一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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明恵とアッシジの聖フランチェスコ

2007-02-25 08:29:59 | Essay
明恵(みょうえ、1173 - 1232) とほぼ同時代、キリスト教の宗教者にアッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d'Assisi, 1182 - 1226)という人がおりました。

この人、やはり明恵と同様に、信仰一途、清貧に暮らし、かつ自然との一体感を抱いた宗教者だったことから、明恵所縁(ゆかり)の栂尾(とがのお)高山寺とアッシジの聖フランチェスコ教会とは、1986年から兄弟教会となっているとのこと。

それより何より、クラシカル音楽好きの方には、リストの『小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ』やメシアンのオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』で知られているでしょう(明恵にも、島に手紙を書いたというエピソードや、修行中の彼を小鳥や栗鼠が囲んでいる画像が残されている)。

さて、この『小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ』というお話、出典はおそらく『黄金伝説』(『レゲンダ・アウレア』、"Legenda Aurea")辺りだろうと見当をつけてみたのですが、まだ直接当ってはいません。
ただ、どうやら簡単な伝記が、『黄金伝説』にはあるそうなのですが、そこに「小鳥に説教する……」という件(くだり)があるのかどうか。

少なくとも、このエピソードが、『聖フランシスコの小さな花』"I Fioretti di San Francisco" なる書にあることは、定かなようです。

同様なエピソードを持つ宗教者には、パドバの聖アントニオ(1195 - 1231)という人がおりまして、こちらはマーラーが『子どもの不思議な角笛』で「魚に説教するパドバの聖アントニオ」という形で取り上げている(こちらの出典に関しては、未調査)。

ここで小生、疑問に思うのは、キリスト教の場合、「小鳥」にしろ「魚」にしろ、人間でないものに対して説教をするという行為が、いかなる意味を持つのか、ということです。

仏教の場合だと「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」ということばから分るように、アニミスティックな考えもあるのね。ですから、明恵が、小島や小鳥、栗鼠との一体感を持ったとしても不思議はない。
けれども、反進化論でも分るように、キリスト教では、人間と他の存在との間には、はっきりと一線が画されている。

となると、小鳥や魚に説教した聖人たちは、どうなのでしょうか。聖人になったことから思うに、異端としての考えを持っていたはずがないでしょう。
となると、民衆レベルでの伝説・伝承なのでしょうか(『黄金伝説』は、そのような性格が強い)。それとも、説教はしても、彼ら小動物に伝道しようという意図はなかったのでしょうか。

小生、キリスト教に関して知るところが少ないので、詳しい方からのご教示をいただきたいところであります(リストやマーラーは、作曲するに当って、どう考えていたのでしょうか)。

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