理難題に取り組むことになる。この難問への解答が、小型軽量・固体燃料・そしてモバイル制御として結実した。

僕にきちんと理解できているとは思えないが、モバイル制御のエレガンスは直感的に理解できる。


上記 web site の図4がこれ↑だ。
アポロ型と森田さんの呼ぶ従来のロケット打ち上げは、100人単位の関係者が大きなフロアを埋めて不眠不休の作業、熱気あふれるお祭り騒ぎだった。個人的にはこの風景が好きだったという森田さんらは、これをPC2台(1台でも行けるが、故障に備えて2台)とスタッフ8人にシェイプアップしてしまったのである。
8月27日、発射18秒前の「中止」判断は微妙な時間差に対する情報システムの過剰反応であったらしいが、考えようによっては機械の自動制御能力の一面を示したものでもあったらしい。

「固体燃料」については、僕も思い出すことがある。
ラムダロケットの失敗が続き、国産の人工衛星がなかなか上がらない。
こうしたことのひとつひとつに、皆が切ないような期待をかけていた時代だ。メディアも容赦なく失敗を責める。
ある日の「天声人語」だったように思うが、違っていたら申し訳ない。
固体燃料の実用化の難しさに失敗の原因を帰し、いつまで固体燃料にこだわるのかという趣旨の記事が載った。
ふぅん、そういうものかと思った子どもの記憶が今に残っていて、森田さんの口から「固体燃料」という言葉が出た時には驚いた。驚いてから感動した。
彼らは叩かれても信念を譲らず、こうして立派に開花させたのだ。

***

「くどくど書かない」とか言いながら夢中で再現してしまったが、こういう話なら森田さん、どこでもしている。
今日、この中学校でしか聞けなかった話。

1972年のミュンヘン五輪の男子バレーボールと言えば、僕らにとっては少年期の輝かしい思い出だ。
森田・横田・大古らの大砲を名セッター猫田が自在に起用し、「一人時間差」などの妙技を駆使して金メダルに輝いた。
優勝候補の筆頭ながら楽な道ではない、準決勝のブルガリア戦ではまさかの苦戦でセットカウント0-2、第3セットも4-7まで追いつめられてから見事に逆転したのである。

その優勝チームの中に、この中学校の卒業生が2人も入っていたのだ。
木村憲治と嶋岡健治、二人のケンジがそれである。
大会後に嶋岡が母校を訪れ、金メダルを見せてくれた。
中学校時代の嶋岡が「オリンピックで金メダルを取りたい」と公言していたことを恩師が話してくれた。
森田少年は、自分も自分の金メダルを取りたいと思った。

「皆、自分の夢を見つけて、自分の金メダルを取ってください」

それが講演の締めくくり。
今年度生徒会長の三男は、感謝の言葉を壇上で伝えた後、もくろみ通り森田先輩に握手してもらい、御満悦で帰ってきた。

***

森田さんは二学年下のようだから、僕らがここに移ってきた時には中学野球部のメンバーとして、眼下のグラウンドを駆け回っていたはずである。
そうそう、森田さんは東京の生まれ育ちなのに、なぜか熱烈阪神ファンなんだって。

退席する森田さんに、通りすがり一瞬の質問。

「ポジションはどこだったんですか?」

「中学はキャッチャー、高校ではファーストでした」と返事が返ってきた。

「田淵のファンだったんですよ。」


(http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/otherballgame/2011/09/09/post_17/)


台風/攻撃者との同一化/S&S

2013-10-25 22:58:38 | 日記
2013年10月26日(土)

雨の朝、台風27号通過中。

古い記憶がよみがえる。
前橋から松江へ引っ越した昭和40年の秋、確か台風27号の接近で集団下校したことがあった。松江市立内中原小学校へ転校直後のことだ。
ネットで調べてみても、しかし27号は出てこない。
その代りこの年は、23号から25号まで強い台風が3つ続いて上陸・接近し、全国的に甚大な被害を生じている。記憶違いかな。
ともかく当たり年だったのだ。ただし9月10~18日にかけて、まさしく二百十日、二百二十日の頃だ。

今年も当たり年だが号数を比べるとずいぶん遅く、数としては少ない。
それが何を意味するか、すぐにはわからない。

*****

水曜日、CATの雑談の中で「日本の右翼がアメリカ大好きの不思議」に話が及んだ。

右翼というのは国粋主義なんだから、自国以外はすべて潜在的な敵と見るのが基本姿勢だ。
たいへんわかりやすく、一貫している。
だから、かつてのソ連や現在の中韓を敵視することに不思議はないけれど、いっぽうで敗戦以来ほぼ常に親米的であることが、良し悪しはさて置きよく分からない。
「明治以来の日本の基本路線は親英米で、第二次大戦前後の30年ほどが例外だったのだ」というのは理屈であり、経緯はともかくこの国を焦土に変えたのがアメリカだったことは、否定しえない事実なので。
理屈ではなく素朴な心情に訴えるのが、国粋主義の身上であるはずだし。

**

今朝の天声人語が特定秘密保護法案の国会提出に触れ、「その一面を荒っぽく言うなら、米国からもらった情報を守るために自国民を罪に問う法」だと表現した。
前振りに、米国の情報機関が同盟国であるドイツの首相の携帯電話を盗聴した疑惑のことが記され、「メルケル首相が怒ってオバマ大統領に直接抗議した」と紹介されている。

「安倍首相の携帯は大丈夫か」との質問に、「まったく問題ない」と官房長官が強調したそうだが、これは大笑いだ。何がおかしいかって?

もしもメルケルの携帯は盗聴するが、安倍の携帯はお構いなしというのであれば、「まったく問題ない」のではなく、「まったく問題にされていない」のである。日本はドイツと違ってナメられているということを、自ら認めるようなものだ。
むろんアメリカは日本をナメているが、およそ気を許してなどいないから、メルケルを盗聴して安倍を盗聴しないはずがない。
盗聴されても、アメリカに睨まれるようなことを何も言ってないから「問題ない」という意味かな。

「怒ってオバマ大統領に直接抗議する」ような首相を、僕らはいつになったらもてるだろうか。

**

精神分析のマクロ適用は「あり」だと書いた。
さっそくの活用例、キーワードは「攻撃者との同一化 identification with the agressor」だ。
これは使えるよ。日常生活でも国際政治でも。

*****

考えてみれば、名前を伏せる話でもないか。
木曜日に講演に行ったのは東京女子大である。

同校がキリスト教ミッション校であることは、意外に知られていないかもしれない。
というか、自分が知らなかったのだ。
同校の英語名称は Tokyo Woman's Christian University、「1910年のキリスト教世界宣教大会(エジンバラ)における決議に基づき、北米のプロテスタント諸教派による援助を受けて開設された」とある。
特定教派の単独ミッションによる設立学校の多い中で異色である。

初代学長は新渡戸稲造(1862-1933、学長 1918-1923)、Service と Sacrifice を組み合わせた校章は新渡戸の創案だそうだが、彼は1920年から国際連盟事務次長となり、ジュネーヴに赴任するため短期間で職を離れた。
実質的には二代目の安井てつ(1870-1945、学長 1923-1940)の薫陶が影響大であったという。
治安維持法により共産党員として検挙された卒業生・在学生を慰問したこと、開戦直前まで政府の圧力に抗してアメリカやカナダの恩人たちと交流を保ったこと、戦時中も同じく圧力に抗して英語専攻部を閉鎖しなかったことなど、気骨をうかがわせる逸話がいろいろある。

・・・などとは付け焼刃のネット勉強で、今回は6月の信徒講演を聞いた東京神学大学のT先生が、東京女子大の宗教主任をつとめる奥様に御推薦くださったのだった。
同校は春と秋に「宗教週間」を設けており、秋の部の学生への講演を拝命したという次第。

女子大というところは、足を踏み入れるのも落ち着かない。
バス停を降りて正門を入ると、見あげたところに「宗教週間」と大書されていて一瞬クラッと来たが、心のこもった歓迎を受けて正気をとり戻した。
スタッフの出身母体は日本基督教団のほか、バプテスト、ルーテル、カトリックなど多彩で、建学の趣旨を引きつぐエキュメニカルな雰囲気が嬉しいことである。会話の端にも日頃の和気藹々たる様子がうかがわれる。
きれいに手入れされた中庭が、和風の緑を洋風に配して美しい。
それを取り囲む建物は1930年代から30年代創建のもので、いたずらに屹立することなくじっくり落ち着いてそこにある。
図書館など新しい建築群はキャンパスの左奥に広がり、古きと新しきが調和を保って同居しているようだ。

講演後に案内されたキリスト教センターは、かつて安井学長の居館であったとのこと。
暖炉の横にリードオルガンが置かれた居間が、今も会議室として使用されている。
学生が一人、「授業と重なって講演には出られなかったので」と尋ねてきた。日頃から出入りし、先生方に可愛がられているらしい。
放送大学に移る前の勤め先のスクラップ&ビルド路線を思い出し、何かと比較するところがあった。

講演?
まあそれは、用意して行った話をしてきたということで。
後で要旨を学内報に載せると聞いて、原稿のないのを申し訳なく思った。
録音から文字に起こすのはたいへんな手間なので。

女子大生たちは行儀よく、ただ、反応が乏しくて笑うはずのところで静まり返っているのは、僕などにはやりづらいところだ。私語や遅刻は、これなら少ない方か。
しきりにメモを取っている姿があるのは、授業扱いで出席レポートでもあるのかな。
フロアに降りていって、「ぶっちゃけ、どうよ?」と訊いてみたい気持ちが一瞬あったが、それでは宗教講演が台無しだ。

治安維持法の昔、あるいは学園紛争の時代と比べても、学生たちは幼くなったのである。
そういう僕ら中高年は、果たして成熟しているだろうか?



Service and Sacrifice




核不使用声明/台風接近中

2013-10-25 06:29:29 | 日記
2013年10月25日(金)

昨日はけっこう気疲れしたようで、午前の講演から午後の診療を回って帰宅した後は、一杯やって寝てしまった。
違った、寝る前にPCと碁を打ち、負けに負けてクサって寝たのだ。

その間、世間ではドラフト会議、ヤクルトは国学院の杉浦投手獲得で小川監督が興奮気味。

王座戦第一局、挑戦者は張栩九段。超難解なねじり合いを井山が制した。
今週は月曜日に天元戦第一局があり、やはり井山が秋山に勝っている。
注目する秋山次郎八段が挑戦者になっていたこと、ファンなのに気づかず恥ずかしい。
殺人的なスケジュールの中で勝ち続ける井山は立派だが、独り勝ちを許しては棋界の進歩がないよ。
秋山がんばれ、張栩がんばれ!

天声人語を読んで、わが国が核不使用声明にようやく調印したことを知る。遅すぎた朗報だ。
ただ、核の廃絶が通常兵器の是認につながるなら、この種の努力の意味は失われてしまう。
「化学兵器が禁止されたって、銃や爆弾で殺されるなら何も変わらない」
シリアの市民が呻いている。

いよいよ台風接近、郷里でも、大洲や新居浜で避難勧告が出たらしい。

皆が無事でありますように。